Williamson『知識とその限界』三章「素であること」

Knowledge and Its LimitsKnowledge and Its Limits


Knowledge and Its Limits三章まで読んだ。
三章がおもしろかったのでまとめる。すいませんが難しいです。

信念と真理とあと何か

本書、特にその前半で、ウィリアムソンは「知識は心の状態である」という立場を擁護している。
古典的な「知っている」の分析は、何かを知っているという状態を、「何かを信じている」という内在的な条件と、「真である」という外在的な条件と、そこにあと何かを付け加えることで成り立つものと見なす。知識は、内在的な条件と外在的な条件の混合で、その内在的なファクターは信念であるとされてきた。しかし認識論の歴史のなかで、その「何か」が何なのか、答えを見つけた者はいなかった。
『知識とその限界』は、その「何か」は永遠に見つからないよ、探すのはもうやめようよ、という本。

知識とは心

ウィリアムソンの立場は、信念に何かを付け加えて知識を分析するのは不可能だというもの。そうではなく、知識は、信念と同じように、心の状態のひとつである。これは心についての外在主義を押し進めた立場で、心の内容だけではなく、その態度も、外的な環境要因に左右される。
外で雨が降っていると私が知っているとしよう。この私の知識は、部分的には気候のような環境要因によって特徴づけられる。しかしだからと言って、私の知識が私の心の一部でなくなるわけではない。
知識はプライマリーな心の状態のひとつで、私たちは、信念や正当化によって知識を分析すべきではなく、むしろ知識によって信念や正当化を分析すべきである。これが有名な知識優先アプローチknowledge first aproachと呼ばれるもの。

素であること

三章では、知識の条件の内から、内在的な条件を切り出すことは不可能だという議論がなされる。内在的な条件と外在的な条件の連言によって知識を定義することはできない。Cを何らかの条件とし、Dを内在的な条件(人の内的な物理的状態)、Eを環境に関する条件としよう。C = D ∧ EとなるDとEがあるならば、Cは合成的である。そうでないならば、Cは素[prime]である。ウィリアムソンは、知識を含むほとんどの心理状態は素であるという議論をしている。
ここでの敵は、心についての内在主義。知識を含むほとんどの重要な心の状態は、環境に依存したものだというのがウィリアムソンの言い分だ。


先に事例を見よう。
私は、友人からの証言によって、選挙で不正がなされたことを知る。

ケース1:
私は太郎を信頼している。太郎は信頼できる人である。太郎は選挙の不正を証言し、私は信じた。
私は次郎を信頼していない。次郎は信頼できない。次郎も選挙の不正を証言したが、私は信じなかった。

ケース2:
私は次郎を信頼している。次郎は信頼できる人である。次郎は選挙の不正を証言し、私は信じた。
私は太郎を信頼していない。太郎は信頼できない。太郎も選挙の不正を証言したが、私は信じなかった。

上の二つのケースでは、私が信頼している人と信頼できる人が一致しており、結果として私は信頼のおける証言によって知識をえる。
さて、今私の知識に関して、DとEがあるとしよう。Dは内在的条件なので、ケース1と内的に類似した他のケースでも成り立つ。Eは外在的な条件なので、ケース2と外的に類似した他のケースでも成り立つ。では、合わせるとどうなるか。

ケース3:
私は太郎を信頼している。太郎は信頼できない。太郎も選挙の不正を証言し、私は信じた。
私は次郎を信頼していない。次郎は信頼できる。次郎も選挙の不正を証言したが、私は信じなかった。

ケース3では私は信頼できない証言に頼っており、知識をえることができない。しかし、ケースの作り方からして、もしDとEなる条件があるならば、DとEはここで成り立っていなければならない。しかしこのケースでは知識を得られない。よって、DとEなる条件はない。ウィリアムソンは類似のケースをたくさん作っている。
ちなみにこれ、信念などにもまったく同じ議論が構成できて、信念や知覚も素である。


なお、上のようなケースでは、内在的条件と外在的条件が独立に変化しうることが想定されている。この仮定に問題があるのではないかという批判はありえるが、両者が独立でないという批判は、内在主義にとって自分の首をしめることになりかねない。それはもはや心が環境から独立していないと認めたようなものではないか。

細かい話

DとEの指定の仕方だが、実はこれは一意に決まる。以下潜在的Cは内的条件、環境的Cは外的条件とする。数行で説明しても絶対わからないと思うが一応書く。

潜在的C
ケースaで潜在的Cが成り立つ iff ケースaと内的に類似したケースbがあり、ケースbでCが成り立つ。
環境的C
ケースaで環境的Cが成り立つ iff ケースaと外的に類似したケースbがあり、ケースbでCが成り立つ。

内在的条件Dと外在的条件EがC = (D ∧ E)をみたすならば、 (D ∧ E) と (潜在的C ∧ 環境的C)は同値となる。

(D ∧ E) ならば (潜在的C ∧ 環境的C)の証明。ケースaで(D ∧ E) 、つまりCが成り立つとしよう。潜在的Cはケースaと内的に類似したすべてのケースで成り立つのでケースaでも成り立つ。環境的Cについても同様。
(潜在的C ∧ 環境的C)ならば(D∧E)の証明。ケースaで (潜在的C ∧ 環境的C)が成り立つとしよう。定義よりケースaと内的に類似したケースbがありbでCが成り立つ。よってケースbでDが成り立つ。Dは内的条件なので、ケースaでも成り立つ。Eについても同様。

これで何が示されたのか

少なくとも、知識を、単純に、独立な内的条件と外的条件の連言で定義するのは無理だろう。これはウィリアムソンの議論で十分に思われる。
それ以上の何が示されたのかは、まあ難しい。内在主義にとって、これがどのように効いてくるのか。
知識から内的ファクターを切り出せるという時に、そういう論者が想定しているのは内的状態のトークンなのだと思う。そこでは内的状態のトークンは、元々措定されていた知識と同じ因果的役割を果たすと期待されている。
しかし、ウィリアムソンはこれも否定する。「Aは獲物の弱点が喉だと知っていたので、うまくしとめることができた」という説明を考えよう。この説明を損なうことなく、説明項から知識を削除することはできない。知識は変化に対して頑健であり、真理を追跡する。知識は知る者の能力を保証する。
例えば、獲物の弱点が喉だと信じている条件のもとで狩に成功する確率と、獲物の弱点が喉だと知っている条件のもとで狩に成功する確率は異なる。そうだとすれば内的条件には、知識と同じ因果役割を担うことはできない。


こんな感じで、ウィリアムソンは「知識は心ではない」という批判をひとつずつつぶしていく。普通に思いつくような批判にはだいたい答えが書いてあるので、おもしろいよ。