近年アミ・トマソンはカンタン存在論[easy ontlogy]と呼ばれる立場を唱えていて、精力的に擁護論文を書いている。いくつか読んだ。
http://philpapers.org/rec/THOEQ
Thomasson, Amie L. (2008). Existence questions. Philosophical Studies 141 (1):63 - 78.
- 1. 指示と存在
- 2. 指示と適用条件
- 3. 存在条件への帰結
- 4. 存在論への帰結
- 5. 諸々の応答
基本的なアイデア自体は彼女がずっと言っていたことだと思うが、何かの存在を認めることはものすごく簡単になされてよい。これは概念の適切な適用条件から存在を導くことを許す立場だ。例えば、カンタン存在論によれば、次のような「祝日」の存在を擁護する議論はまったく正当である。
- 11月3日は文化の日であり、日本の法律「国民の祝日に関する法律」で定められた祝日である。
- 祝日は存在する。
これは形而上学者がよく受け入れている標準的なクワイン的な存在論(シリアス存在論)への否定である。クワイン的な存在論によれば存在の探求は以下のようになされなければならない。
- まず最善の理論を探し求めよ。
- 最善の理論の量化のドメインに含まれるものだけが存在する。
最善の議論にはおそらく、「休日」とか「帽子」とかいった語彙は出てこないだろう。
しかしカンタン存在論では、そんなことは気にしなくていい。英語や日本語の普通の適用条件だけから存在を導いてよい。カンタン存在論は以下のような双条件文を認める。
Fたちは存在する iff 概念「F」の適用条件が満たされている。
ちなみに概念の適用条件の問いということで、トマソンは伝統的に「概念分析」と呼ばれたものを考えているらしい(「概念分析」という言葉はあまりよくないと言っているが)。普通そういう試みは「記述的形而上学」と呼ばれたり、われわれの概念枠組を記述するものと見なされるが、カンタン存在論は、「むしろそれこそが存在論なんだ」という立場だ。
カンタン存在論は特に諸々の消去主義に反論する。たとえばある種の消去主義者は日常的な存在言明をパラフレーズし、「テーブルや椅子や人などという存在者はない。あるのは、テーブル状に配列された粒子、椅子状に配列された粒子、人状に配列された粒子だけだ」と言う。
それに対し、カンタン存在論は、「粒子がテーブル状に配列されているということは、テーブルが存在する条件が成立しているということに他ならない。従ってテーブルは存在する」と答える。消去主義者はパラフレーズされた理論の量化のドメインの方が基礎的だと言うかもしれないが、カンタン存在論者はこれを受け入れる必要はない。
「存在」という概念の意味は、使用によって定められる。そして自然言語の存在概念はまさに上のような指示や適切な適用条件によって定められるものなのだから、存在概念を勝手に歪めているのは、シリアス存在論者たちの方だというわけだ。実際形而上学者たちは、長年、存在の適切な基準を追い求めてきたが、それらの試みはことごとく失敗してきた(と、トマソンは見なしている)。
まあ正直言ってトマソンがカンタン存在論の決定的な擁護を与えているとは思わないが、敵も決定的な反論を与えられていないので、難しい対立だ。
ちなみに以下に入ってるやつも読んだ。これはサイダーに反論しているやつ。
Philosophical Methodology: The Armchair or the Laboratory?
例えば、サイダーのようなシリアス存在論者は典型的には以下のようなことを言う。
- A. 世界のリアルな構造を捉えたただ一つの最善理論がある。
- B. 最善理論の量化子も、現実の構造をトラックする。すなわち、最善理論の量化のドメインに含まれるものだけが存在するものである。
しかし、AもBも示されてはいない。まず最善理論には目的に応じた複数のものがあって、それぞれ量化のドメインは異なるかもしれない。また、仮にただひとつの最善理論があったとしても、その量化子が基礎的な存在を表現するものだと考える必要もない。それはただ形式的なもので、存在とは関係ないかもしれない。