最近はじめて映画『マトリックス』を観たのだけど、以下のようなセリフがあった。
Mouse: Do you know what it really reminds me of? Tasty Wheat. Did you ever eat Tasty Wheat?
Switch: No, but technically, neither did you.
日本語ではTasty Wheetがなぜか「ゲロッグ」となっているのだが、それに合わせると
マウス「ゲロックは食べたことある?」
スイッチ「厳密に言えば、あなたも食べたことはないのよ」
となる。
マウスがネオにゲロックを食べたことがあるか聞いているところに、スイッチが横やりを入れている。
これはちょっとおもしろい。マウスはMatrixの世界のなかで、ゲロッグ(Tasty Wheet)を食べることに類する経験をしたことはあるが、Matrixの世界のなかでの経験はすべて疑似体験なので、ゲロッグを食べるという経験は実際にはマウスに生じたことはない。命題「マウスはゲロッグを食べたかのような経験をしたことがある」は真かもしれないが、「マウスはゲロッグを食べたことがある」は真ではない。
現実の経験から、主観的に区別ができないような経験は、可能性としてならいくらでも考えられる。Matrixの機械の中の疑似経験やデカルトの悪霊が見せる経験はその代表例だろう。しかしそれらの疑似現実的経験の中から「現実」を際立たせるのは、(実際にわれわれがそれを知ることができるかどうかはともかく、現実とそれ以外のものを理念的に区別するのは)、真理や事実の概念だろう。唯一現実の経験だけがそのままの事実をしめし、現実の経験を表現する命題だけが真である。
ここに「厳密に言えば(technically)」という文脈を限定する表現が入ってくることも興味深い。現実という基準は「本物の経験」と「偽物の経験」、事実と虚偽をよりわける。しかし、そうした「本物 / 偽物」という区別を用いて経験の有無を主張することはわれわれの関心に基くものである。現実を基準点として本物の経験と偽物の経験をよりわけることが意味を持つのは、「厳密に(technically)語る」という特定の主張の文脈の中でのことである。それ以外の文脈に沿って語るならば、しばしば「マウスはゲロッグを食べたことがある」は十分に適切である。
要するに、一方の極にあるのは「現実が唯一であること」「現実が人間の精神から独立したものであること」を強調する実在論の立場、また一方の極にあるのは、「何が現実であるか」もわれわれの関心に応じた事柄であって、現実は精神から独立したものではないという相対主義の立場であるわけだが、その両方の萌芽がこの場面に現れているのではないか(ちょっと乱暴にまとめすぎだが)。