Joel Isacc『働く知識 - パーソンズからクーンまでの人間科学の制作』

Working Knowledge: Making the Human Sciences from Parsons to Kuhn

Working Knowledge: Making the Human Sciences from Parsons to Kuhn

ジョエル・アイザックWorking Knowledge: Making the Human Sciences from Parsons to Kuhn(『働く知識 - パーソンズからクーンまでの人間科学の制作』)を読んだ。著者の専門は社会思想史だが、歴史的アプローチで20世紀北米の人文科学・社会科学の研究をしている。以前このブログでは、この著者のデイヴィドソンと行動科学についての論文を紹介した。私もあまり知らなかったが、最近は20世紀の分析哲学史のような比較的新しい領域も、哲学者ばかりではなく、歴史よりのアプローチで研究が進んでいるようだ。

この本も一部は哲学者を扱うが、分析哲学史の本というわけではない。対象は、ハーバード複合体(Harvard Complex)、つまり20世紀のハーバード大学周辺で形成されていた研究者共同体とそこにおける知的伝統を扱った本だ。心理学者や社会学者を扱った章もあり、学術史(インテレクチュアルヒストリー)としか言いようのない内容になっている。

非常に情報量が多く、扱う範囲も幅広い本なので紹介は困難だが、本書のインパクトを紹介するために、エピローグから引用しよう。

近年の研究は、「驚くべき」、直観に反するように見えるつながりを、クワインとカルナップの間、クーンと論理経験主義者の間、(クリフォード)ギアーツとパーソンズ的行動科学者の間に見出している。しかしそれらの発見が驚くべきものになっているのは、実証主義とポスト実証主義の認識論的対立という叙事詩的歴史によって、私たちの想像力が制約されているからだ。p.236

よくある通俗的歴史観によれば、ヴィラードクワイン、トマス・クーン、クリフォード・ギアーツといった著者たちは、前世代の「科学主義」「客観主義」「実証主義」「行動科学」を批判し、「ポスト実証主義」の時代を作ったのだと言われている。しかし、これらの著者たち──論理経験主義(論理実証主義)の一部、クワイン、クーン、パーソンズ、ギアーツ──はむしろ皆、ハーバード複合体というひとつの知的伝統に属するというのだ。

ハーバード複合体

本書を通じて強調されるハーバード複合体の特徴は以下の2つだ。

  1. 「隙間の学術界interstitial academy」
  2. 科学的哲学scientific philosophy

著者が「隙間の学術界」と呼ぶのは、学科組織からはみだした学際的な研究ネットワークのことだ。20世紀前半のハーバードでは、非公式・半公式の領域横断的なグループがいくつも形成され、横断的な研究の土台となった。論理経験主義者(論理実証主義者)のサークルもそのひとつだ。

「科学的哲学」は、そこに根付いていた知的伝統を指すために著者が使用している語だ。正直この本を読んでもそこまでピンときていないのだが、基本的には〈認識論〉〈科学の研究法〉〈科学の教育法〉をひとつの問題として捉えるような知的伝統のことらしい。「科学哲学(philosophy of science)」という領域が専門分野としてまだ確立しきれていなかった20世紀前半に、マッハ、ポアンカレ、ジェームズのような科学者に人気のある哲学者と、科学者の自然発生的哲学が混ざりあってできた知的潮流と言ってもよいかもしれない。

L. J. ヘンダーソン

アイザックの言うハーバード複合体を象徴する人物をあげよう。それがL. J. ヘンダーソン(ローレンス・ヘンダーソン)だ。おそらくそこまで有名な人物というわけではないし、私はこの本を読んではじめて知った。

だが、ヘンダーソンはハーバードの人脈上のハブとなる人物だ。本人は生化学者だが、生涯を通じて科学哲学や社会科学に興味をもった。パレートの社会学に魅了され、パレートを読む私的なゼミを開催していたが、この集まりには、経済学者のJ.A.シュンペーター社会学者のT.パーソンズ、R.K.マートン、G.ホーマンズなど戦後の有名社会科学者の多くが参加している。ヘンダーソンのパレートサークルは、アイザックの言う「隙間のアカデミー」の典型例のひとつだ。

パレートサークルは、ハーバードの社会科学者たちに「システム」「平衡」「機能」といった語彙を流行させた。またヘンダーソンは、論理経験主義の哲学者やクワインとも交流をもっている。クワインは後年「概念枠組」という語を、「L. J. ヘンダーソンを経由してパレートから受けついだ」と告白している*1。ハーバードにホワイトヘッドを呼んだのもヘンダーソンだ。また疲労研究所を設立し、ホーソーン実験にかかわり、科学教育の一貫として、ハーバードに科学史の講座を導入した。後には、ヘンダーソンが作った科学史の講座から科学社会学のR.K.マートンやトマス・クーンが登場してくる。

本書には、このヘンダーソンのように「何が専門なのかよくわからない」領域横断的な人物がさまざま登場する。確立した専門分野という観点から見れば、どこかうさんくさく感じられるが、こういう人々が新しい分野を作ってきた、あるいは少なくともそれが受け入れられる土壌を作ったというのはよくわかるような気もする。

各章の紹介

各章の登場人物とキーワードを紹介しておく。本書では、ヘンダーソンのパレートサークルの他、行動主義心理学者たちのサークルや、論理経験主義(論理実証主義)者のサークルが紹介される。

時代的には、1章が前史で19世紀末から20世紀初頭、2-4章が20年代から30年代、5-6章が戦後の展開を扱っている。

主な登場人物 隙間の学術界 キーワード
1章 歴代学長?
2章 L. J. ヘンダーソン パレートサークル
ソサエティオブフェローズ
ケースメソッド
3章 P. ブリッジマン
S. S. スティーブンス
B. F. スキナー
心理学者たち 操作主義
新行動主義
4章 W. V. クワイン 科学の科学ディスカッショングループ
間科学ディスカッショングループ
理経験主義
5章 T. パーソンズ レベラーズ
社会関係学部
行動科学
カーネギー理論プロジェクト
6章 T. クーン パラダイム

目次

  • プロローグ: いかにしてパラダイムは作られるか
  • 1章 隙間の学術界: ハーバードとアメリカンユニバーシティの興隆
  • 2章 ケースの制作: ハーバードパレートサークル
  • 3章 科学の制作者は何をしているのか? : 操作主義の回遊
  • 4章 根源的翻訳: W.V.クワインと論理経験主義の受容
  • 5章 レベラーズ: 世界大戦から冷戦の間のハーバード社会科学者たち
  • 6章 革命の教訓: 科学史科学社会学、科学哲学
  • エピローグ: 大いなる脱埋め込み

*1: Quine, W. V. (1981). Theories and Things. Harvard University Press. p.41