『失われた時を求めて』を読み終わった

ついに『失われた時を求めて』の最終巻である14巻を読み終わった。記録によると、2019年4月1日に1巻を読み終わっているので、およそ1年ちょっとの間、読みつづけていたらしい。ちなみに前半は光文社古典新訳文庫、後半は岩波文庫で読んだ(光文社版はまだ6巻くらいまでしか出ていないはず)。

つらい戦いだった。正直言ってこれまでの読書人生の中での最難関と思うくらいにはつらかった。何がつらいかというと、途中までまったくおもしろさがわからなかったことだ。8巻くらいでようやくコツをつかみ、それ以後は楽しく読めるようになったのだが、そこにいたるまではまったくおもしろさがわからず、本当につらかった(むしろその状態で8冊も読んだという我慢強さに感心してほしい)。

何がつらかったか。ひとつには趣味の問題がある。小説というものを、仮に、「何が起こったか(出来事)」と「それに対して何を感じたか(思念)」の2つの構成要素に区別することが可能であるとすると、プルーストの場合、両者の割合は出来事対思念が1対9であり、圧倒的に思念の側に分量が割かれる。『失われた時を求めて』は出来事を描く小説ではなく、思念の小説である。だが、わたし自身は、どちらかと言えば、小説には出来事を描いてほしいと思う(なんだったらヘミングウェイやチャンドラーのように即物的に出来事だけ書いてほしい)。したがって、とにかく出来事が起こらないこの小説になじむのは大変だった。

もちろん、出来事が起こらないと言っても、前半の方は、少年時代のエモいエピソードも数々あり、「スワンの恋」や「花咲く乙女たちのかげに」などの恋愛のエピソードもあって、ふりかえって考えれば読みやすい方だったと思う。

それ以上に輪をかけてつらかったのは——これは読んだ人の多くが同意してくれるのではないかと思うが——パーティの場面だ。「ゲルマントの方へ」などのパーティがつづく部分は本当につらい。そこで主に描かれる主題は、「何とか伯爵夫人が自慢話ばかりしていておもしろい」「何とか公爵夫人の言い回しが変わっていておもしろい」といった話題だ。

ひょっとすると、当時の読者には「あるある」的なおもしろさがある描写なのかもしれないが、19世紀フランス社交界のあるあるを語られても、まったくピンと来ない。おもしろい言い回しの話も、「普通こういう場面ではleを使わないのに、leを使っているからおもしろい」といったフランス語の話なので、まったくピンと来ない。さらにそれが本一冊分くらいはつづく。

この辺りで、挫折しそうになったので、対策を立てようと思い、鹿島茂『「失われた時を求めて」の完読を求めて』を読んだが、これを読んだのは正解だったと思う。おかげでプルーストの手の内がある程度わかるようになり、だいぶ読みやすくなった。

私の考えでは、『失われた時を求めて』には「イメージと実態のズレ」「嫉妬」「時間」という3つくらいの主題があって、それが手をかえ品をかえ、さまざまな形で登場するのであるが、参考書を読んだおかげで、何となくその辺りの関係がつかめるようになった。

思うに、プルーストの重要な魅力のひとつは、「よく考えるとすごく普通のことしか起きてないのだが、語りを読んでいるうちに、何かすごいことが起きているような気がしてくる」という観念の詐術にあると思う。起きていることも言っていることも、よくよく考えると普通のことなのだが、プルーストの観念的な語りによって、いつの間にか、超越的で観念的な世界に高められるのだ。

例えば、『失われた時を求めて』の中で繰り返されるモチーフのひとつに、「イメージと実態のズレ」に関するものがある。これは要するに「名前や顔だけを見て、イメージがふくらんでいたが、実物を見たら思ったより普通だったのでがっかりした」という話で、本書では非常に重要なモチーフのひとつで、語り手は、人であれ土地であれ、とにかくさまざまなものにイメージをふくらませて、その後幻滅することになる。これなども、起きている現象はよく考えるとすごく普通のことだし、プルーストが書いているのでなかったら別におもしろい話にもならないような気がするのだが、プルーストが書くと、ふくらんだイメージのイデア的な崇高さ・近づきがたさが高められ、何かすごいことが起きているような気分になる。

また、このふくらんだイメージの極限に、「嫉妬」という状態があって、この状態に陥ったスワンと語り手は、「恋人に裏切られているのではないか」という妄想にかられ、さまざまな奇行に走る。この辺りもプルーストの筆致だけ読んでいると、ものすごく観念的な話をしているように見えるのだが、実情としては、わりと下世話な話をしているのである。

小説の結末の方で、語り手は、友人の娘であるサン=ルー嬢という少女に出会う。そして、このサン=ルー嬢こそ、分かたれた二つの世界、「ゲルマントの方」と「スワン家の方」を結びつける存在——要するにゲルマント家とスワン家の両方の血縁——であることを見出して驚愕する。しかし、よく考えると、これは要するに近所の人二人が結婚して娘を生んだというだけなのである。

こういう書き方をすると、まるで文句を言っているかのようであるが、当然そんなことはなく、わたしは大変楽しんで読んだ。一度プルーストの語り口に乗ってしまえば、その観念の世界が展開していくのが楽しみになり、世界がプルースト的に見えるようになるという魅力のある小説である。