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ルートレッジコンパニオン美学「ビデオゲーム」

お勉強。

The Routledge Companion to Aesthetics (Routledge Philosophy Companions)

The Routledge Companion to Aesthetics (Routledge Philosophy Companions)

著者はGrant Tavinor。

目次

著者も書いている通り、ビデオゲームは芸術か?という問題は大半のゲーマーにはどうでもよい問いだ。その答えによってビデオゲームのおもしろさが変わるわけでもない。しかし、芸術の定義問題を考える上ではおもしろい問題になりえる。

ビデオゲームは芸術かという問いは、「ビデオゲームは芸術形式か?」という問いとして理解されねばならない。ビデオゲームが芸術形式であるために、ビデオゲームのすべての事例が芸術作品である必要はない。絵や写真は芸術形式だが、芸術でない絵や芸術でない写真もある(家電の説明書に載っている絵や証明写真を想定されたい)。おそらく、パックマンスペースインベーダーは芸術ではない。

しかし、ビデオゲームの一部の事例は明らかに芸術が持つとされる特質の多くを備えている。映画を芸術にカウントしておいて、レッドデッドリデンプションやBioShockを芸術にカウントしないのはおかしな話だ。そこには物語があり、テーマがあり、高い技術と創造性が提示され、感情が表出され、それらが批評の対象となり、知的挑戦や形式の複雑さが提示される。芸術の定義のクラスター説によれば、これらはまさに芸術を特徴づける性質だ。

著者は、Roger Ebertという映画批評家の「ゲームは芸術でない論」を紹介している。それによれば、ゲームには勝ち負けがあるので芸術ではない。ゲームには、ルールやポイントやゴールや勝利条件があるが、芸術というのはそういうものではない。

しかしこの説には二つ問題があって、

  1. そもそもすべてのゲームに勝ち負けがあるのかあやしい(古典的ゲームと現代的なビデオゲームを混同している)。
  2. ゲームには、過去の芸術に無い要素があるとして、それが何なのか。なぜそれらの特徴をもつことによって芸術でなくなるのか。単に新しい種類の芸術だと考えればいいのではないか。

より興味深いのは後者の問題で、ビデオゲームは、これまでの芸術形式にない要素をもちこんだ。ビデオゲームは、コンピューターアートとともに、「インタラクティブ性」という過去の芸術には無い要素をもっている。では、インタラクティブ性とは何なのか? ロペスによれば、インタラクティブな作品とは、その構造的特徴が、部分的に相互作用者の行為によって決定される作品だ。例えば、多くのビデオゲームでは、鑑賞者の側の決定によってストーリーが変化する。

この辺のインタラクティブ性を巡る議論は、個人的にも興味あるところだ。フィクション論の文脈で言えば、ゲームは鑑賞者が自ら虚構世界の中で虚構的行為を行ない、虚構的真理を変化させることができる媒体だ*1。もちろんごっこ遊びなどを考えれば、他にもその種の状況はあるのだが、それらは比較的真剣に取り上げられることの少ない対象ではある(ウォルトンやゴンブリッジを例外として)。一方、ウォルトンらにもフィクションはごっこ遊びとはちがうといった批判がよせられることもある。しかし個人的には、その種の論者に対しては、小説や映画のことしか考えておらず、ビデオゲームのような媒体をほとんど無視しているのではないかという疑問をもっている。われわれは、ビデオゲームのような新しい媒体を扱う枠組みをそもそもあまりもっていないので、まあその辺は哲学的にもいろいろおもしろいところだ。

なお、以上のようなことに関心がある人は、翻訳が出たばかりの『ハーフリアル』を読むとよいだろう。

ハーフリアル ―虚実のあいだのビデオゲーム

ハーフリアル ―虚実のあいだのビデオゲーム

*1:ちなみに、テトリスのような抽象ゲームもあるので、ゲームのすべてがフィクションであるわけではない。ここで想定しているのは、虚構の物語を語る一部のゲームのことだ。