Puolakka, Kalle (2019). Novels in the Everyday: An Aesthetic Investigation. Estetika 56 (2):206-222.
日常美学(エヴリデイエステティクス)の観点から、小説を読むことの経験を扱った美学論文。当然ながら、コンスタントに小説を読む読者にとって、読むことは日常のルーチンの一部だが、この論文では、ピーター・キヴィの文学の哲学を援用することで、日常(エヴリデイ)の一部としての「読むこと」を扱っている。
元のキヴィの著作は、実際にはこの論文とはまったく別の文脈にある問題を扱う著作なのだが、著者はそれを応用して小説の読書経験の分析に使うという方針をとっていて、ややアクロバティックだが、おもしろかった。
小説を読むことのエヴリデイネスと、読むことのパフォーマンス
The Performance of Reading: An Essay in the Philosophy of Literature (New Directions in Aesthetics)
- 作者:Kivy, Peter
- 発売日: 2008/11/03
- メディア: ペーパーバック
現代の読者にとって、小説はひとりで黙読で読むことが当たり前になっている。だが、これは歴史上比較的新しい出来事で、かつては物語は口誦され、複数人で楽しむことが当たり前の時代もあった*1。一方キヴィ(およびこの論文の著者プオロッカ)は、現代の黙読もまた、かつての朗読と同様に、パフォーマンス(上演芸術)の一種として捉える。
黙読をパフォーマンスと捉える理由は、読むことには一種のスキルという側面があるからだ。小説を楽しむには、想像で場面を再現し、小説の内なる声やリズムに自分を調和させる必要がある。小説の読者は、日々のルーチンの一貫として、新しい挑戦に挑み、新しい作家やジャンルを試し、時には失敗し、時には成功する。
さらに現代的な黙読は、孤独で親密な自分のための時間と捉えられる。多くの読者は眠る前に、ベッドの上で、自分だけの密やかな読書の時間を楽しむ。日常のルーチン的な経験には、平凡さとともに、もう少し積極的な意味、例えば災害の際などに失なわれてしまうような、安全や安心の感覚が伴う。コンスタントに小説を読む読者にとっては、小説を読むことは、まさに大切な日常の一部としてのルーチン的な経験の典型と言えるだろう。
つまり、読書は、ルーチン的経験であり、エヴリデイネスの重要な部分を含むが、一方で、しだいに上達し、深化する蓄積的な側面ももっている。この両者の側面を含むことで、小説を読むことは、日常生活の中で重要な地位をえている。
中断しながら読むこと
Once-Told Tales: An Essay in Literary Aesthetics (New Directions in Aesthetics)
- 作者:Kivy, Peter
- 発売日: 2011/05/17
- メディア: ハードカバー
また、キヴィはOnce-Told Talesという著作で、小説の読書は中断しながら読むことを前提としているという論点を扱っている。著者は、この中断の経験の積極的な意味についても論じており、日常生活の合間に、中断しながら小説を読むことは、日常生活に独特のムードや雰囲気をもたらすと捉えている。
(キヴィの扱っている中断の話はなかなかおもしろく、もう少し詳しく紹介したい気もするが、長くなったのでこの辺で)
*1:この辺の黙読の歴史の話は、近年は異論もあるらしく、キヴィが著作でちょっと紹介していたが、細かい話は忘れてしまった。