Robert Hopkins「図像と美しさ」

http://philpapers.org/rec/HOPPAB

※節タイトルは私がつけました。

  • Ⅰ. 「物質の美しさ」
  • Ⅱ. 図像と表象されたものについての美的判断
  • Ⅲ. 図像と美の堪能
  • Ⅳ. 表象による説明
  • Ⅴ. 経験による説明
  • Ⅵ. 図像の美的価値

絵や写真には他の芸術にはない芸術的価値があるだろうか。
レッシングによれば、「絵画は、そして絵画だけが、物質の美しさを模倣できる」。Hopkinsはこの言葉を、図像だけに許された美について述べたものと解釈する。絵画は実物を目で見る場合とよく似た美的経験を与える。


私たちは図像に描かれたものについて、美的判断できる。例えば、描かれた山間の風景を美しいと考えることがある。しかもその時、私たちは、表象された他の性質(山間の風景の大きさや色合い)によって、描かれたものの美しさを知る。
これは言語的記述にはできないことだ。言語的記述は「美しい」と書くことはできるが、そこでは他の性質の知覚は役割を果たさない。言語でも、美しい風景を記述できるが、美的判断には、風景を思い浮かべるvisualiseことが必要となる。図像は想像に頼る必要がない。
この図像と言語の対照は、美の堪能について考えればよりはっきりする。私たちは美を判断するだけではなく、美を堪能savourする。例えば風景の美しさを見てとるとき、感性をはたらかせ美的に反応し、その反応が風景からえられる快の源泉となる。
図像によって、描かれたものの美しさを堪能することができる。一方、読むことによって文章の美しさを堪能することはできるが、表象されたものの美しさを堪能することはできない。
この対照がどこから来るのか説明できるだろうか? Hopkinsは説明を試みているが、最終的には難しいとしている。
例えば、山の絵を見ることは実物の山を見るような体験をもたらす。従って、実物の山を見るときと同様に、山の絵を見ることで、山の美を堪能できるのだと考えられるかもしれない。しかし、絵を見ることと実物を見ることとは異なっている。絵は結局点の集まりである。山の絵が山に似ているとしても、なぜ山に似たものを見ることで、山の美しさを堪能できるのか。Hopkinsは答えを与えていない。
いずれにせよ、図像によって美を表象できることは重要である。それによって遠く離れたもの、すでにないものの美を享受できる。さらに図像は存在しないものを描くことで、新しい美をつくりだすこともできる。図像は物質の美を拡大するのである。
言語的記述でも似たようなことはできるかもしれないが、視覚的想像には限界があり、実際は難しい。