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スタンフォード哲学事典「直観」

Intuition (Stanford Encyclopedia of Philosophy)

Joel Pust, Intuition - PhilPapers

Pust, Joel (2012). Intuition. Stanford Encyclopedia of Philosophy.

直観に興味あるので読んだ。ここで言う直観というのは、思考実験などを検討する際に出てくる哲学的直観のこと。トロリーケースや双子地球ケースなど架空の事例を読み、「これは道徳的に正しい行為か?」「この人はこの事柄について知っているか?」と問われる際、直観について聞かれているとされる。

(「直観」という言葉にはもっと広い意味があり、幾何学的直観や、医療のプロが直観で患者の状態を見分けるといったものもある。しかしそれらは、この記事のスコープ外になっている。個人的には、哲学的直観と他の直観をあまり区別しても仕方ないような気がするが……)。

直観とは

直観とは何かについてはだいたい以下の3つが検討される。

  • 直観は信念だよ説
  • 直観は信念への傾向だよ説
  • 直観は「そうであるっぽい感じ」だよ説

「直観」という言葉を単に信念や意見の意味で使う人もいる。前理論的に信じられている常識的な信念といった程度の意味だ。

しかしこの言葉の普通の使い方はこれだけではない。例えば、信じてはいないが、直観的な言明というのはある。パラドックスを構成する言明のどれも直観的だが、すべてを信じれば矛盾するということもある。また、直観は、信念への傾向であるという人もいる。この説だと信じていない直観もあるというのはある程度捉えられるが、直観が傾向性であるとすると、直観が顕在的に意識に現われるという側面はうまく捉えられない(例えば、哲学的事例のことなど何も考えておらず、ただ眠っている場合にも直観をもっているのか? 傾向性ならばもっているだろう)。

一部の人たちは、直観は独自の心的状態であり、「そうであるという感じseeming」であるとする。例え実際には信じていないとしても、正しそうな感じは打ち消せないこともある。この感じが信念と区別される直観にあたる。知覚そのものは信念ではないが、知覚が信念に根拠を与えるように、直観もまた信念の根拠を与えるとされる。例えば何らかのケースを見て「このケースは知識と呼べないっぽい。この人は知識をもってない感じがするぞ。だからこの人は知識をもっていないのだ」というときに、直観が信念の根拠を与えている。

直観懐疑論

後半では、哲学的直観への懐疑論が検討される。近年は、直観を使った議論にきびしい批判がつきつけられ、直観そのものの正当性が疑問に付されている。

この記事では、いくつかの直観懐疑論が検討されるが、それらは大雑把には、直観というのは信頼できない能力であり、正当化の役割を果たさない。そのため直観に頼る多くの哲学的議論は正当化されないといったものだ。

これに対し、著者は直観懐疑論にいくつかの条件を課す。

  • 直観懐疑論は全般的懐疑論になってはならない。
  • 直観懐疑論をしめす論証に直観をつかってはならない。

まず直観懐疑論は単なる懐疑論であってはならない。単なる懐疑論が問題であるとすれば、それは直観の問題ではなく、人間はそもそもなぜ知識や信念の正当化をえられるのかという問題になってしまうからだ。また直観が信頼できないという議論に直観を使えば自己破壊的になる。

どちらもまっとうな制約であるとは思うが、このふたつのハードルは高い。特に直観を使ってはいけないというのは難しい。全般的懐疑論にならずに直観への懐疑を定式化するには、信念の正当化に関する細かな原理を提出しなければならない。しかし信念の正当化に関する原理を直観を使わずに正当化するというのはわりと難しいからである。

反対に直観の擁護も直観を使わざるをえないので循環的になりがちではある。

感想

おおよそどのような議論であれ、ある程度の常識的信念を前提せざるをえない。この種の常識的信念も直観と呼ばれがちだ。また人間はときに明示的ではない推理を使って判断するのだが、この無意識の推理も直観と呼ばれたりする。どちらも問題ないケースもあれば、問題あるケースもあるので、すべてをひっくるめて一概に直観がいいとか悪いとか言うのは難しいのではないかなと思った。まる。