Jonathan Ichikawa「思考実験の直観とフィクションにおける真」

http://philpapers.org/rec/ICHTIA

思考実験とフィクションの比較は、思考実験の方からフィクションの認知的価値を考えようという方向もあるのだが、これはフィクションをモデルに思考実験を考えるもの。短かった。

  • 1. イントロダクション
  • 2. ウィリアムソンの議論
  • 3. 反応
  • 4. フィクションにおける真
  • 5. フィクションを区別する
  • 6. 最後のポイント

ウィリアムソンは『哲学の哲学』の中で、思考実験の論理形式を、反事実的条件法によって分析している。
Ichikawaによれば、ウィリアムソンの分析には「思考実験の直観が必然的なものでなくなる」「思考実験の直観がアプリオリなものではなくなる」という問題がある。


ウィリアムソンの議論は以下のようにまとめられる。
なお、これについては以前にも書いたのでだいぶ省略する。
http://d.hatena.ne.jp/at_akada/20140409/1397041746


まずゲティアケースの思考実験について、素朴な定式化は以下のようになる。

  • 1. xが命題pについて、ゲティアストーリーのようであることは可能である。
  • 2n. 必然的に、xがpについてゲティアストーリーのようであれば、xは正当化された真なる信念を持ち、しかもそれは知識ではない。
  • 3. 正当化された真なる信念であり、知識でないものを持つことは可能である。


ところが、2nは偽である。ゲティアケースのようでありながら、特殊な条件のために正当化された真なる信念かつ知識でないもの(NKJTB)ではないケースがありえるから。
以前書いた事例を再度引用する。

太郎は古本屋から高値を出して、かつてヴァージニア・ウルフが所有していたという本を購入した。太郎は「自分がかつてヴァージニア・ウルフが所有していた本を持っている」と信じている。さらにそれには古本屋の証言という根拠もある。
ところが、この古本屋は詐欺師であり、この本はヴァージニア・ウルフとは何の関係もないものだった。
ところが、太郎の蔵書の内、古本屋から買った件の本と別の本が、偶然にもヴァージニア・ウルフがかつて所有していたものだった。つまり、「自分がかつてヴァージニア・ウルフが所有していた本を持っている」という太郎の信念は、(その根拠とは特に関係なく)真なのである。

ここで、「何であれこの記述を満たすもの」がゲティアケースだと考えると、例えば、上記に加えて「この古本屋は有名な詐欺師であり、太郎はそのことを知っていた」という設定を追加したものも(書いてあることはすべて満たすので)ゲティアケースである。
しかし、この設定を追加すると、太郎の信念は、信頼できない証言に基づくから、正当化されていない。ゲティアケースの内には、意図された結果が成り立たない、まずいケースが存在するのである。
そこでウィリアムソンは2nをあきらめ、反事実的条件法を用いた定式化を採用する。結果として、思考実験は偶然的なものになる。


Ichikawaはこれに対し、フィクションの哲学の考え方を導入し、テキストとストーリーを区別するすべきだという。「フィクションにおける真」の考え方からすれば、ストーリー上で成り立つことは、テキストに書いてあることだけではない。例えば、登場人物の腕が二本であることはわざわざ書いてないが、成り立つだろう。
フィクションにおける真の考え方でいくと、まずいケースのような解釈は排除される。
この考え方だと、思考実験の直観が必然的なものであることは守れる。
また、フィクションにおける真をウォルトンのように捉え、テキストとフィクションの生成規則から、フィクションにおける真を知ることができると考えよう。この立場でいけば、フィクションにおける真をアプリオリに知ることができそうだ。