理性と価値: 後期グライス形而上学論集
翻訳に入ってる「行為と出来事」だけ読んだ。
いくつかの論点があって、
- A. デイヴィドソンの出来事論を批判し、基礎的な身体変化からなる出来事論を提案している。
- B. 行為は出来事ではないという議論をしている。出来事や因果の言語と、責任や評価からなる行為の言語は別で、両者は区別されねばならない。
「責任や評価からなる行為の言語は簡単に因果の言語に還元できない」だけならわかるんだけど、それを「行為は出来事ではない」と表現するのが納得いかない。Aで出来事を狭く特徴づけたからそうなるだけで、そもそも出来事の特徴づけが狭いのでは…と思ってしまう。
グライスはデイヴィドソン流の行為文の論理形式の分析を批判していて、批判はわかる部分もあるが、そこから出来事の存在論に関する帰結を引き出すのは無理じゃないかと思った。例えば、グライスは、デイヴィドソンは出来事の再記述を認めるので出来事を構成されたものではなく、基礎的(本源的)なものとせざるをえないのではないかというけど、これはおかしいと思う。出来事が様々な名前で呼ばれることと、その本性の間に直接的な関係はないのでは。