- 作者: T. M. Scanlon
- 出版社/メーカー: Belknap Press
- 発売日: 2000/11/15
- メディア: ペーパーバック
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『われわれがお互いにすべきこと What We Owe To Each Other』の二章*1「価値」を読んだ。
目次
- 序
- 目的論
- 価値: いくつかの例
- 価値の抽象的説明
- 快楽説の影
- 人間の(または合理的な)人生の価値
価値のバックパッシング説明で有名な箇所。ここでスキャンロンは大きく二つのことを言っている。
- 価値の目的論的理解の批判 / 価値づけの多元論の擁護
- 価値の理由への還元 / バックパッシング説明
目的論的理解の批判
スキャンロンは自分が批判する立場を価値の目的論的理解と呼ぶ。目的論的理解というのは、以下のような立場だ。
- 何かが良いということは、それを促進すべきであるということだ。
もっと具体化すると、
- 良さ/悪さは、事態がもつ性質である。
- ある事態が良い(悪い)ということは、その事態を実現させる(させない)方がよいということだ。
これは一見トリビアルに正しそうに見える立場なのだが、スキャンロンに言わせればまちがっている。上記のような立場をとるとき、人は、価値づける(valueする)ことの多様さを忘れてしまっている。
例えば、友情に価値を見出すことは、「世界の中にできるだけたくさんの友情を発生させるべきだ」と考えることではない。「友人関係を増やすためには何でもする! たとえ友人を裏切ってでも……」と考える人は、(少なくとも通常の意味で)友情に価値を見出していない。もちろん、友情に価値を見出す人は、友人をつくることや友人関係を維持すること望むだろうが、友情に価値を見ることの中には、友達との約束を守るとか、友人が病気になれば見舞いに行くとか、落ち込んでいればいたわるとか、多様な種類の行為・態度を支持することが含まれる。後者を「友情を促進すること」の価値に還元することはできない。
スキャンロンは、おそらく「Xを価値づける」のがどういうことであるのかは、Xの種類によってまったく異なると考えている。本論では、豊富な例によってこれが説明されている。科学の価値、友情の価値、ファンであること(fanship)、芸術の価値、生の価値等々。この辺はなかなかおもしろい。
ファンであることを価値づける人々もいる。つまり、この人たちは、ファンであることが人生をより良く、より楽しく、より興味深いものにすると考えるのだ。この人たちはまた良いファンであることは重要だという風にも考えるだろう。例えば、推しているスターが出るすべての映画をできるだけ早く観ることや、スターが誰かに批判されたときに擁護することには良い理由があると考えるし、たとえ遠くからであっても、直接スターを観ることはすばらしいことだと考えるだろう。私が提案している価値の理解では、ファンであることに価値がないと考えることは、単に、これらの理由が良い理由ではないと考えること、あるいは少なくとも、人生の形成においてそれらに重きをおく人はまちがっていると考えることだ。反対に、ファンであることや友情が価値あるものだと考えることは、それを価値づけることに伴う理由が良い理由であると考えることであり、それゆえ人生の形成においてこの概念に重要な位置を与えることは適切であると考えることなのだ。pp. 89-90
目的論的理解によれば、何かが「良い」ということは、おおむね「それを促進すべきである」ことと同一視される。スキャンロンの立場だと、何かが「良い」ことは、むしろ「それをリスペクトすべきである」みたいなことを意味する。リスペクトの仕方はものによってかなり異なる。例えば、科学に価値を見出すことは、自然に対する好奇心などにリスペクトをもつことだ。ファンであることに価値を見出すことは、良いファンであろうとすることだ。
バックパッシング
その上でスキャンロンは価値のバックパッシング説明を擁護している。これによれば、何かが良いということは、おおむね以下のように分析される。
Xが良い iff Xを肯定的に価値づける理由(Xに対して適切な肯定的態度をとる理由)を与えるような他の性質がある。
バックパッシング説明によれば、良さそのものは理由を与えない。遊園地に行く理由を構成するのは、〈楽しさ〉、〈行く手段の手軽さ〉、〈値段の安さ〉などといった性質である。しかし〈楽しさ〉〈手軽さ〉などに加えて、さらに、遊園地に行くことの〈良さ〉が、遊園地に行く理由を与えると考えるのはおかしい。「遊園地は楽しいし、簡単に行けるしー、良いしー」というのはおかしい。遊園地に行くのが良いというのは、行く理由があるということを別の仕方で述べているだけであって、〈楽しさ〉と〈良さ〉は同じレベルにはない。
この立場だと、価値に関する事実は、理由に関する事実に還元される。スキャンロンは、価値より理由の方が根本的なんだという立場をとる。
バックパッシングと、価値づけ多元説は独立した立場なのだが、スキャンロンはその両方を擁護しており、まとめると、価値というのは、多様な形の理由を与えるようなものだという感じなようだ。
*1:What We Owe To Each Otherの訳「おたがいさまであること」というのも考えたのだがどうか。