以前も読みましたが、最終稿は読んでなかったのでもう一度読みます。
決定不全性原理の擁護が不可謬主義的な前提を受け入れているというあたりの議論で恐怖を感じました。わたしはYalcin (1992)を読んだはずなのですが、この決定不全性原理の擁護はほとんど自明なものと考えていました。
以下細かい点。誤字の指摘など中心です。
p. 5
不可謬主義が与えられたならば、証拠主義と「eと両立可能な、ある~pが存在する」という前提のみから、「Sはpと知らない」という結論を一挙に導くことができる。そのため、不可謬主義を用いる懐疑論の構築には、懐疑論的仮説の否定についての知識の欠如を指摘する前提(1)や、閉包原理に訴える前提(2)は不要である。
「eと両立可能な、ある~pが存在する」という前提が簡単にえられるように書いてあるように見えますが、この~pの存在を任意の日常的知識pについて言わなければならないわけで、それを示すために懐疑論的仮説に訴えることが必要にならないでしょうか?
おそらくこのあとの部分「pが誤りである特定の可能性に注意を向けさせるなどの、限定的なものにならざるをえない」がその答えなんでしょうが、これはどういうことなのかよくわかりませんでした。
p. 7
証拠主義と可謬主義は共同で、「eがpの真理を演繹的に保証せず、その保証の度合が最大値を取らずとも、その度合いは、正当化に要求されるものよりも大きいことがありうる」という主張に等しい。
趣味の問題かもしれませんが、「共同で...という主張に等しい」という言い回しが気になりました。2つの主張両方の連言が「eが...」と同値ということでしょうか。
p. 7
しかし、決定不全性原理の真理を認めたとしても、前提(1)に対する十分な根拠が提出されていない、という第三の問題がなお残る。
ここは前提(1’)ではないでしょうか。
p. 8
d)証拠主義と不可謬主義を前提としつつ(1)を導く方法は、内在主義を採用するか外在主義を採用するかに応じて(少なくとも)二つの種類があり、それぞれ証拠の十分性に関する条件が異なる。
本文中では、「内在主義」「外在主義」という呼び方をあまり使ってなかったので、ここで「内在主義」「外在主義」と呼ぶのはわかりにくいです。
p. 10
9 実のところ、外在主義に対しても不可謬主義に依拠しないデカルト的懐疑論を構築することができるが、紙幅の都合上、その議論は割愛する。
せめて文献指示があればうれしいです。