philosophy compassの記事
自然言語の「おそらく」「かもしれない」など確率表現の意味論。主としてprobably(おそらく)の意味論だった。
http://philpapers.org/rec/YALPO
Yalcin, Seth (2010). Probability Operators. Philosophy Compass 5 (11):916-37.
- 1. 序
- 2. 背景仮定
- 3. 相対的尤度アプローチ: Kratzer
- 3.1 概要
- 3.2 相対的尤度説の利点
- 3.3 相対的尤度説の欠点
- 4. 可能性空間アプローチ: Hamblin
- 5. 確率空間の意味論
- 6. スケールと他の可能性
- 7. スコープの相互作用
- 8. 埋め込みの可能性
「おそらくp」は「p」と違って、pは真とは言い切れないが真でありそうとかそういうことを意味している。
重要な問題として、「おそらく」は確率に関わるのか、それとも何かしら別の順序に関わるのかが議論される。
前半では、命題間に順序を入れるアプローチ、後半では確率を付値するアプローチが解説される。著者は確率がいいのではないかと言っている。
直観的には、「おそらく」にはいくつかの推論が認められる。例えば以下は認められそうだ。
おそらくφ
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確率バージョンの意味論の単純なやつだと、信念や会話の前提に対する確率の割り当てがあって、pの確率が0.5より大ききれば「おそらくp」は真となる。
「おそらくφ」から「φでないことはおそらくない」の推論を認めたいので、確率0.5は重要になる。
ただ閾値は文脈で変動するし、0.5未満でもいいケースがあるのではないかという話がなされていた。
例えば、合計100個のくじで、太郎が40個、他60人が1つずつくじをもっているケース。この場合「おそらく太郎が勝つ」は真のように思われる。なにしろ太郎はかなりの量のくじをひとりで持っているのだから。しかし太郎が勝つ確率は0.5より低い。
一方、合計100個のくじで、太郎が40個、次郎が60個くじをもっている場合。「おそらく太郎が勝つ」は偽のように思われる。なにしろ次郎の方がくじをもっているのだから。
しかしどちらのケースでも太郎が勝つ確率は同じである。このように確率が変わらなくても、選択肢集合として何が考慮されるかで、「おそらく」の閾値が変化するように思われる。著者は確率関数と世界の集合を評価環境に入れるような意味論を提案している。
あとあげられていたデータでおもしろかったのは、上は言えるけど、下は言えない。「かもしれない」は何かしらの心的態度を表象しているように見えるが、普通の態度動詞とは違うふるまいをするところもある。
- 雨が降っているが、自分はそれを知らないとジョンは想像している。
- # 雨が降っているが、雨が降っていないかもしれないとジョンは想像している。