しかめっ面にさせるゲームは成功する 悔しさをモチベーションに変えるゲームデザイン
一昔前の洋画のようなまったく意味のわからない邦題が付けられているが、原題はThe Art of Failure(失敗のアート)というもの。哲学(美学)的アプローチでゲーム研究に取り組む著作の翻訳だ。といっても原著は英語でよくあるような、一般書と研究書の中間くらいの雰囲気のもので、決して難解ということはない。美学というより、心理学や社会学のような記述的研究の雰囲気を感じる人もいるかもしれない。
興味がある人はまつながさんが詳細な紹介を書いているのでそちらを読むとよいでしょう。
本書に書いてあること
本書の結語の部分が本書全体の主張の要約になっているのだが、この箇所の訳がちょっとあれなので自分なりの訳で引いてみる。
ある面では、私は「ただのゲームだよ」という言い回しを英語から追放したいと思っている。これは真ではないこと、つまりゲームの中で起きるかぎり失敗は中立的なものだというフリをしているからだ。ところが、皮肉にも、この言い回しを追放するのはまちがったことだ。内心激怒しているのに、肩をすくめてみせるチャンスをくれるのはこのまちがった言い方だからだ。このフリこそが、成功を数え、失敗を自分自身に対してさえ無言で過小評価できる自由を与えてくれる。この輝かしい表面的な無害さこそが、失敗や欠陥と格闘する空間をつくりだしているのだということを受け入れなければならない。このゲームの錯覚の空間は守られるべきだし、そこには失敗したときにはちょっと怒ったり、ちょっとどころではなくムカついたりする権利も伴なわなければならない。これ------平衡ではなく、奇妙な配置------こそがゲームという失敗のアートなのである。原文p.124
ここでは、ゲームの二重性の構造が描かれている。
- 表面的な無害さ: ただのゲームであり、そこでの失敗は何ももたらさないというフリが用意されている。
- ゲームに対する感情的反応: 失敗は実際には感情的にさせるが、表面的な無害さが失敗を受け入れやすくする。
つまり「これはただのゲームなんだ(だから失敗は大したことがないんだ)」という主張はまちがっているけど、ゲームという文化にとって重要な構成要素のひとつなんだと言ってるわけだ。また、こういう風に失敗を受け入れやすくする文化のあり方が、失敗のアート(おそらく、失敗に対処する技術という意味と、それらの工夫によって構成される芸術という両方の意味がある)と呼ばれている。これだけ聞いても、結構複雑な話だというのはわかるのではないだろうか。
失敗のパラドックス
本書が扱う問題は、「失敗のパラドックス」と呼ばれている。これは単純に言うと、(1)失敗というのはイヤなものであるはずだ、(2)ゲームをすると失敗する、(3)なのになぜ人はゲームをするのかという問いだ*1。
しかし本書のユニークなところは、この問いを理論的に解決しようとしているわけではなく、これをゲームプレイヤーやデザイナーが実際に直面する問題として捉え、プレイヤーやデザイナーはどうやってこの問題に対処しているか?という問題として読み替えているところだ。失敗への対処は、「失敗に対処するアーキテクチャー」の問題として捉えられ、それによって現実のゲームやゲーマーが採用する様々な解決策が比較される。少し具体例をあげると、例えば本書で扱われる問いは、「プレイヤーは失敗を何のせいにするか?」という問題だ。著者らが行なった実験とともに、プレイヤーが失敗をスキルのせいにした場合と、ゲームのせいにした場合と、練習不足のせいにした場合で、その後の対応がどう変わるかが論じられる。
また、ゲームにおける失敗の分類や特徴づけを通して、ゲームの分類やゲームプレイの分類がなされる。例えば、運のゲームとスキルのゲームが区別されることがある。また著者は、ソーシャルゲームなど、時間と労力に応えるタイプのゲームを「労力のゲーム」と呼んでいるが、この「運のゲーム」「スキルのゲーム」「労力のゲーム」はそれぞれ成功・失敗のあり方がまったく異なっている。
本書に出てくるゲームなど
念のため注記。本書で言う「ゲーム」はビデオゲームにかぎられるわけではなく、アナログゲームやスポーツもたくさん登場する(ビデオゲームが中心ではあるかもしれない)。ビデオゲームも、古典から最新のゲームまで盛りだくさんだ(スーパーリアルテニスもでてくる!)。