Paisley Livingston「哲学としての映画に関する近年の仕事」

Livingston, Paisley (2008). Recent work on cinema as philosophy. Philosophy Compass 3 (4):590-603.

philpapers.org

「映画に哲学ができるか?」というテーマには、意外と蓄積があって、これはPhilosophy Compassサーベイ論文。 皆様ご存知のように、映画には哲学的テーマを扱ったものがたくさんある。これらは独自の哲学的貢献をなすと考えられるべきなのか?

目次

  • 映画には「哲学する」ことができるか?
  • 作者と意図
  • 解釈のプロジェクトのタイプ
  • 解釈の戦略と哲学としての映画に対する含意
  • 哲学としての映画の強い主張の問題点

この論文のメインの貢献は、映画が「哲学する」と言われる場合には、様々なパターンがあるとして、解釈の種類をわけている部分。著者は以下のような解釈のタイプを区別している。

  1. 実際の製作者が哲学的問題を扱うことを意図している場合
  2. 解釈者が補助線を引いて、著者が意味しえたことを展開する場合
  3. 映画を、何らかの哲学的立場を具体化したものとして扱う場合

非常にベタな例だが、『マトリックス』を観れば、懐疑論的状況について鮮烈かつ具体的に理解することができるだろう。あるいは、『ダークナイト』を観て、正義と悪の境界について、鮮烈かつ具体的に考えさせられるという人もいるかもしれない。

こういう解釈は多くの場合、解釈者が補助線を引いて自分の解釈を読み込んだりするものだ。あまりに牽強付会だと、映画をダシに自分の話をしているだけになってしまうが、作品解釈というのはしばしば一定程度の読み込みを必要とするものだし、一種の「見立て」のような解釈も、映画の解釈としては別に変なものではない。

また、映画独自の貢献を考える場合、単にストーリーやわかりやすい寓意だけではなく、重要なのは、映像・編集・音楽・舞台装置・演技といった部分。この論文では「映画は映画独自の手法で哲学的貢献を果たすことができる」という主張は「強い主張bold thesis」と呼ばれている。著者は強い主張には懐疑的なようだが、映画は抽象的な哲学的主張を具体化し、鮮烈な経験として理解させてくれるという部分は認めている。

感想

おもしろいのはやっぱりビジュアルや音楽や編集など、非言語的手段によるアイデアの表現という部分だ。私は、非言語手段でも哲学的アイデアを伝えられるという強い主張に賛成なのだが、難しいのは、これを認めるには、哲学理解もちょっと変えないといけないというところだ。哲学というのは、単に知識を与えるだけではなく、世界はどのようであるのかという理解を与えるものでもあると考えれば、映像は、世界の見方を表現し、哲学的アイデアを表現できると考えても別に変ではないと思う。

例えば『マトリックス』で言えば、あれが懐疑論の映画なのは当たり前で、それよりバーチャル世界でチートで活躍したいという鮮烈な欲望に気づかされることなどが大事なのではないか。ダウンロードしたカンフースキルで戦う映像とか、キアヌ・リーブスのチート感なしにそれを表現することはできないわけだし。