「神経科学に触発された人工知能」

仕事の関係もあって、人工知能ディープラーニングに関連する論文は結構読んでいるのだが、たまにはこのブログでも紹介しようかなと思ったので紹介することにする。と言っても、あまりに専門的なものはわかりやすく紹介できる自信がなかったので、比較的マイルドなレビュー論文にした。

Hassabis, Demis & Kumaran, Dharshan & Summerfield, Christopher & Botvinick, Matthew. (2017). Neuroscience-Inspired Artificial Intelligence. Neuron. 95. 245-258. 10.1016/j.neuron.2017.06.011.

https://deepmind.com/research/publications/neuroscience-inspired-artificial-intelligence

神経科学インスパイアドAI」というタイトルがついているが、これはDeep Mindの研究者たちによる、神経科学から人工知能研究への影響のレビュー論文だ。

初期の人工知能の研究は神経科学や心理学と密接に絡み合っており、先駆者の多くは両方の分野にまたがっていた。しかし最近は相互作用はそれほど一般的ではなくなっている。一方、このレビューでは、神経科学の重要性を主張している。ただし、「神経科学」という語はものすごく広義に使うと宣言されており、おそらく神経科学だけではなく心理学や認知科学も含まれている。人間や動物の知能に関する研究をまとめて「神経科学」と呼んでいるようだ。

AI研究に得られるメリットとして著者らがあげるのは、以下のふたつだ。

それぞれ科学哲学で言うところの「発見の文脈」「正当化の文脈」と言えなくもないかもしれない(ただし、後者は正当化の文脈と言うには弱いし、正当化の文脈にはほとんど関わらないというところがむしろこの種の影響関係の特徴かもしれない)。

もちろん人工知能をつくる上で、生物学的な妥当性にそこまでこだわる必要はない。工学的には動くことが重要であって、生物的妥当性は手段にすぎない。この意味で、生物学的妥当性はあくまでもガイドであり、厳密な要件ではない。

また、著者らは、ここでデイヴィド・マーによる生物学システムの理解のための「3つの分析レベル」を参照した上で、人工知能に関わるのはもっぱら「計算論的レベル」と「アルゴリズムレベル」といった、抽象的な機能のレベルだけであると述べている。

  1. 計算論的レベル: システムのゴール
  2. アルゴリズムレベル: ゴールを実現するためのプロセスと計算
  3. 実装レベル: 生物学的基盤の上でアルゴリズムを実現するメカニズム

このレビューは「過去」「現在」「未来」という3つの項目にわかれているので、以下でもこれに沿って紹介していく。

過去: 深層学習と強化学習

現在のAI研究にとって極めて重要な2つの分野、深層学習と強化学習の起源は、どちらも神経科学にある。深層学習はニューラルネットワークの手法のひとつであり、言うまでもなく「ニューラルネットワーク」は神経科学由来だ。さらに、深層学習で使われる多くの技法、例えば、現在でも画像処理でよく使用される畳み込みニューラルネットワーク(CNN)は哺乳類の視覚野の研究に触発されている。また、ドロップアウトなどの、正則化のための技法も、神経科学からヒントを得たものだ。

また、現代のAIの第2の柱は、「強化学習」であるが、これはもともともと動物学習の研究に着想を得ている。 特に、強化学習の領域で使用されるTD学習(時間差分学習)は、動物の条件づけ実験の研究と密接に関わっていた。動物の学習の研究にヒントを得て、AI研究でTD学習が提案され、それが実験心理学にフィードバックを与えたという流れもあったらしい。

現在

現代のAI研究は、神経科学との関わりが薄れているが、それでもいくつかの領域では神経科学に触発された例が見られる。著者らは、以下の4つの例をあげている。

  1. アテンション(注意機構)
  2. エピソード記憶(Experience Replayなど)
  3. ワーキングメモリ(LSTMなど)
  4. 継続学習

正直、この辺で触れられている技術については「それはこじつけでは?」というものもないではない。例えばAIにおける「アテンション」というのは、行列に対するある種の演算を「アテンション」と呼んでるだけなので、人間の注意機構とは、言うほど共通性がないのでは?と思う。アテンションによって情報の取捨選択が可能になり、人間や動物の認知に似た処理が可能になるというのはわからないでもないが。

また、著者らは、強化学習におけるExperience Replayがエピソード記憶に相当すると言う。しかし強化学習におけるExperience Replayって、単にゲームのプレイログを蓄積して学習に使うだけなので、これが「エピソード記憶」に似ているかというのも疑問。だが、詳細を読むと、実際Experience Replayは、哺乳類の学習メカニズムに関する理論にインスパイアされているし、さらに強化学習で使用される「優先度付きExperience Replay」に相当するものが、哺乳類の脳にもあるかもしれないといった対応関係もあるのだそうだ。

未来

AIと神経科学の交流が有望であり、重要な領域として、著者らは以下をあげる。

  1. 物理世界の直観的理解
  2. 効率的学習
  3. 転移学習
  4. 想像と計画
  5. 仮想脳分析

1はAIに物理世界のメンタルモデルを構築させようというやつ。AIに時間とか空間とか対象などの基礎概念を身につけさせると楽しいね。最近話題の「世界モデル」などもこの一種かもしれない(この論文より後に出た論文なので、ここでは紹介されていない)。

2と3は、少ないデータで効率的に学習させたり、汎用的なスキルを身につけさせる。動物学習や発達心理学で研究されてきた「学習の学習」(メタ学習)が、強化学習でも使われている。

4はAIにシミュレーションと行動計画をさせる。この辺は人間や動物の脳からヒントを得られそう。

5は、「神経イメージング」など神経科学による解析ツールを、ニューラルネットの解析にも利用するというアイデアらしい。

最後に、「神経科学からAI」だけではなく「AIから神経科学」への影響もあるよということで、強化学習におけるTD学習がその後動物学習の研究でも使用されるようになった例や、機械学習で広範に使用されるバックプロパゲーションが動物の脳にもあるかもしれないといった研究が紹介されている。

『失われた時を求めて』を読み終わった

ついに『失われた時を求めて』の最終巻である14巻を読み終わった。記録によると、2019年4月1日に1巻を読み終わっているので、およそ1年ちょっとの間、読みつづけていたらしい。ちなみに前半は光文社古典新訳文庫、後半は岩波文庫で読んだ(光文社版はまだ6巻くらいまでしか出ていないはず)。

つらい戦いだった。正直言ってこれまでの読書人生の中での最難関と思うくらいにはつらかった。何がつらいかというと、途中までまったくおもしろさがわからなかったことだ。8巻くらいでようやくコツをつかみ、それ以後は楽しく読めるようになったのだが、そこにいたるまではまったくおもしろさがわからず、本当につらかった(むしろその状態で8冊も読んだという我慢強さに感心してほしい)。

何がつらかったか。ひとつには趣味の問題がある。小説というものを、仮に、「何が起こったか(出来事)」と「それに対して何を感じたか(思念)」の2つの構成要素に区別することが可能であるとすると、プルーストの場合、両者の割合は出来事対思念が1対9であり、圧倒的に思念の側に分量が割かれる。『失われた時を求めて』は出来事を描く小説ではなく、思念の小説である。だが、わたし自身は、どちらかと言えば、小説には出来事を描いてほしいと思う(なんだったらヘミングウェイやチャンドラーのように即物的に出来事だけ書いてほしい)。したがって、とにかく出来事が起こらないこの小説になじむのは大変だった。

もちろん、出来事が起こらないと言っても、前半の方は、少年時代のエモいエピソードも数々あり、「スワンの恋」や「花咲く乙女たちのかげに」などの恋愛のエピソードもあって、ふりかえって考えれば読みやすい方だったと思う。

それ以上に輪をかけてつらかったのは——これは読んだ人の多くが同意してくれるのではないかと思うが——パーティの場面だ。「ゲルマントの方へ」などのパーティがつづく部分は本当につらい。そこで主に描かれる主題は、「何とか伯爵夫人が自慢話ばかりしていておもしろい」「何とか公爵夫人の言い回しが変わっていておもしろい」といった話題だ。

ひょっとすると、当時の読者には「あるある」的なおもしろさがある描写なのかもしれないが、19世紀フランス社交界のあるあるを語られても、まったくピンと来ない。おもしろい言い回しの話も、「普通こういう場面ではleを使わないのに、leを使っているからおもしろい」といったフランス語の話なので、まったくピンと来ない。さらにそれが本一冊分くらいはつづく。

この辺りで、挫折しそうになったので、対策を立てようと思い、鹿島茂『「失われた時を求めて」の完読を求めて』を読んだが、これを読んだのは正解だったと思う。おかげでプルーストの手の内がある程度わかるようになり、だいぶ読みやすくなった。

私の考えでは、『失われた時を求めて』には「イメージと実態のズレ」「嫉妬」「時間」という3つくらいの主題があって、それが手をかえ品をかえ、さまざまな形で登場するのであるが、参考書を読んだおかげで、何となくその辺りの関係がつかめるようになった。

思うに、プルーストの重要な魅力のひとつは、「よく考えるとすごく普通のことしか起きてないのだが、語りを読んでいるうちに、何かすごいことが起きているような気がしてくる」という観念の詐術にあると思う。起きていることも言っていることも、よくよく考えると普通のことなのだが、プルーストの観念的な語りによって、いつの間にか、超越的で観念的な世界に高められるのだ。

例えば、『失われた時を求めて』の中で繰り返されるモチーフのひとつに、「イメージと実態のズレ」に関するものがある。これは要するに「名前や顔だけを見て、イメージがふくらんでいたが、実物を見たら思ったより普通だったのでがっかりした」という話で、本書では非常に重要なモチーフのひとつで、語り手は、人であれ土地であれ、とにかくさまざまなものにイメージをふくらませて、その後幻滅することになる。これなども、起きている現象はよく考えるとすごく普通のことだし、プルーストが書いているのでなかったら別におもしろい話にもならないような気がするのだが、プルーストが書くと、ふくらんだイメージのイデア的な崇高さ・近づきがたさが高められ、何かすごいことが起きているような気分になる。

また、このふくらんだイメージの極限に、「嫉妬」という状態があって、この状態に陥ったスワンと語り手は、「恋人に裏切られているのではないか」という妄想にかられ、さまざまな奇行に走る。この辺りもプルーストの筆致だけ読んでいると、ものすごく観念的な話をしているように見えるのだが、実情としては、わりと下世話な話をしているのである。

小説の結末の方で、語り手は、友人の娘であるサン=ルー嬢という少女に出会う。そして、このサン=ルー嬢こそ、分かたれた二つの世界、「ゲルマントの方」と「スワン家の方」を結びつける存在——要するにゲルマント家とスワン家の両方の血縁——であることを見出して驚愕する。しかし、よく考えると、これは要するに近所の人二人が結婚して娘を生んだというだけなのである。

こういう書き方をすると、まるで文句を言っているかのようであるが、当然そんなことはなく、わたしは大変楽しんで読んだ。一度プルーストの語り口に乗ってしまえば、その観念の世界が展開していくのが楽しみになり、世界がプルースト的に見えるようになるという魅力のある小説である。

『判断力批判』の謎

カントの『判断力批判』という本は主にふたつの事柄について論じている。美的判断と、自然に関する目的論的判断についてだ。

だが、ここには大きな謎がふたつある。

  1. なぜ、『判断力批判』というタイトルの本で、判断一般についてではなく、このふたつの事柄を論じるのか。
  2. 特にこのふたつの事柄が選ばれた理由は何なのか。両者には何の共通性があるのか。

驚くべきことに、『判断力批判』という本を読んでも(少なくとも、さらっと読んだだけだと)、この謎の答えはわからないのだ。少なくともわたしは読んでもよくわからなかったので、実は何度もこの疑問の答えを調べようと思っていた。最近改めて調べて、ようやく半分くらいはわかったので、答えをまとめておこうと思う。書いておかないと、また忘れて調べるはめになりそうなので。

ちなみに、この疑問は、実は調べ方も少し難しい。『判断力批判』では、本の中でも、一部をのぞいてほとんど判断の話をしていない(美的判断の項目では、判断力という言葉自体ほぼ出てこない)ので、たとえばカントの美的判断論だけを追っていると、カントの美的判断論がなぜ『判断力批判』というタイトルの本に入っているのかよくわからないままになる。『判断力批判』は、美学の古典のひとつとされているのだが、美学の話だと思って読むと、後半なぜか生物学の話がはじまってびっくりする。

一方「判断」というキーワードで追おうとしても難しい。『判断力批判』では、判断一般の話はあまりなされていないので、「カントの判断論」みたいな解説を読んでも、『判断力批判』についてほとんど触れられていないのだ。わたしは当初、上記の疑問について調べようと思って、スタンフォード哲学事典の「カントの判断論」を読んだのだが、『判断力批判』の話自体がほとんどなされておらず、余計に混乱してしまった。

だが、改めて調べたら、スタンフォード哲学事典には「カントの美学と目的論」という項目もあって、こちらである程度解説されていた。

なぜ判断一般ではなく、このふたつの事柄を論じるのか

なぜ、『判断力批判』というタイトルの本で、判断一般についてではなく、このふたつの事柄を論じるのか。

この疑問は、ある程度までは簡単に答えることができる。というか、これはわりとちゃんと書いてあるので、まじめに読んでいればそれほど迷うようなことではないのかもしれない。

カントは判断力を規定的判断力反省的判断力にわけている。規定的判断力は、与えられた個物を与えられた概念に包摂する能力だ。個物を見て、「これは猫だな」と判断する場合は規定的判断力を使用している。『純粋理性批判』などで論じられている判断は、基本的にこちらの意味だ。

一方『判断力批判』では反省的判断力というものが導入されている。これは、概念があらかじめ与えられていない場合に、個物に対して、概念を発見してくる能力であるとされる。この説明だけだとわかりにくいが、反省的判断力の例としては、科学者が新種の生物を発見して分類する事例などが念頭に置かれているようだ。つまり、単に既存の原理を適用するのではなく、新しく原理を打ち立て、概念を新たに作り出すような場合にはたらくのが反省的判断力ということになる。

規定的判断力の場合、判断は、概念適用の能力である悟性の原理に従い、独立した力を行使するわけではない。一方、反省的判断力の場合は、もっと特別な能力が必要とされる。『判断力批判』は、主として、この反省的判断力の批判をターゲットとしている。

また、カントは、美的判断と、自然の目的論的判断には、どちらも反省的判断力がはたらいていると考えている。つまり、どうして『判断力批判』というタイトルの本で、判断一般の話ではなく、特別な判断の話をしているかというと、『判断力批判』は、判断が独自の能力を行使しなければならないような、特殊な事例(反省的判断力の事例)を対象としているからだというのが答えにあたるだろう。

なぜ美的判断と目的論的判断なのか

特にこのふたつの事柄が選ばれた理由は何なのか。両者には何の共通性があるのか

おそらく、この疑問の答えの一部は、「どちらも反省的判断力がはたらく事例だ」というものになるだろう。また、カントは、美的判断と、自然に関する目的論的判断の両方に対して「自然の合目的性」というキーワードを使っており、おそらく「どちらも自然の合目的性に関わる」という共通点もあるのだろう。

一方、反省的判断力がはたらく事例は、このふたつ以外にもありそうな気もするのだが、なぜこのふたつだけなのか、というとそれはよくわからない。

また、自然の合目的性という語が両者の事例で本当に同じ意味で使われているのかというと、それもよくわからない。「科学者が新種を発見した時に、自然が合理的にできていることを想定しつつ分類する」という事例と、「自然美を感じるとき、自然が秩序をもっているように感じられる」という事例が両方「自然の合目的性」と呼ばれているようなのだが、正直あまり同じ話をしているように見えない。スタンフォード哲学事典の記事によれば、この辺りは解釈者でも意見がわかれており、カントは「自然の合目的性」という言葉をふたつの意味で使っていると考える論者もいるらしい。

Mark Windsor「不安な話」

Windsor, Mark (2019). Tales of Dread. Estetika 56 (1):65-86.

「テイルズ・オブ・ドレッド(不安な話)」(Tales of Dread)は、ジャンル名なのだが、英語でも特にジャンル名として定着しているわけではない。元はと言えば、ノエル・キャロルが『ホラーの哲学』の中で、ホラーに似ているが、ホラーとは区別されるジャンルとして提示したのがはじまりだ。キャロル自身は、ホラーというジャンルを、恐怖と嫌悪を与えるモンスター(ドラキュラや幽霊など)の存在によって特徴づけている。一方、テイルズ・オブ・ドレッドは、「神秘的で、心をかきみだす超自然的出来事」を描くジャンルであるとされる。

おそらく、例をあげた方が早いだろう。ノエル・キャロルは、このジャンルの具体的な作品として、テレビドラマ『トワイライトゾーン』の多くのエピソードや、W・W・ジェイコブズの「猿の手」などをあげている。この論文の著者であるマーク・ウィンザーは、エドガー・アラン・ポーの短篇の多くや、最近のドラマ『ブラックミラー』やデヴィッド・リンチの作品をあげている。日本で言えば、ドラマ『世にも奇妙な物語』や、藤子・F・不二雄の異色SF短篇集に集められた多くの作品や、昔ジャンプで連載していた『アウターゾーン』などはこのジャンルに含まれるだろう。多くの場合、短篇または短篇のシリーズからなり、不気味な出来事が起こって、悲惨な結末で終わることが多い。「三つの願いをかなえるミイラがあって、欲を出して変なことを願ったために大変なことになってしまう」とか、「ある日目覚めたらパラレルワールドにいて誰も自分を覚えていない」とか、そういう類の話だ*1

ノエル・キャロルは『ホラーの哲学』の中で、通りすがりにこのジャンルに触れ、このジャンルはホラーとは別個の取り扱いを必要とするだろうと述べているが、それ以上議論を深めることはなかった*2。そこで、この論文の著者であるマーク・ウィンザーが改めて、このテイルズ・オブ・ドレッドというジャンルをとりあげたというわけだ。ちなみに、マーク・ウィンザーは「不気味とは何か?」("What is Uncanny?")という論文でフィンランド美学会のアーティクルオブザイヤーを受賞した、いわば不気味哲学界のホープであり、本論でも、その不気味論をいかし、不気味感情の面からテイルズ・オブ・ドレッドジャンルを扱っている。

不気味とは何か

マーク・ウィンザーによれば、不気味とは、起きるはずのないと思われる出来事に直面し、何が本当なのかわからなくなる現実喪失の感覚によって生まれる感情だ。

たとえば、物語の主人公が喋る動物に遭遇したとしよう。主人公があっさりと受け入れればただのファンタジーだが、主人公が受け入れず、自分がおかしくなったのではないか? もはや何が現実なのかわからないと不安になれば、その時に喚起される感情が「不気味」だ。

ウィンザーによれば、テイルズ・オブ・ドレッドというジャンルは、この不気味の感情を喚起するジャンルとして特徴づけられる。一般的なホラージャンルを規定する感情が恐怖と嫌悪であるのに対し、不気味さに特化したジャンルとしてテイルズ・オブ・ドレッドがあるというアイデアだ。

基本的なアイデアは以上だが、フロイトの「不気味なもの」論文や、トドロフの『幻想文学論序説』を丁寧に解釈して自分の説との関係を整理していたりなど、細かい部分もなかなかおもしろい論文だ。

*1:ちなみに、W・W・ジェイコブズの「猿の手」が、まさにこの三つの願いをかなえる不気味なミイラの話。これはその後何度もパクられて定番パターンになっているので多くの人が見たことがあるのではないかと思う。ジェイコブズの短篇自体も怪奇小説アンソロジーの定番になっている。

*2:実はキャロルはその後、テイルズ・オブ・ドレッドを扱った論考も書いているようで、ウィンザーもこの論考に触れているが、わたしは未読なのでここでは触れない。

Kalle Puolakka「日常の中の小説」

Puolakka, Kalle (2019). Novels in the Everyday: An Aesthetic Investigation. Estetika 56 (2):206-222.

日常美学(エヴリデイエステティクス)の観点から、小説を読むことの経験を扱った美学論文。当然ながら、コンスタントに小説を読む読者にとって、読むことは日常のルーチンの一部だが、この論文では、ピーター・キヴィの文学の哲学を援用することで、日常(エヴリデイ)の一部としての「読むこと」を扱っている。

元のキヴィの著作は、実際にはこの論文とはまったく別の文脈にある問題を扱う著作なのだが、著者はそれを応用して小説の読書経験の分析に使うという方針をとっていて、ややアクロバティックだが、おもしろかった。

小説を読むことのエヴリデイネスと、読むことのパフォーマンス

現代の読者にとって、小説はひとりで黙読で読むことが当たり前になっている。だが、これは歴史上比較的新しい出来事で、かつては物語は口誦され、複数人で楽しむことが当たり前の時代もあった*1。一方キヴィ(およびこの論文の著者プオロッカ)は、現代の黙読もまた、かつての朗読と同様に、パフォーマンス(上演芸術)の一種として捉える。

黙読をパフォーマンスと捉える理由は、読むことには一種のスキルという側面があるからだ。小説を楽しむには、想像で場面を再現し、小説の内なる声やリズムに自分を調和させる必要がある。小説の読者は、日々のルーチンの一貫として、新しい挑戦に挑み、新しい作家やジャンルを試し、時には失敗し、時には成功する。

さらに現代的な黙読は、孤独で親密な自分のための時間と捉えられる。多くの読者は眠る前に、ベッドの上で、自分だけの密やかな読書の時間を楽しむ。日常のルーチン的な経験には、平凡さとともに、もう少し積極的な意味、例えば災害の際などに失なわれてしまうような、安全や安心の感覚が伴う。コンスタントに小説を読む読者にとっては、小説を読むことは、まさに大切な日常の一部としてのルーチン的な経験の典型と言えるだろう。

つまり、読書は、ルーチン的経験であり、エヴリデイネスの重要な部分を含むが、一方で、しだいに上達し、深化する蓄積的な側面ももっている。この両者の側面を含むことで、小説を読むことは、日常生活の中で重要な地位をえている。

中断しながら読むこと

Once-Told Tales: An Essay in Literary Aesthetics (New Directions in Aesthetics)

Once-Told Tales: An Essay in Literary Aesthetics (New Directions in Aesthetics)

  • 作者:Kivy, Peter
  • 発売日: 2011/05/17
  • メディア: ハードカバー

また、キヴィはOnce-Told Talesという著作で、小説の読書は中断しながら読むことを前提としているという論点を扱っている。著者は、この中断の経験の積極的な意味についても論じており、日常生活の合間に、中断しながら小説を読むことは、日常生活に独特のムードや雰囲気をもたらすと捉えている。

(キヴィの扱っている中断の話はなかなかおもしろく、もう少し詳しく紹介したい気もするが、長くなったのでこの辺で)

*1:この辺の黙読の歴史の話は、近年は異論もあるらしく、キヴィが著作でちょっと紹介していたが、細かい話は忘れてしまった。

Mark Okrent, Intending the Intender:あるいは、なぜハイデガーはデイヴィドソンではないのか

Intending the Intender: Or Why Heidegger Isn’t Davidson,” in Heidegger, Authenticity, and Modernity: Papers Presented in Honor of Hubert Dreyfus, ed. M. Wrathall (Cambridge: M.I.T. Press, 2000).

ハイデガーデイヴィドソンを比較する論文。たまたま見つけたので読ん だ。 というかachademia.eduにHeidegger in Americaというタイトルでアップロードされていたのだが、これ違う論文なのでは? (読んでから気づいた)

著者によれば、ハイデガーデイヴィドソンの立場は実は類似しており、どちらもデカルト主義に敵対しており、行為との結びつきによって志向性を説明しようとする。

ここでいうデカルト主義は、次の主張を擁護する立場だ。(1)心は実体である。(2)あらゆる心的状態は意識的である。(3)状態は、意識的である場合にのみ志向内容をもつ。(4)意識的心的状態はその表象的性格のために志向的である。(5)心的状態において表象されるものは思考者に透明である。

この立場によれば、心は主体にとって透明であり、心的状態の内容は主に内省を通じて確定される。

デイヴィドソンハイデガーはどちらもこの立場に批判的であった。両者にとって、心的態度に志向的内容を与えるのは、行為との結びつきである。例えばデイヴィドソンにとっては、「今日は晴れている」といった信念は、他の行為や態度、例えば、「だから洗濯物を干そう」といった行為を合理化し、動機づけるかぎりにおいて、はじめてかくかくの信念たりえる。

一方ハイデガーにとっては、志向性の典型は、道具の使用であり、例えばハンマーをハンマーとして志向する際、わたしたちが示す態度は気づかいであり、気づかいを通じてわたしたちは環境や道具や道具の使用目的などと関わる。この態度が世界内存在としてのわたしたちを特徴づけている。

つまり、大雑把に言うと、どちらもデカルト主義を批判し、行為との関わりによって志向性を説明しようとしている。だが、ハイデガー独自の部分として著者は以下の論点をあげる。

著者によれば、デイヴィドソンは行為を扱う際に、目的合理性だけに訴えているが、ハイデガーは別種の規範性も扱っている。それは道具の使用に結びついた規範性であり、道具の「正しい使用法」に結びついたものだ。さらに道具の正しい使用法を参照することで、われわれは自分のアイデンティティも選ぶ。例えば、靴屋の道具を正しく使うことで、ひとは靴屋になる。これらはハイデガー独自の論点だろうと著者は主張する。

エドガー・アラン・ポー「アッシャー家の崩壊」

気軽に読んだ小説の感想などをもっと書いていきたいと思ったので書いていこう。

『「幽霊屋敷」の文化史』という本を読んでいたら、ポーの「アッシャー家の崩壊」の話が出てきて、そう言えば読んだ記憶がないなと思ったので読んだ。

「幽霊屋敷」の文化史 (講談社現代新書)

「幽霊屋敷」の文化史 (講談社現代新書)

はじめは青空文庫版のやつで読んだのだが、古い訳で読みにくいし、何かよくわからない話だなと思ったので、下記の訳で読み直したら結構おもしろかった。

「アッシャー家の崩壊」は、とにかく不気味な雰囲気はあるが、何だかよくわからない話で、『「幽霊屋敷」の文化史』でも、「終末のカタストロフに向かって物語が進展するあいだ、これといって何も起こらない」と言われている(p.99)。

しかし、順を追って見ていくと、この短篇は

  1. 無生物も意識をもつかもしれないという話と、アッシャー家の不気味な屋敷がまるで意志をもっていたようであったという話があり、
  2. アッシャー家の屋敷と、代々の子孫には不思議な精神のリンクがあったという話があり、
  3. 当代のアッシャーは精神の緊張の限界にきていたという話があり、
  4. 最後に、陰惨な事件のため、アッシャーの精神に限界がきた。その結果何が起こったか?

という話になっている。繰り返し挿入される「観念が具体物にやどる」というエピソードも含め、ポーは、汎心論めいた「物に心がやどる」テーマに関心があったのだなと伺われる。ちょっとわかりにくいのは、最後の陰惨な事件がただの事故なので、ちょっと拍子抜けしてしまうが、それはあくまでアッシャーの精神が崩壊をきたすきっかけとなった事件で、あまり本題ではなかったのかもしれない(読み直したらそのことに気がついた)。

個人的におもしろいなと思ったのは無機物もまた意識をもつかもしれないという話の箇所で、権威づけのため、当時の科学文献がひかれたりしていて、結構SFチックな内容になっている(ポーがこの小説で使っているアトモスフィアという概念も、当時の科学文献からとったのではないか、という指摘は『「幽霊屋敷」の文化史』でも触れられていた)。この辺をもっとふくらませれば、普通に現代でもSF短篇として通用しそうな話ではある。