C.S.I. Jenkins, Masashi Kasaki「アプリオリについての伝統的捉え方」

https://dl.dropboxusercontent.com/u/2480139/TraditionAPriori13.pdf

感想:
ウィリアムソンの『哲学の哲学』は読書会などで読んでるところなので、興味深く読んだ。ウィリアムソンを読むと説得されてしまうが、アプリオリな知識の特徴づけが狭すぎるのではないかと聞くと、そういう気もしてきた。

  • 1. イントロダクション
  • 2. ウィリアムソンの批判
  • 3. 批判への最初の応答
  • 4. ウィリアムソンとカント的伝統
  • 5. 可能にする役割と証拠となる役割


ウィリアムソンは、アプリオリ/アポステリオリという区別を批判した。ウィリアムソンの議論は、アプリオリな知識を「経験が可能にする役割を果たすもの」(「可能にする役割」は難しいが、経験によって言葉の意味や概念の適用方法を知っているだけで知ることができる知識というくらいの意味のようだ)、アポステリオリな知識を「経験が証拠となる役割を果たすもの」と捉えた上で、どちらでもない知識が山ほどあることを示すというものだ。ウィリアムソンによれば、アプリオリ/アポステリオリという区別は浅薄で、重要な認識論的洞察をもたらさない。
ウィリアムソンが問題視するのは、経験によって身につけたスキルを使い、想像から新しい知識を得るケースだ。例えば、インチとセンチの変換規則を知らなくても、想像によって「2インチは30センチより短い」と知ることはできる(頭の中で2インチと30センチをイメージして比較する)。こうした知識は典型的にアプリオリでも典型的にアポステリオリでもない。
ウィリアムソンによれば、「何かを知っている人はそのことを信じてもいる」とか「緋色のものは赤い」のような、伝統的にアプリオリな知識とされてきたものも、こうした想像による知識の事例でありえる。


この論文は、ウィリアムソンの批判にあたる。前半は、アプリオリな知識にウィリアムソンが割り当てている「経験が可能にする役割を果たす」という特徴づけが批判される。アプリオリな知識における経験の役割はもっと積極的なものであってもいい(Jenkinsは、経験が概念を基礎づけるということを認めたいらしい)。また、想像による知識の事例をアプリオリな知識一般に広げようとするウィリアムソンの議論には様々な問題がある。
後半では、カントは、ウィリアムソン同様に、想像が、直接的な経験を越えた知識を得るために役割を果たすと認めていたと指摘している。カントはアプリオリな知識においても、想像が積極的な役割を果たすことを認めていた。少なくとも、カントのフレームワークでは想像の積極的な役割とアプリオリな知識は矛盾しない。
また、認識論の様々な議論で、経験が証拠や根拠以外の役割を果たすことは認められてきた。それを受け入れれば、アプリオリな知識においても、経験が証拠や根拠以外の積極的な役割を果たすことを受け入れられる。ウィリアムソンはこうした可能性を不当に無視しているのではないか。