世界が夢だとすれば、それは私の夢なのか?

# しばらく前に書いて放置していたので載せます。

世界が夢だとしても、それは私が見ている夢だということを言う人がいる。以前からこれに疑問を抱いていた。きちんと書いたことがないので少し詳しく説明してみる。
世界が夢かもしれないというのは、文字通りわれわれが生きているこの現実がすべて夢かもしれないという話だ。水槽の中の電極につながれた脳が体験しているシミュレーションであるという風に考えてもいい。哲学者は昔からよくこういうシナリオを考えてきた。こういうシナリオの是非はともかく、以前から気になっていたことがあるのでそれを書く。
この世界が夢かもしれないという話に関連して、独我論的な含みを持った主張として、世界が夢だとしてもそれは「私」が見ている夢だと主張されることもある。その根拠は「私」には意識があるからだ。
この感覚は、もう少し展開するとおそらく以下のような論証に支えられている。

  • 私には意識がある
  • 夢の中の登場人物は、夢を見ている人物当人をのぞき、意識を持たない幻である
  • 従って私は単なる夢の中の登場人物ではなく、夢を見ている人物である

しかしここにはいくつか問題がある。まず「私」という代名詞はやっかいなのだが、もし本当に世界が夢であった場合、「私」は夢の中の登場人物を指すことに気をつけよう。上の論証がA氏によって提起されたものだったとすると、「私」というのは本当はA氏のことである。「私」という語を使わないで「A」に起き換えてみよう。

  • Aには意識がある
  • 夢の中の登場人物は、夢を見ている人物当人をのぞき、意識を持たない幻である
  • 従ってAは単なる夢の中の登場人物ではなく、夢を見ている人物である

しかし夢の中の登場人物であるAが、夢を見ている人物であるという主張には違和感を抱く。
例えば、私がペルシアの王宮の夢を見て、夢の中でペルシアの王子であったかのような体験をしたとしよう。このとき「私は夢の中でペルシアの王子だった」と言うことは問題ない。しかし「ペルシアの王子は実は私だった」などと言うだろうか。
もっと一般的に言うと、「夢の中でxはyである」という関係が成り立つとき、「夢の中でyはxだった」も成り立つだろうか。まず「夢の中でat_akadaはペルシアの王子だった」とは言うが、「夢の中でペルシアの王子はat_akadaだった」はどうだろうか。「夢の中でat_akadaはペルシアの王子だった」は「夢の中でat_akadaはペルシアの王子の意識を体験した」とも言い換えられそうだが、一方「夢の中でペルシアの王子はat_akadaの意識を体験した」は明らかに偽である。つまりここには対称性は成り立っていないように思われる。
もし「夢の中でxはyである」について対称性が成り立たないならば、「世界が夢であれば、それは私の夢だ」もあやうくなることに注意しよう。世界が夢であり、Dが夢を見ている人だとしよう。夢の中でDがAの意識を体験するとしても、AはDではない。従ってAには「これは私が見ている夢だ」と言う資格はない。「これは私の意識を体験しているDが見ている夢だ」なら言ってもいい。

D: 夢を見ている
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 |   A: 夢の中で「これは私の夢だ」と言う      
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明らかに対称性が成立しないケースもある。視点交代型の夢というものがある。ある場面ではAの意識を体験し、別の場面ではBの意識を体験し、また別の場面ではCの意識を体験しというように、視点人物が次々と交代するタイプの夢である。どれくらい一般的かどうかはわからないが、少なくとも私はこのタイプの夢を見たことがある。
このタイプの夢では、AもBもCも「これは私の夢だ」という資格はなおさらない。もし対称性が成り立ち、Aは夢を見ている人であり、Bも夢を見ている人であり……ということになると、AはBであり、BはCであるというおかしな帰結まで認めなければならないだろう。
世界が夢であるとして、このタイプの夢ではないという保証も特に無いように思われる。


以上より、世界が夢だとしても、それは私が見ている夢だという主張はあやまっているか、少なくとも誤解を招く表現である。「世界が夢だとすれば、夢を見ている人は私の意識も体験している」なら言っていい。