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Adam J. Carter「相対主義、知識、理解」

relativism

http://philpapers.org/rec/CARRKA-2
Carter, J. Adam (2013). Relativism, knowledge and understanding. Episteme (1):1-18.

  • 1. 知識帰属についての真理の相対主義に対するマクファーレンの中心的議論は、ナゼ理解の帰属にも適用される。
    • 1.1 知識帰属についての真理の相対主義に対するマクファーレンの中心的議論
    • 1.2 認識論への含意: 方法知の帰属
    • 1.3 理解と知識
  • 2. ナゼ理解の帰属についての真理の相対主義には問題がある
    • 2.1 理解と程度
    • 2.2 理解と提示

今日も相対主義論文。
マクファーレンは、知識帰属に関しても、相対主義の意味論をとる。知識帰属は査定の文脈に左右される。これは、「知識に関する文脈主義」および「主体に左右される不変主義(SSI)」の競合説である。
とりあえず、ざっくり説明すると、知識帰属に用いられる認識基準の高さは、何らかの要素によって変化するとされる。例えば、鍵をかけたことを覚えているなら、日常的状況で「私の自転車は公園に止まっていると知っている」は認められる。一方、鍵を簡単に破壊する自転車泥棒のニュースを聞いて心配する状況では、「知っている」とは言えない。

問題は何によって認識基準が変動するかで、三つの立場はそれぞれ以下のように答える。

  • 文脈主義: 発話者ないし知識帰属者の文脈
  • SSI: 知識保持者(主体)の目的や状況
  • 相対主義: 知識帰属の査定者の文脈

しかし、「知っている」に関する相対主義は、今ひとつ認識論的なおもしろみに欠けるというか、言語データを説明できることだけで擁護されているので、実際のところ認識論的なポイントはよくわからない。文脈主義とSSIがはじめから認識論的立場なのに対し、相対主義はそうではないので。
一方この論文は意味論的相対主義の認識論への影響を議論しようというものなので、興味深く読んだ。理解の認識論も手短に解説されており、勉強になる。
著者いわく、

  • 1.マクファーレンの議論を認めるならば、命題的知識だけではなく、「なぜなのか理解している」(以下ナゼ理解)のような別の認識状態も、査定に左右されることになる。
  • 2. ところが、ナゼ理解についての相対主義には問題がある。

1. マクファーレンの議論はナゼ理解にも適用される

著者はナゼ理解に関する三つのモデルを取り上げる。どのモデルでも、ナゼ理解は少なくとも何らかの知識を必要とする。
例えば、スキルある消防士は、なぜ火事で家が倒壊したのか理解している。このナゼ理解は、家に関する条件を変えた時、結果がどのように変わるかに関する予測をもつこと、説明の一貫性をもつことなどを要求する。
知識と理解の関係についての説は様々だが、とりあえず火事についてのナゼ理解は最低限「火事があったと知っていること」を必要とするだろう。火事があったことさえ知らない人は、なぜ火事で家が倒壊したのか理解できないだろう。
しかし、ナゼ理解が知識に依存し、知識帰属が査定に左右されるならば、ナゼ理解も査定に左右されるはずだ。火事があったと知っていることが査定の文脈の認識基準によって変わるならば、なぜ火事で家が倒壊したかの理解帰属も変化する。

2. ナゼ理解の相対主義の問題

ところが、著者によると、ナゼ理解についての相対主義には問題がある。

  • 理解には程度があり、理解帰属は、知識帰属よりも安定している。新米消防士は、家がなぜ倒壊したかについて、エキスパートほど理解していないが、ある程度理解している。
  • 説明をすることで理解を提示できる。説明の提示は理解帰属を確かなものにするが、なぜこれによって基準が変動するのか、相対主義では説明できない。

従って、知識帰属についての相対主義も考え直すべきだという。

コメント

以下は私のコメント。
ひとつ目について。著者によればこの問題はある種の文脈主義では答えられるが、相対主義では答えられない。しかしその議論はよくわからなかった。
とりあえず、ナゼ理解が依存する知識が基礎的なものであれば、理解帰属の方が安定することは相対主義でも認められるように思う。
問題は、「火事があったと知っている」ことさえ認められないほど認識基準が高まった場合、理解帰属が変化するかどうか。以下のようなケースを考えてみた。

消防士が仕事のあと、ベッドでまどろみながら、「今日は一仕事した気がするが、果たしてあれは現実なのか夢だったのか」と考えるとする。この状況で消防士は、「火事があったように記憶しているが、あれは夢だったかもしれない。また、私はなぜ家が倒壊したのか理解したように思ったが、そうではなかったかもしれない」などと考える。

この消防士の理解帰属の撤回を妥当なものとして認めるなら、相対主義でオッケー。理解帰属は、昼の文脈で査定された時に真だが、まどろみの中で査定された時には偽。


ふたつ目について。こっちの方がよくわからない。著者によれば、説明の提示は、会話の文脈を変えるので、これは文脈主義で説明できるという。しかし、当たり前だが、理解を帰属させられる人が見事な説明を提示したということが査定の文脈で持ち出されれば、当然査定の文脈も変化する。従って、説明の提示は査定の文脈も変化させうる。
文脈主義と相対主義で食い違うのは、以下のような状況だろう。

  • 理解を帰属させられる人は見事な説明を提示した。
  • しかし査定の文脈でそのことは知られていない。

ところがわれわれが査定者としてこの状況を査定する時、われわれは説明の提示について知ってしまっているので、相対主義が正しいとしても、われわれはこの状況について、「この人は理解している」と考えたくなってしまう。この状況に対する直観はフェアではない。