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Bernard Williams「想像と自己」

Bernard Arthur Owen Williams, Imagination and the Self - PhilPapers

Williams, Bernard Arthur Owen (1966). Imagination and the Self. Oxford University Press.

ウィリアムズの有名な想像力に関する論文。最近ウォルトンの翻訳を読んでいて、そういえばこれを読んでいなかったなと思いだしたので読んだ。

フィクションとは何か―ごっこ遊びと芸術―

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Problems of the Self: Philosophical Papers 1956?1972

Problems of the Self: Philosophical Papers 1956?1972

ここでウィリアムズは、想像に関する2つの問題をとりあげている。それぞれ「バークリー問題」「ナポレオン問題」と呼ぶことにする*1

バークリー問題

これはバークリーの観念論擁護の議論を、ウィリアムズが想像の問題として再定式化したものにあたる。

元々のバークリーの議論は、「誰にも見られていないもの」というアイデアには矛盾があるというものだが、ウィリアムズはこの問題を「なぜ、誰も見ていないという設定のものを、思い描くことができるのか?」という問題として捉え直した。

  1. 例えば、誰にも見られていない木を思い描くことができるだろう。
  2. しかし、思い描くとは、それを見ていると想像することではないだろうか。
  3. 誰にも見られていない木を思い描くことが、見られていない木を見ているという想像であるとすれば、それは矛盾した想像だろう。

もちろん、想像の内容が矛盾するということはありえるわけだが、誰も見ていない木を思い描くということは、矛盾した想像ではないように思われる。この点で、この最後の結論は奇妙だろう。

ウィリアムズは、想像をいくつかの種類にわけることでこの問題に答えている。

1つめ。視覚型想像。何らかの光景を思い描く。光景は当然、特定の視点から見られたものだが、その想像の中に自分が登場する必要はない。例えば、次のような想像は可能だろう。誰もいない荒野に野犬の群れがいて、最初は空から群れを見下ろしている。しだいにその中の一匹がクローズアップされる。

2つめ。参加型想像。想像の中に自分が登場し、何かをしているところを想像する。自分が野球選手になってホームランを打つ。ボールが向かってくるところや、バットの感触を想像する。

3つめ。混合型想像。自分が何かをしているところを外から見ているように想像する。例えば自分がホームランを打つところを観客席から見ているといった想像がこれにあたる。

何かを思い描くことが、「見ていると想像する」ことであると言えるのは、視覚型想像の意味にかぎられる。これを参加型想像と混同してはならない。もし、誰も見ていない木の想像が、参加型想像であり、自分が想像の中で木を見てるのであれば、それは矛盾だろう。しかし、視覚型想像であれば、その想像の中に自分が登場すると考える必要はない。

したがって、何かを思い描くことが、「自分が見ている」という想像であるというのはかなり誤解を招く表現である。何かを思い描くとき、「自分がこれこれの地点から見ていると想像した」ということは、「カメラはこれこれの地点にあった」という程度の意味しかない。

ナポレオン問題

こちらは古典的な問題だと思うが、最初に誰が言い出したのかは知らない。

  • 私がナポレオンであると想像することは可能だろう。
  • 従って、私がナポレオンであることは論理的に可能だろう。

私がナポレオンであるという想像自体はごく普通のものだし、「誰も見ていない木」と同様に特に矛盾はないように思われる。しかし、この結論は奇妙なものだ。もしこれを認めるなら、ナポレオンであることも可能であり、現実の私の特徴を持つことも可能であるような「私」とは一体何なのか。

この「私」は、特定の身体や記憶や心理的連続性によって同一性を与えられるようなものではない。「私がナポレオンであったら」という想像において、ナポレオンは私の身体も私の記憶も持たないかもしれない。

ひとつの説明は、「デカルト的自己」とでも呼ぶべきものを認めることだ。私のデカルト的自己は、現実には、この特定の人であるが、それはナポレオンでもありえたかもしれない。デカルト的自己は、何らかの経験的特徴によって同一性を与えられるようなものではなく、無特徴の点のようなものとして端的に存在する。

ウィリアムズは、この議論に反対する。デカルト的自己は必要ない。私がナポレオンであるという参加型想像が意味するのは、現実の私がナポレオン役を演じることだ。現実の私が、ナポレオンを表象する。これに必要なものは、現実の私という人間と、ナポレオンの二つだけであって、デカルト的自己という第三のものは必要ない。

感想

虚構の語り手やビデオゲームのプレイヤーと結びつけて考えるとおもしろい話のような気がした。例えば、ポケモンGOは、プレイヤーの参加型想像と、「このアバターが私である」という想像を含んでいる。

*1:バークリー問題の方は、実際、ウィリアムズの論文以降「バークリーのパズル」と呼ばれ、想像に関する問題のひとつとしてよく取り上げられる。