Gregory Currie『物語と語り手』3.4「表象の対応」

Narratives and Narrators: A Philosophy of StoriesNarratives and Narrators: A Philosophy of Stories


ちょっとずつ読んでいるCurrieの『物語と語り手』の3章4節「表象の対応[Representational Correspondene]」が興味深かったのでまとめる。
3章は、作品外在的な見方と内在的な見方について議論しているのだが、特にこの節は、ケンダル・ウォルトンが「馬鹿げた疑問」と呼ぶものの検討にあてられている。

馬鹿げた疑問の教え: 内在的な説明を求めることで、作品の本当の質や目的から気をそらすようなありそうにないシナリオをつくりあげることが求められ、しかも外在的な説明の証拠があるならば、内在的な説明を求めるべきではない。

物語内在的な理由を考えようとすると馬鹿げた答えしか出てこないなら、そうすべきではない。Currieは、映画「深夜の告白」で、なぜアパートのドアが直接外につながってるのかという疑問をあげている(これはよくわからなかったが、アメリカではめずらしいのだろうか)。普通に考えると、シナリオ上そうなってる必要があるからなのだが、物語内在的に考えると珍しい建築だということになる。
類似した疑問を考えると、名探偵コナンはなぜ何度も偶然殺人事件に遭遇するのか、とか、スーパー戦隊はなぜ悪の組織と5人で戦うのかなどがあげられるだろう。
これは何らかの効果をねらって意図的になされることもある。CurrieはIvy Compton-Burnettという人の映画でわざと不自然な死に方が出てきた例をあげている。大江健三郎の小説で友人が肛門にキュウリを刺して死んでいたというのがあったけど、そういうのかもしれない(ちがうかもしれない)。


馬鹿げた疑問は表象の対応によって説明されることもある。ウォルトンは、シェイクスピアの『オセロ』で、野卑な男であるはずのオセロはなぜ雄弁に詩的なセリフを喋るのかという疑問をあげているらしい。これは、オペラではなぜ死にそうな人でも声をはりあげて歌をうたうのかという疑問に似ている。
オペラの場合、キャラクターは歌をうたってはいないことになっている。演者による歌は、キャラクターの歌を表象しない。同様に『オセロ』の場合、オセロは詩的な表現は使っていない。オセロのセリフはそれぞれオセロが作中で喋る言葉ではあるが、それが全体として達成する詩的効果はキャラクターには帰属されない。表象の中で何が何に対応するかは作品をとりまく慣習によって異なる。


こういう処理がうまくいかないこともある。ウォルトンはレオナルド・ダ・ヴィンチの『最後の晩餐』で、なぜ描かれている人たちはわざわざテーブルの一方の側に並んで座るのかという疑問をあげているらしい。しかし絵が対象の空間的配置を表象していないと考えるわけにはいかない。そう考えると、例えばイエスとユダの配置など、絵画的に重要な部分も抜け落ちてしまう。こういう場合は、全体としての配置は無視し、ローカルな特徴(誰が誰の隣に座っているのか)についてだけ注目すればいい。
ただそれもうまくいかないことがある。リチャードソンの『パメラ』では、パメラの語りを見ていると、パメラはどうしても計算高い女に見えてしまう。リチャードソンの意図としては、善良な人間であるはずなのだが、現代の読者が読むと計算高い人間にしか見えない。
『オセロ』の例のように、こうした読みは無視すべきなのか? Currieは二つの理由で難しいとしている。

  • 1. 『オセロ』の例は当時の慣習で説明できる。リチャードソンの場合はそうではない。
  • 2. 著者の意図がどうであれ、パメラを計算高い自己欺瞞的な人間として読むことは、おもしろい解釈につながる。

Currieは物語が製作者の意図にもとづいた人工物であることを強調するが、著者自身理解していなかった可能性が開けることは許容したいと考えるようだ。
こうした例では、物語のコミュニケーション上の意味と、キャラクターの理解が緊張関係にあり、それをうまく和解させる方法はない。
こういう緊張関係は意図されたものであることもある。Currieはアニメーターが作品に介入するダフィー・ダックのアニメや、「ローゼンクランツとギルデンスターンは死んだ」などメタフィクション的な作品をあげている。
ただしこういう例では内在的視点と外在的視点はひとつに崩壊するように見えるが、実際はそうではない。アニメに出てくるアニメーターは本当のアニメーターではなく、そういうキャラクターであるし、崩壊するように見えるのも、フィクションのなかで崩壊するだけである。


以下コメント:
『オセロ』の例は、そういう慣習なのでそう読むべきではないというのもわかるが、疑問の余地はあるように思う。同時代の人間が慣習を疑問に思い、あえてもっとリアルな口語を導入し、それが達成として評価されるということもあるからだ。慣習的特徴は無視すべきだとすれば、これがなぜ達成になりえるのかはわからない。
別の例もあげよう。仮面ライダーシリーズの商業上の目的のひとつはおもちゃを売ることなので、ライダーの武器はかっこいいものでなければならないし、基本的にかっこよく演出される。しかしそれが作品内在的な視点と矛盾することもある。『仮面ライダー龍騎』では、主人公たちの目的はライダー同士の戦いを止めることだ。ライダー同士の戦いはむなしく悲惨なものとされる。そういうストーリー展開の中で、いちいちおもちゃのような武器のかっこよさを強調することは矛盾しているといえば矛盾している。
例えば作中で、神崎士郎はなぜわざわざ反抗的な城戸真司と秋山蓮に強力な武器であるサバイブのカードをあげるのか(外在的な視点では「主人公だから」なのだが)。
いや、そういうのは慣習だから美的価値にいっさいかかわらないというならそれでもいい(龍騎を擁護できるし)。しかしあまりそういう合意はないのではないか。