John Perry「自己、自己知、自己概念」

Identity, Personal Identity, and the SelfIdentity, Personal Identity, and the Self


10章だけ。

  • 1. 「自己」と自己
  • 2. 自己知
  • 3. 信念
  • 4. 自己についての思いSelf-Ideasと自己概念Self-Notions
  • 5. 認識的/実践的関係とR概念
  • 6. R概念としての自己概念
  • 7. 自己の特別さ
  • 8. マッハへの帰還
  • 9. 自己知問題再訪

自己知は単に自分についての知識ではない。哲学者のマッハはバスに乗ったとき、鏡を見て、自分だと気づかずに「あの男はよれよれのエセ学者だ」と思ったという(他、それが自分だということに気づかずに、自分の伝記を書いていた記憶喪失の人とか、カスタニェーダケースと呼ばれる事例がたくさん言及される)。この「あの男はよれよれのエセ学者だ」は、マッハ自身についての知識だが、「あの男は私だ」という知識と結びつくまで、自己知とは言えない。自己知と呼べるのは、「私はよれよれのエセ学者だ」というタイプの知識だけである。ここにおける「私」はいかなる三人称の(非指標子)表現にも置き換えられない。ここでの問題はなぜ自己知はそうした形で「私」に言及しなければならないか。
実際信念の複数のソースが互いに結びつかないことはよくある。マッハの場合視覚の対象と自己の概念が結びつかなかったが、毎日喫煙所で会う男が、実は自分の読んでるブログの著者だったということもある。この時、喫煙所での会話とブログから得た知識は同一人物の情報をもたらすが、同一人物だと気づくまで互いに結びつかない。
また信念のソースの内には、行為者と対象の間に特別な関係が成立することで、特別な仕方の知識や行為を可能にするものがある。これを認識的/実践的関係と呼ぼう。
例えば行為者と行為者がいる場所の関係は、特別な知識と行為を可能にする。行為者は周りを見ることで「ここが雨だ」と知る(ここ依存の情報)。その情報を元に傘を持って行く(ここ依存の行為)。われわれは場所や物と自分たちとの関係をもとに、場所や物についての認知を行うことがある。こうした知識は、特別な動機付けの役割を果たす。
(一方ニュースを見て東京が雨だと知るような客観的知識の場合、「ここが東京だ」という知識と結びつくまで動機付け役割を果たさない)
われわれの概念はマルチレベルの情報システムを形成しており、上位のレベルの概念は自身との関係とは独立しているし、下位レベルでは自身との関係に結びついている。自己中心的情報システムとそうでないシステムが混在している。
同一性関係、すなわち自分と同一の人との間に成り立つ関係も認識的/実践的関係のひとつだ。同一性関係によって、内観から自分の喉の渇きを知るなどの特別な知識と、それによって導かれる行為が可能になる。自己とは、同一性関係という行為者相対的な役割を負った「人」personである。
自己知は、自分自身である人についての知識というだけでなく、その際その「人」は、同一性関係という関係をもとに認知されたかぎりでの人でなければならない。