Jerrold Levinson「音楽作品とは何か」

Jerrold Levinson, What a musical work is - PhilPapers

Levinson, Jerrold (1980). What a musical work is. Journal of Philosophy 77 (1):5-28.

参照: ジェロルド・レヴィンソン「音楽作品とは何か」 - 病める無限の芸術の世界

作品の存在論の古典。

前半は、音楽作品は、純粋な音構造のタイプであるという説に対する批判、後半は、音楽作品がどのような存在者であるかについての提案となっている。

レヴィンソンによれば、音楽作品の存在論は以下の要請を満たす必要がある。

  1. 創造条件。音楽作品は作曲家の作曲以前には存在しない。作曲によって存在するようになる。
  2. 個別化条件。まったく同じ音構造をもつ作品であっても、異なる音楽史的文脈で作曲された作品は、別の作品である。
  3. 演奏手段の条件。特定の演奏手段や音作成の手段は、音楽作品に含まれる。

音楽作品は純粋な音構造のタイプであるという説は、上記の3つの要請を満たさないので否定される。

1について。音構造のタイプは、永久に存在する数学的な構造である。これらは、作曲家によって創造されることができない。楽曲=音構造のタイプだとすると、楽曲が作曲家によって創造されえなくなってしまう。よって音構造タイプ説はおかしい。

2について。まずこの条件自体説明が必要だろうが、ここでレヴィンソンは、音構造が同一であり、あい異なる二つの作品が作られうると言っている。例えば、メンデルスゾーンの《夏の夜の夢》とまったく同じ音構造をもった作品が(元の作品も作曲されているというシナリオのもとで)20世紀に作られたとしよう。この場合この新しい方の作品は、元の作品とは違い、「独創性」や「新鮮さ」をもたず、「昔風」で「平凡」な作品と見なされるだろう。レヴィンソンによれば、同一の作品が異なる評価的性質をもつことはないので、両者は異なる作品と見なされる。

(これはボルヘスの有名な「『ドン・キホーテ』の著者、ピエール・メナール」の思考実験にならったものだ)

しかし、楽曲=音構造のタイプだとすると、両者は同じ音構造なので、同じ楽曲になる。よって音構造タイプ説はおかしい。

3について。これは要するに、ピアノで弾かないとピアノ曲の演奏と見なされえないと言っている。シンセサイザーで原曲と識別不可能な音を作ったとしても、それは元の楽曲の上演ではないという条件だ*1

しかし、楽曲=音構造のタイプだとすると、シンセサイザーで作ったものも同じ音構造なので、元の楽曲の上演になってしまう。よって音構造タイプ説はおかしい。

上記の議論で純粋な音構造タイプ説を批判したあと、レヴィンソンは音楽作品は次のようなものだと論じる。

(Xを作曲家、tを作曲の時点として)X-によって-tにおいて-指し示されたものとしての-音と演奏手段の構造のタイプ

これは、のちの時点の演奏によって反復可能なタイプであるが、作曲家によって作られるものであるとされる。 なお、この定義だと、特定の楽曲が現実より一年早く作られたことはありえないという帰結が出てしまうので、それはどうなのかとは思った。

*1:なぜこの条件を入れるか? 一つの理由は「だってピアノで弾けって楽譜に書いてあるし」というものだ。楽譜にピアノで弾けって書いてあるのだから、シンセで再現したものは楽譜に従ってないし、元の楽曲とは別物だろうということ。