藤川直也『名前に何の意味があるのか: 固有名の哲学』

名前に何の意味があるのか: 固有名の哲学名前に何の意味があるのか: 固有名の哲学


前半は新しい名前の指示の理論、後半は名前の意味論と語用論で、どちらもよく知らない分野だったので大変勉強になった。


一部で有名なように、クリプキは名前を用いた指示について因果説(ただし本書はこれを歴史的・社会的説明と呼ぶ)と呼ばれる立場をとった。起源において、命名者が名前を与える。名前は使用され伝えられることで人から人へ受け渡され、広がっていく。名前の受け渡しの因果連鎖によって私は一度も会ったことのない多くの人の名前を知っているし、それらの名前によって、見知らぬ人を指示することができる(そうでなければ、私はクリプキについて語ることはできないだろう)。
この説によれば、名前の使用は、この名前の受け渡しのネットワークによって対象を選び出し、指示することになる。
本書はこの立場を真剣に受け止めつつも、批判し、エヴァンズ、ペリーなどに影響を受けた別の説明を与える。


クリプキ流の歴史的・社会的説明に何の問題があるのか。本書は歴史的・社会的説明ではうまく扱えない事例をいくつか紹介しているが、印象的なのは、名前の指示が変わるケースである(本書が頻繁に用いている例は「マダガスカル」だ)。
例えば、影武者徳川家康について考えてみよう。実際に徳川家康という将軍が、関ヶ原の戦いで戦死し、影武者と入れ替わったとする。この入れ替わりの時点では、もし事実を知っていれば、この影武者は徳川家康とは別の人物だと言えるだろう。
ところが、入れ替わりが気づかれないまま一年たち、十年たち、時が過ぎたとしよう。しだいに、徳川家康と結びつけて語られ思考されるエピソードに、影武者に由来する情報が混ざりはじめる。「徳川家康を直接目にしたことがある」という人物の大半が、実際に目にしたのは影武者であるということも起こりえるだろう。
こうなると、徳川家康という名前の使用の内、少なくともそのいくつかは影武者を指示すると考えるべきだろう。指示が完全に入れ替わるまでにどれくらい時間がかかるかわからないが、このようにして指示が変わることはしばしば実際に起きる(現実によくある例は地名が指す対象の変化である)。


クリプキ流の説明はこうした指示の変更について、何の説明も与えられない。クリプキの考える名前の受け渡しのネットワークは、一度名前が受け渡されたらそれ以上情報が流れない、いわば一度きりのネットワークになっている。
一方本書は、名前について、名前に結びつけて絶えず情報が生産され流れ続けるようなネットワークを考える。指示が変更されるケースはネットワークを流れる情報の変化によって説明される。個人が名前に結びつける情報の集まりを、本書では「対象ファイル」と呼ぶが、名前による指示はファイルからファイルへの情報の流れのネットワークによって可能となる。
以上は概略の説明にすぎないが、とりあえずイメージは伝わるだろう。


一方後半は、名前の意味論的内容は指示対象であるというミル説の基本的なアイデアを擁護しつつ、語用論的レベルでの現象を議論している。複数の名前の使いわけに意味があるケース(単文のパズル)を、語用論(表意)のレベルの現象として説明する。関連性理論などの知見がさまざまに参照されるのだが、この辺りはあまり知らない領域なので大変勉強になった。主として扱われるのは名前の問題にかぎられるが、一般に意味論と語用論の関係がどのようなものであるべきかについても整理してくれているので、言語哲学に興味があれば後半は楽しめるだろう。
また、最終章はフィクション名を含む空名の問題に当てられている。フィクション名はキャラクターを指示するという立場に立った上で、キャラクターの存在論として、抽象的人工物説とマイノング的対象説が検討される(が、二つとも問題を残したまま終わる)。
個人的には、人工物説は結構よいと思うのだが、本書では、フィクション以外の空名に応用できないということで、採用されるにはいたっていない。