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Timothy Williamson『同一性と識別』

Identity and DiscriminationIdentity and Discrimination


ウィリアムソンのデビュー作を読んだ。基本的なアイディアはシンプルだが、同一性について悩むたびに繰り返し再読したくなるような内容だった。あと基本的には経験の質的同一性の話がメインなので、その辺に興味あれば楽しく読めるかと。

識別依存直観

ある種のものの同一性は、識別可能性に依存する。

例えば痛みを考えよう。痛みの同一性はどうなっているだろうか? 痛みを感じる二つの経験があったとき、二つの経験が「同じ質の痛みだ」と言えるのはいつだろう? 識別できない二つの経験は、同じ質をもつと言いたくなる。
どれだけ注意深くあっても経験xの痛みと経験yの痛みを識別できない場合に、「それでも両者は違う質の痛みなのだ」と考えることは、何やら奇妙だ。これが心から独立した物体の話なら、二つの物体の間に人間には識別できない違いがあると考えることは別におかしくはない。しかし、二つの経験の「感じ」や「質」の間に、人間には識別できない違いがあると考えるのは奇妙だろう。ここでいう経験の質とは、精神と独立に存在する物体ではなく、経験の「感じられ方」のことなのだから、その同一性は、徹頭徹尾、人間の経験の限界内におさまっていてくれなければ困る。
例えば二つの音楽の録音があるとき、両者を聴く経験には、人間には識別できない違いがあって、両者は美的に異なるのだと言われても困るだろう。識別できない経験の違いなるアイディアは、根本的におかしく思われる。
(ちなみにここで「識別できない」とは、単に違いを言語化できないという意味ではなく、いかなる形でも両者が違うと知ることができないという強い意味で言われている。識別可能性の定義は前半で様相論理を使って与えられている)。

推移性

ところが、識別可能性によって同一性を定義することはできない。なぜなら識別可能性は、推移的ではないからだ。経験xと経験yは識別できない。経験yと経験zは識別できない。しかし、経験xと経験zは識別できるということは普通にあるだろう。

識別不可能性と経験の質の同一性が一致するとしてみよう。この場合xとyが同じ質の経験であり、yとzも同じ質の経験であるなら、xとzも同じ質の経験になるだろう。

ところが、xとzには識別できる違いがあるので、両者は同じ質の経験ではありえないはずだ。

この本の主題は、このギャップだ。ウィリアムソンは「ある種のものの同一性は識別可能性に依存する」というテーゼと、識別可能性には推移性が成り立たないという問題をなんとか折り合わせようとする。
基本的には、なるべく識別可能性に一致させる方向で(つまり識別できない違いをなるべく少なくしつつ)、推移性を満たす関係を取り出すにはどういう原理を満たせばよいかという話になる。詳しく紹介しないが、極大M関係なる関係の定義が与えられ、これが「可能なかぎり識別可能性を満たしつつ、推移性をたもつ関係」になる。

この本の基本的なターゲットは経験の質的な同一性なのだが、同様の原理は、人の同一性や人工物の同一性などにも適用可能であるとされる。

同一性の基準

最終章は「同一性の基準」とは何かという問題にあてられている。ここはおもしろいが悪名高く難しい問題で、最後まですっきりしない。

何かの同一性の基準を与えるという仕事には二つの解釈がある。

  • 認識論的基準: xとyが同一であると知るためには、何を知ればよいのか。
  • 形而上学的基準: xとyが同一であるとは、何が成り立っていることなのか。

まず認識論的基準は何のためのものであるのかはわかりやすいが、これは形而上学的基準に依存するように思われる。何らかの基準が、xとyが同一であると知るための基準としてうまくいくためには、xとyが同一であるための何らかの事実がなければならないだろう。
一方、形而上学的基準も難しい。同一性というのはものすごく基本的なものなので、同一性をさらに基本的な事実によって説明することなど果たして可能なのか?

ウィリアムソンは最終的には、認識論的基準と形而上学的基準のミクスチャー的回答を与えている。同一性の基準とは、主体の識別能力と世界の側で成り立つ条件の両方にまたがるものなのだと。

ちなみにウィリアムソンはロウの立場を批判しているのだが、その後キット・ファインがウィリアムソンを批判したり、この問題については地味に議論が続いている。

ファインの論文は以下

Kit Fine「同一性の基準と基礎付け」 - うつし世はゆめ / 夜のゆめもゆめ