芸術概念の誕生と芸術の理論(Lopes『芸術のかなた』二章)

タイトルの訳はてきとう。

Beyond Art

Beyond Art

ちょっとずつ読んでるが、二章の歴史の話がなかなかおもしろい。

ロペスは、芸術に関する理論をふたつにわけている。

  • 芸術作品の理論theory of art: 「xが芸術作品であるとはどういうことか」「何がxを芸術作品にするのか」に答える理論。
  • 芸術活動の理論theory of the arts: 「Kが芸術であるとはどういうことか」「何がKを芸術にするのか」に答える理論。

英語の直訳だと「芸術の理論」「諸芸術の理論」になるのだが、めちゃめちゃわかりにくいので、とりあえずここでは、「芸術作品の理論」と「芸術活動の理論」と呼ぶ。芸術作品の理論は、芸術作品とは何かに答えるもので、芸術活動の理論は、どんな活動が芸術に属するのかを答えるものだ。たとえば「作者のいない作品はありえるか」というのは、芸術作品の理論が答える問いだし、「ゲームは芸術か」とか「ファッションデザインは芸術か」というのは、芸術活動の理論が答える問いだ。

20世紀以降、美学の主要な論点は、芸術作品の理論だった。美学者は、芸術作品とは何かについてさんざん論争してきた。ロペスのこの本はこの力点を芸術活動の理論の方に移すことを提案しているのだが、二章では背景となる歴史が語られている。「芸術作品の理論」全盛はあくまで20世紀以降の傾向であり、それ以前はむしろ「芸術活動の理論」がさかんだった。ロペスは18世紀19世紀20世紀をそれぞれ扱っているが、以下ではとりあえず18世紀の話をまとめておく(長くなったので力つきた)。

芸術概念のはじまり

18世紀に関して、ロペスのネタ元はPaul KristellerのThe Modern System of the Artsという論文だ。Kristellerに従えば、芸術の概念が完成したのは18世紀半ばのフランスだ*1

芸術概念の成立ということでここで意味されているのは、絵画や音楽や詩を「似た活動」としてまとめあげ、それを学問や他の技術から区別する発想だ。よく知られているように、それ以前の"art"*2という語は、現在の「技術」に近い意味であり、絵画や彫刻だけではなく、哲学や天文学や釣りや工学やその他さまざまなものを含んでいた。

要するに、現在ある芸術の分類に近いものが完成したのが18世紀だった。この新しいグループの中核にあったのは、絵画、彫刻、建築、音楽、詩。よく含まれていたのが造園、ダンス、舞台、散文。またこのグループは、リベラルアーツや実践的技術や科学といった他の新しいグループから区別されるようになった。なお、この辺の歴史は日本語だと佐々木健一美学事典』の「芸術」の項目などが簡潔にまとまっている。

また、この新しいグループは、理論によって保護された。Paul Kristellerによれば、この重要なステップは、シャルル・バトゥーの理論によってなされた。バトゥーによれば、芸術は美しい自然を模倣するという共通点をもっている。この理論は、同時代でもさまざまに反論されたが、それが提案していた分類そのものは否定されなかった。これはおもしろいところだと思うが、バトゥーの理論そのものは正しくないかもしれないし、受け入れられもしなかったが、それによって芸術概念が導入され、安定化することになった。

芸術概念は理論──バトゥーの模倣理論──によって導入され、その概念がまとめあげているものは、この理論が同一視したものたちであると理解された。理論は概念の指示を固定したが、その理論がすぐに廃棄されたのだ。すべての概念がこんな風になっているわけではない。重力、人格性、色の民間概念は、重力、人格性、色の理論によって導入されたわけではない。18世紀の芸術概念はポリマーの概念や論理的完全性の概念の方に似ている。ポリマーや論理的完全性の概念とはちがって、それは今や民間概念のレパートリーへと浸透したのだけど。p.29

ロペスがここから引き出している重要な帰結は、バトゥーの理論が「芸術活動の理論」であることだ。それは活動が芸術に属するのは、何によるのかを述べている。どんな活動が芸術に属するのか? ──美しい自然を模倣するようなものを生み出す活動。

もちろんこの理論から、「芸術作品の理論」を引き出すこともできる。芸術作品とは何か?──美しい自然を模倣するもの。そのかぎりでは、18世紀に芸術作品の理論があったと言ってもいい。しかし、この「芸術作品の理論」は「芸術活動の理論」の単なる系であって、特に問題になっていなかった。例えば、模倣理論には、さまざまな反例があげられたが(例えば、器楽曲は模倣しない)、それはあくまで「芸術活動の理論」に対する反例であって、美しい自然を模倣しない作品があることについては特に問題になってはいなかった。例えば、絵画が総体として芸術であると言えるかぎりにおいて、ひどい光景を描いた絵画もあるということは深刻な反例とは見なされなかった。

*1:ただし、Kristellerは「18世紀以前に芸術はなかった」という主張は否定するらしい。これはあくまで芸術概念誕生の日付だ。

*2:ギリシャ語の「テクネー」

「キャラクタは重なり合う」は重なり合う

タイトルに特に意味はない。

少し前に「図像的フィクショナルキャラクターの問題」という論文を書いた。

ハーフリアル』の翻訳も好評、きえいのゲーム美学者松永伸司*1が、先日フィルカル Vol. 1, No. 2掲載の論文「キャラクタは重なり合う」で、上記の論文を詳細に検討してくれた。本エントリは、こちらの論文にリアクションすることを目的とするものだ。ただし、直接の反論というよりは、論文であまり敷衍できなかった論点などの補足が多い。

なお、少し前にシノハラユウキの『フィクションは重なり合う』でも、こちらの論文の内容をさらに応用し、作品批評の形で展開してくれている*2。元々私の論文自体、分析美学におけるフィクションの哲学や描写の哲学の問題をマンガ表現論や批評の文脈に接続することが狙いのひとつだったので、この種の試みは非常にありがたい。

ハーフリアル ―虚実のあいだのビデオゲーム

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フィクションは重なり合う: 分析美学からアニメ評論へ

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キャラ絵の話

先にちょっと関係ないようで関係ある話から。下は私が描いたスネ夫の絵だ。

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私が描いたのは、あんまりうまくないので微妙だけど、「スネ夫の絵を描いて」と言われたらだいたいこういうのを描くだろう。重要なのは、この絵は様式化を含んでいることだ。スネ夫は口が顔からはみ出ており、顔の下から三分の一がほぼ口に占められているような様式で描かれる。

しかし普通に考えれば、これはデフォルメであるはずだ。スネ夫は設定上人間なので、おそらく、顔の下から三分の一が口で、口が数センチ顔からはみだしているような形状ではない。「いや、実はそういう特殊な顔のかたちなのだ」という解釈が難しいという話はもう論文でやったので、ここでは取り上げない。ここでは、論文で「非正確説」と呼んだ立場を前提としている。

ところが、キャラクター*3の絵(以下「キャラ絵」と呼ぶ)の場合不思議な現象があって、「スネ夫の絵を描いて」と言われれば、この様式を採用しなければならない。これはかなり奇妙な話で、様式は、本来なら任意に選択できるはずだ。ところが、スネ夫の絵を描くときに、口をもっと人間らしい大きさにして顔の真ん中に配置することは、スネ夫の絵としては不正解だろう。ある種のキャラ絵には、「正解」「不正解」がはっきりあって、しかもそれは特定の様式化と結びついている*4。「リアルドラえもん」のような絵がギャグとして通用するのも、こうした慣習を前提にした上でのことだろう*5

一方、「石原さとみ(実在の人物なら誰でもいいけど)の絵を描いて」という場合だと話は別だ。私は描けないので描かないけど、描ける人ならば自分の絵柄で石原さとみの似顔絵を描くだろう。そこでは、目を大きく描くとか、口を大きく描くというのは、スタイルとして自由に選択にできるものであるはずだ。そこに「うまい」「へた」はあっても、「正解」「不正解」はない。そう言えば、少し前にいろんな絵柄でシン・ゴジラの登場人物を描くのが流行ったが、そこに、スネ夫の絵のような「正解」はないだろう。

まとめると、(ある種の)キャラ絵と、実在の人物の絵というのは、かなり異なるものであるように思われる。

絵の種類 評価規準 様式化
キャラ絵 正解/不正解 特定の様式化と結びつく
実在の人物の絵 うまい/へた 様式化は自由

絵の二種類の内容

「顔の下から三分の一が口」「口が数センチ顔からはみだす」といった描写は、あくまでも様式化だということをさっき書いた。この種の「様式化された絵に描かれ・見てとることができるが、対象に帰属されない性質」を論文では、「分離された内容」と呼んだ。

つまり、スネ夫の絵は以下のような二種類の内容をもつ。

内容の種類 内容の中身
分離された内容 顔の下から三分の一が口。口が数センチ顔からはみだす。
描写内容 口の大きさなどについては不確定。

上記の2つの内容の区別は、描写の哲学などでは以前から指摘されていた事柄であり、特にキャラクターの絵にかぎった問題ではない。よくあげられるのは棒人間の絵の例だが、棒人間は「簡略化された人間の絵」であって、棒状の謎生物を描いたものではない。それは棒状のシェイプを描くことで(分離された内容)、簡略化された不確定な人間の身体(描写内容)を描いている。

ただし、前節で指摘したように、ある種のキャラ絵の場合、特定の様式化と固定的に結びつくために、事態がややこしくなる。スネ夫は、つねに特定の分離された内容を伴って絵に描かれる。スネ夫は実際にああいう形状なのだと(誤って)言いたくなる理由のひとつは、そこにあるだろう。

キャラクターの識別

松永はキャラ絵の正解/不正解の話から、キャラ絵には、「登場人物を表わすもの」という水準だけではなく、演じ手としてキャラクターの役割を表現する水準もあるのではないかという話へ進んでいく。前者は通常の物語内の登場人物としてのキャラクターで、こちらはDキャラクタ(ダイジェスティックキャラクタ)と呼ばれる。後者は、演じ手としてのキャラクターで、Pキャラクタ(パフォーミングキャラクタ)と呼ばれる。Pキャラクタは、上記の分離した内容に相当する性質をもち、それにくわえ、キャラクターの設定の一部を持つ。詳しくは上記の松永論文を参照。

この松永の試みは、おもしろいアイデアだと思う。ただし、私自身は、このアイデアの真価はつかみかねている。少なくとも、上記のようなキャラ絵に関する現象はもっとシンプルに説明できるように思うからだ。

以下素描的に、私なりの説明を書きつらねてみよう。まず、マンガやアニメには、実際的な問題として、絵の上でキャラクターの識別ができるようにしなければならないという課題がある。描き手は、このためにさまざまな手段を用意する。それは、衣装や髪型や髪の色のような「記号」による場合もある。あるいは、記号に頼らなくても顔立ちをきちんと描きわけられる作家もいる(ただし、その場合も、顔立ちなどが識別を可能にする目印になるわけだが)。いずれにせよ、読み手はそれらの目印を手がかりに、どの絵がどのキャラクターに対応するのかを判別するだろう。

キャラ識別の目印として、同じ様式化を使って同じキャラクターを描くという選択肢もある。例えば、スネ夫の口が顔から突き出ているように描かれることは、この一例だろう。それは、単にスネ夫の顔形を表現するだけではなく、スネ夫の絵を他のキャラクターの絵から区別可能にする役割も負っている。

作者にとって利用可能な目印は、原理的には他の人による再生産も可能だ(正確な再現には、田中圭一のような高度な技能が必要だとしても)。また、共同制作などのケースでは、実際にこの種の目印が複数人によって利用され、特定のキャラクターを描いた絵を作り出すために用いられるだろう。

一方、「スネ夫の絵を描いて」という日常の場面でリクエストされているのは、この再生産の作業、つまり「公式の作品で用いられる目印を用いて、公式の作品と同じ形でキャラ絵を再生産してほしい」ということであるように思われる。要するに、それは「登場人物を絵に描け」というプレーンな依頼ではなく、「作品と同じ仕方でキャラ絵を作れ」というもっと特殊な要望なのではないだろうか。

上記のように理解すれば、キャラ絵に、明確な正解/不正解があり、様式化も固定されるという現象は説明できる。またこの種のリクエストが、記号化され、多くの人が再生産可能なキャラクタに限定されがちであることも注意しておきたい。例えば『はじめの一歩』の一歩のような比較的写実的なキャラ絵を描いてほしいというのは、無茶な依頼になるだろう。

ここではあくまで「絵」の話しかしてないし、松永のようにキャラクター概念を二種類にわけるような話はしていない。個人的にはこのくらいの説明で十分ではないかと思うのだが、二次創作など、キャラクターの間作品的同一性まで広げて考えれば、松永のアイデアには別の有効性があるかもしれないとも思う。また、ひょっとするとあまり対立することは言ってないのかもしれないとも思うのだが、「キャラクタ空間」などの松永のアイデアの有効性はまだよくわからずにいる。

美的判断の問題

論文では、非正確説から、キャラクターの美的判断に関するパズルが生じることを論じた。詳しくは繰り返さないが、基本的に、このパズルが生じるためには、以下の二つの条件を満たす事例があればいい。

  • 1 鑑賞者は、キャラクターの外見に関して、正当に美的判断できている。
  • 2 様式化、特に形に関するデフォルメが用いられており、非正確説に従えば、鑑賞者はキャラクターの外見について十分に知ることができない。

私の主張は、明らかにこれを満たす例はたくさんあるだろうというもので、論文では、『ひだまりスケッチ』の例をあげた。一方、以下の前提ももっともらしい。

  • 3 キャラクターの外見に大して美的判断をおこなうには、その外見について十分に知っていなければならない。

ところが、これと2から1の否定が出てきてしまう。私は、フィクションに関して3が成り立つことを否定し、以下のようなフィクションにおける画像の解釈規則を提案した。あれこれ書いているが、要するに基本的な中身は、「デフォルメなどを含むキャラ絵の場合、分離した内容をもとに登場人物の印象や美的性質を判断していいよ」ということだ。

キャラクターxの公式の図像が、恒常的に、分離された対象yを持ち、鑑賞者sが美的判断によってyに美的性質Pを帰属させるならば、フィクションにおいて、sは美的判断によってxに美的性質Pを帰属させる。p.32

松永論文では、このパズルの解決が批判されている。ただ、ここの議論は多少誤解が含まれていると思う。

松永によれば、上記のような規則には明らかに反例がある。「この規則によって説明されるケースもあるだろうが」、そうでないケースもあるだろうと言うのだ(p.103)。例えば、『ナニワ金融道』に美男美女という設定のキャラクターが登場しても、美男美女には見えないという例を松永はあげている*6

しかし、これはまずパズルの理解としてちょっとおかしい。私が元々取り上げていたパズルは、理想的なケースに関するものであることに注意してほしい*7。つまり私は、1のようなことがつねに成り立つだろうとは言っていない。考えたかったのは、様式化が用いられる事例でも、いくつか条件が成り立てば私たちはキャラクターの外見に関して美的判断ができるように思われるし、ある程度理想的なケースであっても鑑賞者が自らの趣味を通じてキャラクターの美的性質を知ることができないとすれば、それは奇妙だろうという問題だ。この意味で、松永があげている『ナニワ金融道』などの例は元のパズルとは直接関係ない。松永があげている事例では、そもそも1が成り立っているかどうかあやしいということには同意する。したがってこの点では、特に対立はないと思う。

もし松永が、様式化が用いられ、鑑賞者が登場人物の外見を十分知ることができない事例では、いかなる条件が整っていても、登場人物(Dキャラクタ)の美的性質を鑑賞者が趣味に基づいて知ることができないと認めるなら対立するだろう(私が論文で、誤謬説と呼んで拒否しているのはこれを認める立場だ)。しかし、どうもそうではなさそうなので、ここは誤解だと思う。

おかしなフィクション

また、これについては私の書き方が悪かったのかもしれないが、私は上記の規則を反例のない法則のようなものとして提示したつもりはなかった。以下この点を敷衍しつつ、理想的でないケースの話をしよう。上記の規則は、「なるべくそのように読め」という類の規則だ。類比で考えるために、これと似た規則をあげよう。例えば、「明示的に否定されないかぎり、登場人物は現実の人間に類似したふるまいをすると想定せよ」という規則は、これに近い。

登場人物が現実の人間らしくふるまわず、この規則の適用が難しくなる例はたくさんある。たとえば『ウルトラマン』の第一話では、突然現れた謎の巨人(ウルトラマン)が怪獣ベムラーと戦いはじめる。それを見ていた科学特捜隊のメンバーは、なぜかはじめからこの巨人が怪獣を倒しに来た正義の味方であると信じ込んでおり、応援をはじめる。もちろんウルトラマンが正義のヒーローであることは、この作品において実際に正しいのだが、ハヤタ以外の科学特捜隊のメンバーがそう信じた理由はわからない。むしろ登場人物が得ているはずの情報からすれば、この場面は「二体の巨大生物が格闘をはじめた」と理解されるように思われる。登場人物が現実の人間のように状況に対応すると想定するかぎり、上記のような場面はきわめて不自然だ*8

この場面で、何が虚構的真なのかは難しい。科学特捜隊はものすごく楽天的なのかもしれない。勘で正義の味方を見分けたのかもしれない。未知の巨人を正義のヒーローと思い込むことは、この作品の世界ではごく普通のことなのかもしれない。これらの解釈のうちのどれが正しいのかは不確定なのかもしれない。

実際のフィクションは、すみずみまで整合的な世界ではないので、この種の例はいくらでもある。『ナニワ金融道』の例も、私はそのように理解する。美男美女であるはずのキャラクターがまったく美男美女に見えないことについては、無視すべきかもしれないし、この世界ではそれが美しい顔なのかもしれないし、不確定なのかもしれない。

しかしそのことによって、上記のような規則が存在しないことにはならない。むしろこの種の例が作品の欠陥に見えるのは、上記のような規則が一定の慣習的効力をもつからだろう。

これは、アドホックな慣習が現実にどうやって運用されるかという話であって、あまり理論的に解決する問題ではないと思う。これらの問題は、ウォルトンが馬鹿げた疑問silly questionと呼んだものに近い。ウォルトンはこの種の問題に対する解決策をいくつかあげている*9。基本的には、矛盾にいたる事実のうちのどれかを無視することになる。とりあえずここでは、多様な解決策があるということだけで充分だろう。

なお、やや脱線になるが、泉信行アイドルアニメと美少女の表現史 一九八〇—二〇一〇年代」は豊富な例とともに美少女表現の例を追っており、設定と表現のズレについても指摘がある*10。泉は、心理的な距離と美化の程度が絵のレベルでどう表現されるかを指摘している。泉の指摘によれば、形を抽象化することは、親しみやすさや心理的な距離の近さを感じさせる。また、装飾的な線を増やすこと(線の情報量)は、キャラクターを魅力的に見せようとする度合いに対応する。親しみやすさの表現と、装飾的な線の組み合わせは、ふつうの外見を魅力的に見せる目的に適する。一方、整った複雑な形を描くことは心理的な距離を感じさせ、「いわゆる美人」の表現に適している。

この種の例は、より複雑な事例──「いわゆる美人ではないが、自分にとっては魅力的だ」と鑑賞者に感じさせる作品*11──を示唆している。つまり、絵の分離された内容の美的判断が単純に登場人物に投射されるというだけではなく、それが主観的なものとして提示されるか客観的なものとして提示されるかという軸もあるのかもしれない*12

*1:以下は論文調なので、敬称なしでいきます。

*2:タイトルに「重なり合う」とつけるのがはやっている。

*3:なお、松永は「キャラクタ」と表記しているが、私は伸ばす方が好きなので、引用以外では「キャラクター」表記を採用させてもらう。

*4:ドラえもん』みたいな様式化された画風ではなく、もっと写実的な画風だと話は別かもしれないけど、とりあえずその話は置いておく。

*5:なお、原作と違う絵柄でスネ夫が登場する二次創作を描くことは、もちろん可能だろう。しかし「スネ夫の絵を描いて」という日常の風景で求められているのはおそらくそういうことではない。

*6:きちんと確認していないが、市村朱美などは美人という設定だったような気がする。肉欲棒太郎も美男設定かもしれない。なお、あまり関係ないが、青木雄二の絵はヘタなのかというのは昔BSマンガ夜話でも盛り上がっていた記憶がある。少なくとも、美男美女らしく見えない絵柄ではある。

*7:p.26あたりでいろいろ条件をつけている。設定と表現が食いちがっていないことは条件に明示的には含めていなかったが、含めてもよい。

*8:ちなみに、私は未見だが、『ウルトラマンG』では、この点が「改善」されており、ウルトラマンGは当初もう一匹の怪獣と見なされるらしい(@pubkugyo からこの情報をいただいた)。

*9:フィクションとは何か』pp.173-182。

*10:泉信行「アイドルアニメと美少女の表現史 一九八〇—二〇一〇年代」『ユリイカ2016年9月臨時増刊号 総特集=アイドルアニメ

*11:あるいは、語り手がそのように提示する作品といった方がいいかもしれない。

*12:ただし、鑑賞者は、単純に絵のレベルでかわいく見えればかわいい登場人物として扱う傾向にあるという点は泉によっても指摘されている。

Kendall Walton「音のパターンの提示と描写」

http://philpapers.org/rec/WALTPA-10

Walton, Kendall (1988/2015). The presentation and portrayal of sound patterns. In Kendall L. Walton (ed.), In Other Shoes: Music, Metaphor, Empathy, Existence. Oxford University Press 230-257.

In Other Shoes: Music, Metaphor, Empathy, Existence

In Other Shoes: Music, Metaphor, Empathy, Existence

これはウォルトンがめずらしく音楽作品の存在論(らしきもの)をやっている論文だ。初出は結構古い。主には音楽作品の上演と作品の関係を扱っている。演奏が、ある特定の作品の上演であるということは、何によって決まるのかという問題を扱っている。

ベートベン対メカベートベン

ウォルトンは、楽譜によって音のどの部分を決めるのかという規約が、文化相対的なものであることに注意をむける。例えば、ブラックホール第三惑星人の楽譜は、地球の西洋音楽とは違う文化に従う。ブラックホール第三惑星では、楽譜はピッチや音の長さを明確に特定せず、かわりに強弱やテンポや調音やヴィブラートに関して、地球より細かな指定をする。

ブラックホール第三惑星のメカベートベンという作曲家が書いた第六交響曲を考えよう。これはもちろん、ブラックホール第三惑星方式の楽譜で書かれたものだが、偶然、その演奏が地球のベートベンの第六交響曲の演奏と識別不可能なほど似ているということはありえる。このとき、この演奏は、メカベートベンの音楽作品の上演なのか? ベートベンの音楽作品の上演なのか?

音楽対料理対文学

上のような思考実験に対し、ありうる答えとして、「上演しか存在せず、音楽作品なるものはない」「上演がどの作品に属するかは、音楽システムに相対的な事柄だ」というものがある。

ウォルトンはこれを批判し、音楽の演奏に関して作品は、そんなどうでもいいものではないということに注意をむける。例えば、料理の場合、目の前の食物が美味しいかどうかがすべてであって、それが何のメニューに属するかは比較的どうでもいいことかもしれない。料理の場合、「作品」という抽象的なものはなく、目の前の食事がすべてだというのは正しいかもしれない。

一方、料理とは逆の極にあるのが文学作品だ。文学作品の場合、作品の個々の事例、つまり作品を印刷した紙それ自体の個別性にはほとんど何の価値も置かれないだろう*1。その機能は、抽象的パターンを提示することだけに限定される。

音楽はちょうどその中間にあって、作品自体も評価の対象になるし、演奏にも固有の貢献がある。さらに音楽の演奏は、パターンを提示する機能にくわえ、描写portrayalする役割をもっている。演奏は、パターンを解釈し、分析し、組織化する。演奏者は、例えば、二つの部分のアナロジーを強調するために、(それ自体は楽譜に指定されていなくても)音色を正確に似せたりする。

結論

演奏が演奏によって提示するパターンは当然ながら作品と無関係ではない。おそらくブラックホール第三惑星の演奏者の念頭にあるパターンは、ピッチや音の長さを特定せず、かわりに強弱やテンポや調音やヴィブラートを特定するようなパターンだろう。地球の演奏者の念頭にあるパターンは、反対にピッチや音の長さを特定するような構造をもっている。

以上を手がかりに、ウォルトンは以下のような条件を与えている。

ある音出来事がある所与の作品の上演であるのは、その出来事が生じる文脈において、その役割がその作品と一致する音パターンを提示することであるちょうどその場合である。

要するに、演奏がある作品の上演となるかどうかを決定するのは、演奏が提示しようとしているパターンだというわけだ。ただし、作品が提示するパターンは複数あるし、純粋な音の構造だけではない(楽器の種類とか)という問題もあって、最終的な定式化はもう少し複雑になっている。

ちなみに書籍版の後記では、最近の音楽作品の存在論に苦言を呈している。最近の音楽作品の存在論があまりおもしろくないのは、美的関心や音楽の価値や、それが聴取者に何を与え、生活にどう寄与するのかといったことから切り離して論じているからだと。「自分は作品の価値と切り離さずにやってるよ」という自負なのかもしれない。

*1:組版のデザインがよいということはあるかもしれないが、これを文学的価値に含めることはないだろう。

H.L.A. ハート『法の哲学』

読書会合宿企画に参加して読んだ。法哲学の古典。また日常言語学派の代表的な仕事のひとつでもある。

法の概念 第3版 (ちくま学芸文庫)

法の概念 第3版 (ちくま学芸文庫)

ハートはこの本で、おおむね『法とは何か』と表現できる問いに、おおむね『一次ルールと二次ルールを組み合わせたルールである』と表現できるような答えを与えている。一次ルールというのは何らかの義務を課すルールで、二次ルールとは、ルール自体の制定や改訂に関わるルール(変更のルール、認定のルール、裁判のルール)のことだ。この捉え方では、法とは、自らの改訂・運用のためのルールを含む、特殊なルールの集まりであるということになる*1

ただし、これはあくまで概要であって、ハートがどういう問いに対して、どのような答えを与え、その答えがどのように正当化されたのかということを厳密に説明することはかなり難しい。例えば、ハートによれば、この本の目標は「法law」という語の定義を明らかにすることではない。ハートは、法に対し、狭い意味での定義を与えることは不可能であり、有益でもないという風に考えているらしい。

じゃあ何なのかというと、私はハートのプロジェクトを今のところ以下のように理解している。ハートが目指しているのは、おそらくある種の機能主義的説明に近いものだ。ハートによれば、責務を課すルールとは別に、ルールの改訂や運用のルール(二次ルール)を設けることは、不確定性をへらし、変更を柔軟にし、運用を効率的にする。それは、さまざまな点で便利である。そして私たちが知っている法的秩序の多くの部分は、まさにこの機能を果たしているのだと指摘される。

[二次ルールをもたない]単純な社会構造の主要な三つの欠陥[不確定性、静的であること、非効率であること]への対処法は、責務を定める一次ルールに、異なる類型のルールである二次ルールを補足することである。各欠陥に対する対処の導入は、それぞれ、法前の社会から法的社会への一歩と考えることができる。それぞれの対処は、法に広く行き渡る多くの要素をもたらすことになる。p.159

例えば、裁判のようなルールの運用のための制度、執行や運用のための公務員、立法手続きなどは、二次ルールとともに、その運用のために導入されたものであるとされる。一次ルール+二次ルール説の魅力は、少なくともハートによれば、これら法的秩序の中核部分を説明できることにある。

「機能主義的」という言い方はあまり正確なのかどうか自信がないのだが、ともかく、現在存在する法的秩序のようなものがおよそ存在するかぎり、もたなければならない中心的な要素を取り出すことが目指されていると言ってもよいのかもしれない。

*1:正確には、これだけだと会社の規則なども入ってしまうので、適用範囲の広さなどの条件も含まれるようだ。また、ルールとは何かという話も別途なされているがその辺は割愛。

Shen-yi Liao & Aaron Meskin「美的形容詞: 実験意味論と文脈依存性」

Shen-yi Liao & Aaron Meskin, Aesthetic Adjectives: Experimental Semantics and Context-Sensitivity - PhilPapers

Liao, Shen-yi & Meskin, Aaron (2015). Aesthetic Adjectives: Experimental Semantics and Context-Sensitivity. Philosophy and Phenomenological Research 93 (1):n/a-n/a.

比較形をもつ形容詞を段階的形容詞と言う。段階的形容詞には「相対的段階的形容詞」と「絶対的段階的形容詞」があると言われる。

相対的段階的形容詞の例は「背が高い」「長い」「大きい」などだ。「背が高い」などの形容詞は文脈に依存的であると言われる。例えば「背が高い小学生」というのは、大人に比べれば身長は小さいかもしれない。「背が低いバスケットボール選手」は、普通の人に比べれば身長は大きいかもしれない。

このため、「太郎は背が高い」のような文の真理条件は、比較対象に相対的な形でしか、真理条件が定まらないとされる。相対的段階的形容詞の真理条件は指標詞などに似ており、文の内容ではなく、部分的には話し手が置かれた文脈によって真理条件が左右される。

一方、絶対的段階的形容詞の例は「曲がっている」「透明である」「まだらである」などだ。両者のちがいは、推論パターンだ。「AはBよりも背が高い」から「Aは背が高い」を推論することはできない。ところが「曲がっている」のような絶対的段階的形容詞の場合、「AはBよりも曲がっている」から「Aは曲がっている」という推論ができる。

例えば、「AはBよりも曲っているということは、Aはちょっとは曲がっているということだな。ちょっとは曲がっているということは、要するに曲がっているということだな」と考えてもまちがいではないだろう。ところがこの推論の「曲がっている」を「背が高い」に置き換えると、明らかに誤った推論になる。

これは実験哲学でも確認できるらしい。人は、いくつかの見本を与えられ「長いものを選べ」と言われると、見本の中で一番長いものを選ぶ。相対的段階形容詞の場合、選べと言われると、暗黙のうちに、見本の集まりを比較対象として構成するような作業をしてしまうわけだ。ところが、絶対的段階的形容詞の場合はこの現象が起きない。「曲っているものを選べ」と言われても、曲っているものは複数あるので選びようがないなどと判断され、「選べない」といった選択肢がとられる。

一方、ここから先が著者らの実験結果だが、著者らはこの実験を美的形容詞に適用した。すると、おもしろいことに、「美しい」などの美的形容詞は、このどちらともちがうふるまいをするらしい。相対的段階的形容詞の場合、多くの人は一番度合いが高いものを選ぶ。絶対的段階的形容詞の場合、多くの人は「選べない」と判断する。美的形容詞の場合、いずれかを選ぶ人と選ばない人が半々くらいになるそうだ。

著者らは、同様の実験を「美しいbeautiful」だけではなく「醜いugly」や「優雅であるelegant」*1でもやっているが、いずれの場合も似たような結果が出るらしい。

この結果が何を意味するのかはいろいろ考察されているが、この論文では特に決定的な結論は出ていない。

*1:「美しい」が評決的美的判断と呼ばれるのに対し、「優雅である」は対象の特徴にも関わるので実質的美的判断などと呼ばれる。

Bernard Williams「想像と自己」

Bernard Arthur Owen Williams, Imagination and the Self - PhilPapers

Williams, Bernard Arthur Owen (1966). Imagination and the Self. Oxford University Press.

ウィリアムズの有名な想像力に関する論文。最近ウォルトンの翻訳を読んでいて、そういえばこれを読んでいなかったなと思いだしたので読んだ。

フィクションとは何か―ごっこ遊びと芸術―

フィクションとは何か―ごっこ遊びと芸術―

Problems of the Self: Philosophical Papers 1956?1972

Problems of the Self: Philosophical Papers 1956?1972

ここでウィリアムズは、想像に関する2つの問題をとりあげている。それぞれ「バークリー問題」「ナポレオン問題」と呼ぶことにする*1

バークリー問題

これはバークリーの観念論擁護の議論を、ウィリアムズが想像の問題として再定式化したものにあたる。

元々のバークリーの議論は、「誰にも見られていないもの」というアイデアには矛盾があるというものだが、ウィリアムズはこの問題を「なぜ、誰も見ていないという設定のものを、思い描くことができるのか?」という問題として捉え直した。

  1. 例えば、誰にも見られていない木を思い描くことができるだろう。
  2. しかし、思い描くとは、それを見ていると想像することではないだろうか。
  3. 誰にも見られていない木を思い描くことが、見られていない木を見ているという想像であるとすれば、それは矛盾した想像だろう。

もちろん、想像の内容が矛盾するということはありえるわけだが、誰も見ていない木を思い描くということは、矛盾した想像ではないように思われる。この点で、この最後の結論は奇妙だろう。

ウィリアムズは、想像をいくつかの種類にわけることでこの問題に答えている。

1つめ。視覚型想像。何らかの光景を思い描く。光景は当然、特定の視点から見られたものだが、その想像の中に自分が登場する必要はない。例えば、次のような想像は可能だろう。誰もいない荒野に野犬の群れがいて、最初は空から群れを見下ろしている。しだいにその中の一匹がクローズアップされる。

2つめ。参加型想像。想像の中に自分が登場し、何かをしているところを想像する。自分が野球選手になってホームランを打つ。ボールが向かってくるところや、バットの感触を想像する。

3つめ。混合型想像。自分が何かをしているところを外から見ているように想像する。例えば自分がホームランを打つところを観客席から見ているといった想像がこれにあたる。

何かを思い描くことが、「見ていると想像する」ことであると言えるのは、視覚型想像の意味にかぎられる。これを参加型想像と混同してはならない。もし、誰も見ていない木の想像が、参加型想像であり、自分が想像の中で木を見てるのであれば、それは矛盾だろう。しかし、視覚型想像であれば、その想像の中に自分が登場すると考える必要はない。

したがって、何かを思い描くことが、「自分が見ている」という想像であるというのはかなり誤解を招く表現である。何かを思い描くとき、「自分がこれこれの地点から見ていると想像した」ということは、「カメラはこれこれの地点にあった」という程度の意味しかない。

ナポレオン問題

こちらは古典的な問題だと思うが、最初に誰が言い出したのかは知らない。

  • 私がナポレオンであると想像することは可能だろう。
  • 従って、私がナポレオンであることは論理的に可能だろう。

私がナポレオンであるという想像自体はごく普通のものだし、「誰も見ていない木」と同様に特に矛盾はないように思われる。しかし、この結論は奇妙なものだ。もしこれを認めるなら、ナポレオンであることも可能であり、現実の私の特徴を持つことも可能であるような「私」とは一体何なのか。

この「私」は、特定の身体や記憶や心理的連続性によって同一性を与えられるようなものではない。「私がナポレオンであったら」という想像において、ナポレオンは私の身体も私の記憶も持たないかもしれない。

ひとつの説明は、「デカルト的自己」とでも呼ぶべきものを認めることだ。私のデカルト的自己は、現実には、この特定の人であるが、それはナポレオンでもありえたかもしれない。デカルト的自己は、何らかの経験的特徴によって同一性を与えられるようなものではなく、無特徴の点のようなものとして端的に存在する。

ウィリアムズは、この議論に反対する。デカルト的自己は必要ない。私がナポレオンであるという参加型想像が意味するのは、現実の私がナポレオン役を演じることだ。現実の私が、ナポレオンを表象する。これに必要なものは、現実の私という人間と、ナポレオンの二つだけであって、デカルト的自己という第三のものは必要ない。

感想

虚構の語り手やビデオゲームのプレイヤーと結びつけて考えるとおもしろい話のような気がした。例えば、ポケモンGOは、プレイヤーの参加型想像と、「このアバターが私である」という想像を含んでいる。

*1:バークリー問題の方は、実際、ウィリアムズの論文以降「バークリーのパズル」と呼ばれ、想像に関する問題のひとつとしてよく取り上げられる。

T.M. スキャンロン『われわれがお互いにすべきこと』「価値」

What We Owe to Each Other

What We Owe to Each Other

『われわれがお互いにすべきこと What We Owe To Each Other』の二章*1「価値」を読んだ。

目次

  1. 目的論
  2. 価値: いくつかの例
  3. 価値の抽象的説明
  4. 快楽説の影
  5. 人間の(または合理的な)人生の価値

価値のバックパッシング説明で有名な箇所。ここでスキャンロンは大きく二つのことを言っている。

  1. 価値の目的論的理解の批判 / 価値づけの多元論の擁護
  2. 価値の理由への還元 / バックパッシング説明

目的論的理解の批判

スキャンロンは自分が批判する立場を価値の目的論的理解と呼ぶ。目的論的理解というのは、以下のような立場だ。

  • 何かが良いということは、それを促進すべきであるということだ。

もっと具体化すると、

  1. 良さ/悪さは、事態がもつ性質である。
  2. ある事態が良い(悪い)ということは、その事態を実現させる(させない)方がよいということだ。

これは一見トリビアルに正しそうに見える立場なのだが、スキャンロンに言わせればまちがっている。上記のような立場をとるとき、人は、価値づける(valueする)ことの多様さを忘れてしまっている。

例えば、友情に価値を見出すことは、「世界の中にできるだけたくさんの友情を発生させるべきだ」と考えることではない。「友人関係を増やすためには何でもする! たとえ友人を裏切ってでも……」と考える人は、(少なくとも通常の意味で)友情に価値を見出していない。もちろん、友情に価値を見出す人は、友人をつくることや友人関係を維持すること望むだろうが、友情に価値を見ることの中には、友達との約束を守るとか、友人が病気になれば見舞いに行くとか、落ち込んでいればいたわるとか、多様な種類の行為・態度を支持することが含まれる。後者を「友情を促進すること」の価値に還元することはできない。

スキャンロンは、おそらく「Xを価値づける」のがどういうことであるのかは、Xの種類によってまったく異なると考えている。本論では、豊富な例によってこれが説明されている。科学の価値、友情の価値、ファンであること(fanship)、芸術の価値、生の価値等々。この辺はなかなかおもしろい。

ファンであることを価値づける人々もいる。つまり、この人たちは、ファンであることが人生をより良く、より楽しく、より興味深いものにすると考えるのだ。この人たちはまた良いファンであることは重要だという風にも考えるだろう。例えば、推しているスターが出るすべての映画をできるだけ早く観ることや、スターが誰かに批判されたときに擁護することには良い理由があると考えるし、たとえ遠くからであっても、直接スターを観ることはすばらしいことだと考えるだろう。私が提案している価値の理解では、ファンであることに価値がないと考えることは、単に、これらの理由が良い理由ではないと考えること、あるいは少なくとも、人生の形成においてそれらに重きをおく人はまちがっていると考えることだ。反対に、ファンであることや友情が価値あるものだと考えることは、それを価値づけることに伴う理由が良い理由であると考えることであり、それゆえ人生の形成においてこの概念に重要な位置を与えることは適切であると考えることなのだ。pp. 89-90

目的論的理解によれば、何かが「良い」ということは、おおむね「それを促進すべきである」ことと同一視される。スキャンロンの立場だと、何かが「良い」ことは、むしろ「それをリスペクトすべきである」みたいなことを意味する。リスペクトの仕方はものによってかなり異なる。例えば、科学に価値を見出すことは、自然に対する好奇心などにリスペクトをもつことだ。ファンであることに価値を見出すことは、良いファンであろうとすることだ。

バックパッシング

その上でスキャンロンは価値のバックパッシング説明を擁護している。これによれば、何かが良いということは、おおむね以下のように分析される。

Xが良い iff Xを肯定的に価値づける理由(Xに対して適切な肯定的態度をとる理由)を与えるような他の性質がある。

バックパッシング説明によれば、良さそのものは理由を与えない。遊園地に行く理由を構成するのは、〈楽しさ〉、〈行く手段の手軽さ〉、〈値段の安さ〉などといった性質である。しかし〈楽しさ〉〈手軽さ〉などに加えて、さらに、遊園地に行くことの〈良さ〉が、遊園地に行く理由を与えると考えるのはおかしい。「遊園地は楽しいし、簡単に行けるしー、良いしー」というのはおかしい。遊園地に行くのが良いというのは、行く理由があるということを別の仕方で述べているだけであって、〈楽しさ〉と〈良さ〉は同じレベルにはない。

この立場だと、価値に関する事実は、理由に関する事実に還元される。スキャンロンは、価値より理由の方が根本的なんだという立場をとる。

バックパッシングと、価値づけ多元説は独立した立場なのだが、スキャンロンはその両方を擁護しており、まとめると、価値というのは、多様な形の理由を与えるようなものだという感じなようだ。

*1:What We Owe To Each Otherの訳「おたがいさまであること」というのも考えたのだがどうか。