http://philpapers.org/rec/HOPPCA
http://eprints.whiterose.ac.uk/10321/
- 1. 問題
- 2. 図像の理論
- 3. 挑戦ー図像の多様性を受け入れる
- 4. 挑戦に応える
- 5. 慣習説との妥協
- 6. 遠近法の何が特別なのか
遠近法の何が特別なのか。これはこれまでよく議論されてきたことだが、ここでは慣習の問題に訴えることで、この問題を問い直す。
ある実践が慣習的であるのは、以下の場合である。
- ある問題に対して、複数の同等に良い解決があり、
- ある共同体でそのすべてが利用可能であり、
- その共同体のメンバーがある解決を選ぶのは、単に他のメンバーがそうするからであり、
- そうであることが共有知識になっている
例、道路が右側通行か左側通行か。
以上の設定のもとでは、遠近法は慣習的かという問いは、それが解決する問題が何で、遠近法は他の解決策よりすぐれているかという問題になる。
以下の三つの立場をわけることができる。
- 遠近法についての強い懐疑主義
- 図像一般が慣習的であることを前提しても、遠近法は慣習的である。
- 弱い懐疑主義
- 図像一般は慣習的であり、それを前提すれば遠近法は慣習的ではない。つまり現行の慣習のもとで、何らかの合理性のある実践になっている。
- 遠近法擁護説
- どちらでもない。つまり、図像一般も慣習的ではないし、遠近法も慣習的ではない。
Hopkinsは三つ目の立場を取る。
Hopkinsはここで「体験された類似説」という自分の立場を前提している。ただしHopkinsによれば、体験された類似説が遠近法以外の図像を認められないというのは誤解であり、実際には多様な図像を認められる。
ポイントは3つ
- 1. 図像は正確である必要はない。カリカチュアなど、多様な誤表象が許される。
- 2. 図像は不確定な内容を持つことができる。走り書きのテーブルの絵は、ある程度の正確でテーブルの形状を伝えるが完全に確定した形でテーブルを描くわけではない。
- 3. 私たちが図像の内に見るものと、図像の内容が異なることがある。棒人間の絵はとても細く見えるが、そう解釈するのは誤りであり、これは抽象的な人間の絵である。
以上をふまえると、慣習説の主張をある程度受け入れられる。
- 1. 鑑賞者の知覚環境が、図像の内に見るものをある程度決定する。特定の二次元形状に対応する三次元の形状は無数にある。過去の知覚経験などによって、何を図像の内に見るかが変わってくる。
- 2.教育の問題。鑑賞者は図像の細部を完全に正確に把握するわけではない。例えば水平方向と垂直方向で、遠近法に対する鋭敏さが異なる。遠近法が知覚を変え、さらにそれによって遠近法の絵が作られるというループがある。
- 3. 文化による違い。遠近法では斜めから見た球は楕円になるはずだが、そう描かない方が正しい球に見えることがある。これは長年かけて形成された文化の問題。
ただし以上を認めても、図像一般が慣習的であることにはならない。
理由は以下の3つ
- 1. 可能な図像のデザインは多様だが、制限されている。何でもありにはならない。
- 2. 鑑賞者が図像の内に見るものを決める要因はいろいろあるが、コントロールできない。他の人の知覚をコントロールすることは限定された状況でしかできない。習慣の問題ではあるが、選択できるわけではない。
- 3. 共有知識ではない。習慣の問題ではあるが、そうであることは自覚されていない。
また、遠近法も慣習的ではない。遠近法だけがうまく解決できる問題がある。空間的形状を詳しく正確に描写できるのは遠近法だけである。
例えば逆遠近法を考えてみよう。
# 日本の浮世絵などで使われている手法。以下の動画がわかりやすいが、角度によって位置関係が違って見えたりする
# http://www.youtube.com/watch?v=bVuncaF36nc
逆遠近法で長方形の机を描写することはできるが、少なくとも現状、そうした手法は正確な形状を描写するようにはできていない。
ルネサンスにおける遠近法の発明は描写そのものの発明ではないが、少なくとも空間を正確に描写することを可能にし、描写の力を拡大した。