Amie Thomasson「フィクショナルキャラクターを語ること」

http://philpapers.org/rec/THOSOF
http://www.amiethomasson.org/papers%2520to%2520link/Speaking%2520of%2520Fictional%2520Characters.doc
フィクショナルキャラクターについての抽象的人工物説を擁護する論文。個人的には、抽象的人工物説が一番賛成できる。

  • 1. ふり説
  • 2. 指示説
    • 2.1 虚構的言説と内的言説
    • 2.2 非存在主張
    • 2.3 存在論上の懸念

フィクショナルキャラクターを巡る語りには表面上矛盾がある。例えば、私たちはシャーロック・ホームズは探偵であることと、フィクショナルキャラクターであるから犯罪を解決できないことを両方受け入れている。フィクショナルキャラクターの理論は、この表面上の矛盾を解決しなければならない。
Thomassonは、虚構を巡る語りを以下の四種類に分ける。

虚構的言説fictionalizing discourse
フィクション作品の中の言説。
内的言説
フィクション作品の内容についての読者の語り(シャーロック・ホームズは探偵であるなど)
外的言説
フィクショナルキャラクターとしてのキャラクターについての読者や批評家の語り。創造された環境や他の作品の影響など
非存在の主張
シャーロック・ホームズは存在しない。

この内、虚構的言説と内的言説は、フィクショナルキャラクターについて語ることが現実の人物についての本当の話であるというふりpretenseまたはごっこmake-believeを含む。
ところが、ウォルトンに代表される純粋なふり説の支持者は、外的言説を含むすべてのフィクションの名前の使用は、ふりを含むと考える。コナン・ドイルシャーロック・ホームズを創造したということさえ、ある種のごっこ遊びゲームのうちで真であることになる。
しかしこの説は、直観的にはごっこ遊びを含まないような名前の使用をごっこ遊びであることにしてしまうため、より改定的な立場である。二人の刑事の会話「これは難しい事件だ。シャーロック・ホームズがいないと解決できない」「ホームズなんていない。ただのフィクショナルキャラクターだ」を考えると、後者はホームズがいるふりから外へと出て、文字通り真であることを言っている。純粋なふり説は、こういった常識を否定してしまう。また、批評や文学史でのキャラクター名の使用もすべてごっこ的なものであることになってしまう。
こうした改定は、キャラクター名の使用に関する矛盾を避けるために必要のない余計なものである。
改定を最小限にするには、外的言説では、フィクションの名前はフィクショナルキャラクターを指すと考えるべきである。Thomasson説(抽象的人工物説)では、フィクショナルキャラクターは抽象的文化的な人工物である。フィクショナルキャラクターは、法律や文学作品などと同じカテゴリーの抽象的人工物であり、それらのものが存在するのと同じ意味で存在する。
抽象的人工物説は、虚構的言説及び内的言説にふりが含まれることを認めるが、外的言説はフィクショナルキャラクターという人工物についての真面目な語りであると考える。


一方、非存在の主張「シャーロック・ホームズは存在しない」はどうか? 抽象的人工物説によれば、非存在の主張は真であることもあるが、「シャーロック・ホームズというフィクショナルキャラクターは存在しない」は偽であるため、問題は複雑である。
フィクショナルキャラクターの名前の指示に関して、非存在の主張の扱いは二つに分かれる。一つは、非存在の主張は不完全な命題を表現するという立場、もう一つはメタ言語説(名前の指示の因果連鎖に訴える説)である。
いずれの説を取るにしても、名前の指示に話し手の意図が関わることを認める必要がある。そこで、抽象的人工物説の支持者は、意図された対象が通常の人であるとき名前の指示は空であり、意図された対象がフィクショナルキャラクターであるとき、名前はキャラクターを指示すると考える。
話し手がどのカテゴリーを意図しているかが名前の指示に関与することを認めれば、「シャーロック・ホームズは存在しない」という言明と、シャーロック・ホームズというキャラクターが存在することは両立する。


フィクショナルキャラクターの存在を認めることは、非存在する人や想像上の人といった奇妙な存在者を認めることになるという懸念を持つ人もいるかもしれない。しかしThomassonの抽象的人工物説では、キャラクターは非存在の対象や矛盾した対象ではない。交響曲、法律、結婚などと同じカテゴリーの文化的抽象的人工物であり、それらと同程度に同一性の基準も持っている。
フィクショナルキャラクターを認めない方が存在論的に倹約的な立場であり、より多くの存在を仮定しない方が望ましいという反論についてはどうか。Thomassonは、問題となる対象の存在を論理的に含意するような存在者を認めるならば、その立場は、存在論的に倹約的であるとは言えないという反論をしている。
例えば、左の手袋と右の手袋の存在を認めるが、手袋のペアの存在を認めないという立場は、手袋のペアの存在を認める立場と比べて、存在論的に倹約的であるわけではない。なぜならば、左の手袋と右の手袋の存在を認めるならば、手袋のペアの存在は論理的に含意されるからである。そのようなことを言う人は「ペア」という語の通常の使用のルールに反している。
抽象的人工物についても同様である。ある文学作品が存在し、その作品が虚構的言説において、あるキャラクターの名前を使用していることを認めるならば、キャラクターの存在を否定しても、より存在論的に倹約的な立場であることにはならない。キャラクターが存在するためには、以上の条件で十分である。それを認めない人は、キャラクターが存在する条件を勝手に歪めている。