R.M.ヘア「何も重要ではない」

Applications of Moral Philosophy

Applications of Moral Philosophy

上の本に収録されている講演。この本は日本語訳も昔『倫理と現代社会』というタイトルで出てるんだけど、入手困難で、amazonでは見つからなかった。

ヘアはこの論文(講演)をスイス人の友人の話からはじめている。ある時、ヘアの家に遊びにやってきた18才のスイス人が、家にあったカミュの『異邦人』を読んで「何も重要ではないnothing matters」と絶望しはじめたという。すわ、哲学が役に立つぞと思ったヘアは、「重要である」という語の機能は、何かに対する懸念concernを伝えることにあると伝えた。懸念はつねに誰かの懸念である。このため、何かが重要であるとか重要でないと言われるとき、私たちは、それが誰の懸念に関するものなのかをたずねなければならない。

フィクションの登場人物はともかく、みんな何かを気にかけているし、このスイス人も、何かを気にかけている。だから、何も重要ではないことなんて無いんだよと。ヘアの説得は功を奏し、友人はすっかり元気になって朝食をたくさん食べたという。

重要さに関するヘアの立場はおそらく以下のようなものだ。

  1. 端的な重要さは意味をなさない。重要なものは、つねに、誰かにとって重要なものである。
  2. 何かがxにとって重要である iff xはそれを気にかけている。

ヘアにとって、重要さとはつねに誰かにとっての重要さである。また誰かが何かを懸念しているなら、それはその人にとって必ず重要なものである。「何も重要ではない」と言いながら、さまざまなことを気にかけることは、「どこか矛盾している」。

この背景には価値についての主観説があると思われる。実際、講演の後半では、ヘアは、価値の主観説を擁護し、客観説を、まったく意味をなさない立場として退けている。

これに対するパーフィットの批判を見てみよう。On What Mattersで、パーフィットはヘアを批判して以下のように言っている。

「重要である」という語には、ヘアが理解しなかった意味がある、と私は信じる。物事は、その本質がそれらを気にかける理由を与えるという意味において、重要でありえる。Parfit2011, p.411

パーフィットは客観説を支持しているので、ヘアに厳しいのだが*1、それはそれとしてこの批判にはもっともらしい部分がある。重要さは、あくまでも対象を気にかける理由を与えるのであって、ヘアのように、気にかけることと重要さを直接結びつける必要はない。ヘアのような立場だと、合理性や規範性に訴えて、重要さについて反省するという側面が完全に無視されてしまう。

例えば、私たちは十分な情報をえていない、合理的に熟慮していないなどのために、自分にとってすら重要でないものを気にかけてしまうことがある。ヘアの立場だとその辺が全部捨てられてしまうのがちょっと。

スイス人の若者は、こんな素朴な立場に簡単に説得されず、もっとがんばってほしかった。

*1:正確に言えば、パーフィットは理由についての客観説を取っていて、価値や重要さの規範性は理由の規範性に還元されるという立場だと思う。