人生のむなしさ

人生のむなしさについての論証を考えてみた。今日の読書会でついでに検討してもらったが、あまり納得はえられず。
もっとも、みんなが納得して「人生はむなしい!」って言いはじめても、それはそれで困る。

束の間の流行のむなしさ

まず、束の間の流行は、わずかな時間しか価値をもたないがゆえにむなしいと考える。たとえばたまごっちがもてはやされたのはほんの一時のことだった。ゆえにたまごっちはむなしい。

  • (1)わずかな時間しか価値を持たないものはむなしい
  • (2)束の間の流行は、わずかな時間しか価値を持たない
  • 結論: 束の間の流行はむなしい

人生のむなしさI

長期的な観点では、誰の人生もほとんど何の影響もおよぼさないがゆえに、誰の人生もむなしいということを論じる。
しかしこの議論はまだ、無理筋であると思う。

  • (1)ある観点において、わずかな時間しか価値を持たないものはむなしい
  • (2)長期的な観点において、人生は、わずかな時間しか価値を持たない
  • 結論: 人生はむなしい


(1)はおそらく妥当ではない。非常に長期的な視点(宇宙の寿命くらいの)で考えれば、誰の人生も、世界に対してほとんど何の影響もおよぼさないが、「非常に長期的な観点」における評価を、一般化する必要はないように思われる。
通常われわれがよって立つような評価の仕方(数十年スパンでの影響を考えるなど)をとれば、人生はかならずしも無意味ではない。


人生のむなしさII

今の論証の改良版として、今度は、通常われわれがよって立つような評価の観点が、観点として十分に正当化されていないことを問題にしよう。

  • (1)x がむなしくないならば、
    • (1a)ある観点cにおいて、x は十分に(十分長い時間、十分な程度)価値を持つのでなければならない
    • (1b)観点cにおいてxを評価することは、正当化されていなければならない
  • (2)人生について(1a)(1b)を満たす評価の観点は存在しない
  • 結論: 人生はむなしい


通常われわれがよって立つような評価の仕方で、われわれの人生が無意味ではないのだとしても、数百億年オーダーでの評価よりも、通常われわれがよって立つような数十年オーダーでの評価を優先する理由は何か?
もしそのような理由がないのならば、次のように言えるだろう。

  • (3)ある観点c(=通常われわれがよって立つような数十年オーダーの観点)をとれば、われわれの人生はむなしくない。
  • (4)しかし観点cにたってわれわれの人生を評価する理由は特にない。


(3)(4)から、人生がむなしいことがすぐさま帰結するわけではないが、(3)(4)は救いにもならない。
なぜならば、ほとんどすべてのものについて、何らかの観点ではむなしくないと言えるだろうからである。どれだけ短い間の流行でさえも、マイクロ秒のオーダーで考えれば、きわめて長期間の栄光をほこったことになるだろう。


では、評価の観点の内、特定のものを正当化する理由は本当にないのだろうか。(1b)については、議論の余地はあるが、以下が成り立つのではないかと考える。

  • (5)人生の価値を前提せずに、人生を評価する特定の観点c を正当化することはできない。


たとえば、今日のわたしの行為が明日どんな影響を及ぼすかを評価する際、この「一日」という基準は、わたしの実利的な関心によって選択されている。わたしが今日夜ふかしするならば、次の日は寝ぶそくで苦しむかもしれない。しかしこの評価の観点の選択が正当化されるのは、わたしの人生の中の特定の目的に照らしてのことである。そもそもわたしの人生がまったく生きる価値のないものであれば、次の日仕事や学校に行く必要もないし、一日後の影響を考慮する意味は特にない。
同様に、スティーブ・ジョブズの人生が次の十年にどんな影響を及ぼすかを考えるのは、ジョブズのしたことが自分や社会に対し、どんな影響を及ぼすか知りたいからである。われわれの人生やわれわれの社会にそもそも何の意味もないのであれば、そのような影響を評価することも、必要ないだろう。
われわれが行為を評価する際、その評価の多くは、人生の価値を前提とした上で人生に対する影響を評価する。


しかし(5)が正しいならば、われわれは人生を評価するに先がけて、人生の価値を前提しておかなければならない。人生上の実利的目的から特定の観点をとることが正当化され、その観点の上で人生は価値があると評価される。これは循環であり、適切な正当化とは言えない。従って「(1b)観点cにおいてxを評価することは、正当化されていなければならない」は満たされない。


ただし(5)には反論もあるだろう。これについては、読書会当日も多くの批判が出てきた。
たとえば、次のような意見もあるかもしれない。

  • (6)人生を評価する際の適切な基準は、(評価者の目的ではなく)人生の性質(人間の平均寿命など)から決まる。


しかし(6)を認めるならば、非常に平均寿命が短かい生物の人生などについても、「むなしい」とは言えないことになる。これは奇妙ではないか。ウスバカゲロウの人生はむなしいのではないか。そういうことを言い出すとウスバカゲロウの人生はかならずしもむなしくないと反論されてしまいそうだが……。
いずれにせよ、評価者の実利的・人生内在的関心から遊離した、対象の本質から定まる評価基準というものがあるのであれば、わたしの議論は成立しない。わたしはそのような目的独立的な評価の基準は存在しないと考えるが、ここは立場の別れるところだろう。



まとめよう。わたしは「人生はむなしくない」と主張するためには、次の3つが言えなければならないと考える。

  • ある観点で評価したとき、人生はむなしくない
  • その観点を選択することは正当化されている
  • その正当化は人生の価値を前提しないものでなければならない

しかし、この3つを同時に満たすことはできないため、人生は無意味であり、むなしいものであるという結論が導かれてしまう。

追記

参考文献をあげておこう。

コウモリであるとはどのようなことか

コウモリであるとはどのようなことか

人生のむなしさを扱った分析哲学上の論文はいくつかあるが、日本語で読めるものは多くない。こちらに収録されている「人生の無意味さ」という論文は代表的なものであり、内容も非常におもしろい。
いつものように、「ネーゲルって内側からの視点とか外側からの視点とか言いださなければおもしろいんだけどなー」とは思うけれど。