John H. Brown「図像の内にものを見ること」

Philosophical Perspectives on Depiction (Mind Association Occasional)Philosophical Perspectives on Depiction (Mind Association Occasional)


Brown , John H. (2010). Seeing Things in Pictures. In Catharine Abell Katerina Bantinaki (ed.), Philosophical Perspectives on Depiction.
http://m.oxfordscholarship.com/mobile/view/10.1093/acprof:oso/9780199585960.001.0001/acprof-9780199585960-chapter-9

  • 1. 分離された内見
  • 2. 図像を見ることにおける分離された内見の役割
  • 3. 分離された内見の遍在と美的重要性
  • 4. 分離された内見は屈折に還元できるか?
  • 5. 空間的な分離された内見
  • 6. 図像の目的への含意
  • 7. 描写の理論への含意


図像によって再現された光景を見ることを、seeing-in(内に見ること)と呼ぶのだけど、separation seeing-inなどの合成語を「内に見ること」で訳してたら異常な日本語になったので、以下seeing-inは「内見」にします(不動産屋みたいだけど)。


棒人間の絵は、やせ細っているように見えるが、やせ細った人間を描いているとはかぎらない。それはむしろ不確定な人間の絵である。そこでHopkinsは鑑賞者の「内見の内容」と通常の「図像内容」を区別する。前者は鑑賞者の体験に基づくものであり、後者は制作者の意図などに関わる。
Brownが「分離された内見」と呼ぶのは、このような図像内容と内見の内容が異なる場合の内見のことである。
Brownによれば、分離された内見は多くの図像に遍在し、美的評価にとっても重要なものである。
元々のHopkinsの例はスケッチ、エッチングキュビズムカリカチュアなどに限定されているが、むしろ公式の主題と矛盾する性質を提示することはほとんどの絵画にあてはまることである。
Brownはドメニコ・ギルランダイオの以下の絵を例にあげて説明している。
http://www.museothyssen.org/thyssen/ficha_obra/365
この絵の人物は、肉体が木製のように堅く見え、髪は人工的で金属のように見える。こうした特徴は、この絵の主題となる人物に帰せられる性質ではないので、それを見ることは分離された内見にあたる。実際に主題の人物に着せられるのは、柔らかい肌、絹のような髪などだろう。

  • 分離された内見: 堅い肌、人工的な髪
  • 公式の内見: 柔らかい肌、絹のような髪

多くの描写の理論はこうした特徴を無視してきたが、分離された内見と、公式的な内見の経験を比較すると、前者はより多くの性質を含むがゆえに、より直接的である。この絵における「堅い質感」の経験のようなものは、絵の美的経験から切り離せない。


また、空間的な性質についても同じようなことを指摘できる。角度を変えて見ると絵はまったく異なって見える。実際の光景を直接見ることと、絵画を見ることはまったく異なる。例えば、絵画の平面上に焦点を合わせることはできるが、直接光景を見るときに、それを平面で切り取って焦点を合わせることはできない。
また、場合によっては、絵画には、見るための標準的状態(角度、位置)がある。標準的状態から外れることで、絵画は分離された内見を提示する。また絵の部分によって標準的状態が異なることもある。こうした選択によって絵画は矛盾したものになるが、そうした効果はしばしば重要なものである。
図像の目的は対象のについての視覚的情報を伝えることだと言われる。しかし分離された内見によって、絵画はそれ以上のことをする。分離された内見によって、通常のルールに支配された視覚経験から解き放たれ、多様な視覚経験をえることができる。
描写の理論はこうした分離された内見の要素を取り込まなければならない。