Robert Hopkins「屈折された図像の経験 その取り扱いと意義」

Philosophical Perspectives on Depiction (Mind Association Occasional)Philosophical Perspectives on Depiction (Mind Association Occasional)


Hopkins, Robert (2010). Inflected Pictorial Experience: Its Treatment and Significance. In Catharine Abell & Katerina Bantinaki (eds.), Philosophical Perspectives on Picturing. Oxford University Press.
http://philpapers.org/rec/HOPIPE

ホプキンズって、いくつか読んでるけど、文章も変ではないし、論理構成もはっきりしているのに、なぜかとても読みづらく感じていたのだが、これを読んでいる内に謎がとけた。文章構成が複雑すぎるのではないかと思う。例えば、この中では「これについて2つの議論がある」と言い出したあと、2つめの議論の途中で、攻撃する相手が前提している事柄を確認し、さらにその前提が直面する問題について2つの場合わけをして議論するということをやっている。議論のネストが深すぎる(しかも個々の議論が結構長い)。
途中であきらめて図を描いて整理したが、普通に読んでいたら、何の話をしているのか途中でわからなくなる。細かい場合わけが悪いわけではないが、スパゲティコードみたいに余計な分岐が生じているのではないかという疑いを持った。
↓読んでるときに描いたメモ

  • 1. 図像の経験とは何か?
  • 2. 屈折とは何か?
  • 3. 図像の経験が屈折することはあるのか?
  • 4. 屈折は重要か?
  • 5. 図像の経験についての単一説と分割説
  • 6. 屈折を受け入れる

図像(絵と写真)を見る視覚経験はウォルハイム以降しばしば「内に見る(seeing-in)」と呼ばれる。帽子をかぶった人の絵を見るとき、私たちはインクの内に帽子をかぶった人を見る。私たちは「描かれたもの」と「図像の表面のデザイン」の2つを見る。
「屈折[inflection]」は、この描かれたもの(内容)と、デザインが混ざり合うケースを指す。たとえば粗いタッチの絵ではしばしば生じることだが、人間の腕のような内容が、単なる太い線で描かれることがある。こうしたケースでは、デザインと描かれたものを簡単に切り離すことはできない。
屈折の概念は、ロペスが「なぜ美しくない光景を美しく描くことができるのか」という問題(ミメーシスのパラドックス)を説明するために使ったもので、それ以降さまざまに議論されてきた。絵画の美を説明する上では重要な現象とされる。


Hopkinsのこの論文では、屈折という現象によって、内に見ることに対するある種の立場が困難に陥ることを議論している。
Hopkinsは図像の経験(内に見ること)についての以下の2つの立場を分ける。

単一説
図像を見る経験において、デザインの経験と描かれたものの経験という2つの異なる経験(あるいは経験の2つの側面)があるわけではない。鑑賞者は経験の中から2つの要素を抽象するが、2つの経験があるわけではない。Hopkinsはこの立場らしい。
分割説
図像を見る経験では、デザインの経験と描かれたものの経験という2つの異なる経験(あるいは経験の2つの側面)がある。Lopesがこの立場らしい。

Hopkinsによれば分割説は、屈折をうまく説明できない。
理由その1。描かれたものが屈折しているとき、それはデザインに本質的に結びついている。従って、屈折したものは、分割説の2つの経験の内、まずデザインの中に現れ、描かれたものの内にも再度現れる。これはおかしい。
理由その2。分割説の支持者は、デザインの経験と描かれたものの経験がともに通常の視覚経験であることを主張する。これは通常の図像の場合は問題ないかもしれないが、屈折の場合は難しい。屈折された対象は、直接見る経験には決して現われないものだからである。これを無理に分割説の枠内で説明しようとすると今度は他の例をうまく説明できなくなる。