Aaron Smuts「哲学としての映画: 大胆な主張の擁護」

映画は哲学できるか?という問題に関するもの。「大胆な主張bold thesis」と呼ばれるテーゼ、すなわち「映画は映画独自の手段でもって、オリジナルな哲学的貢献ができる」という主張を擁護している。

Aaron Smuts, Film as Philosophy: In Defense of a Bold Thesis - PhilPapers

Smuts, Aaron (2009). Film as Philosophy: In Defense of a Bold Thesis. Journal of Aesthetics and Art Criticism 67 (3):409-420.

  1. 大胆な主張
    1. 芸術的な基準
    2. 認識論的基準
  2. パラフレーズ問題
  3. 哲学すること
  4. 哲学としての映画
  5. 映画的哲学の例をもう少し
  6. 結論

Livingstonが提示したパラフレーズ問題というのがあって、それに答えるのがメイン。パラフレーズ問題とは、以下のような問題。

  1. 映画が独自の哲学的貢献を果たすというとき、その哲学的貢献は言語でパラフレーズできるべきだ。
  2. パラフレーズできないなら、そんな貢献が存在するかどうかは疑わしい。
  3. しかしパラフレーズできるなら、その哲学的貢献は、言語に依存したものではないか。

なぜパラフレーズできたらだめなのかというのはわかりにくいのだが、映像などに表現されたアイデアパラフレーズできるなら、それは既存のアイデアを図示したようなものと変わらないのではないかという発想のようだ。

スマッツは大胆な主張を支持するために、まず「哲学すること」を明確化している。スマッツによれば、哲学するとは何かを論証することであり、論証とは、ある立場を信じる理由をあげることだ。ここでいう理由はかなり広義なもので、アナロジーによる論証なども哲学に含まれる。スマッツニーチェの『道徳の系譜学』を例に挙げている。

また、映画特有の手段が論証に使われる例として、スマッツエイゼンシュテインのモンタージュの例と、トワイライトゾーン(!)の例をあげている。エイゼンシュテインは、キリスト教を脱神格化するような感じでうまいことモンタージュを使っているらしい(文字で説明するのは難しい)。

パラフレーズ問題については、パラフレーズできるからと言って、それらの論証は、解釈者がでっちあげたものだという話にはならないと反論していた。

私もLivingstonの議論は変だと思う。Livingstonはおそらく、(1)映像が意味を表現するのは解釈を通してだけであり、(2)解釈というのはすべて言語的なものだと思っているのではないか。これはどちらもあやしげな前提だ。解釈というのをものすごい広い意味で使えば(1)は成り立つかもしれないが、その場合(2)は成り立たないか、「言語的」というのがものすごく広い意味になってしまって、トリビアルな主張にしかならないのではないかな(映像というのは表象システムで、表象システムはどれも言語に似てますよねくらいのことしか言えない気がする)。

トマス・ネーゲル「アホらしさ」

タイトルのthe absurdは翻訳だと「人生の無意味さ」になっている。定訳は「不条理」。個人的には「アホらしさ」がいいような気がしているのでそれでいく。 以前からこの論文は構成がわかりにくいと思っていたのでメモ。

コウモリであるとはどのようなことか

コウモリであるとはどのようなことか

Thomas Nagel, The absurd - PhilPapers

Nagel, Thomas (1971). The absurd. Journal of Philosophy 68 (20):716-727.

よくある議論

多くの人は人生はアホらしい、不条理なものだと感じている。ネーゲルの念頭にあるのはカミュサルトルだろう。 ネーゲルはこの直観をうまく表現できる議論を探している。最初に二つ、よくある議論が提示され、否定される。

  1. 宇宙の広さと人生の短かさからの議論
  2. 正当化の連鎖からの議論

1は「私たちが重要だと思っているどんなことも、一万年後には重要ではない」とか、「宇宙は広く、私たちはちっぽけだ」とかいうやつ。ネーゲルによれば、これはおかしい。この議論によれば、宇宙が小さいか私たちが大きいかすれば人生はアホらしくないことになるが、そうではないし、物理的な大きさなど何の関係もないと思われるからだ*1

2。正当化の連鎖はかならずどこかで止まってしまう。金のために働く、娯楽や食料のために金をえる。しかしそれらはどこにもいきつかず、正当化の連鎖はどこかで終わる。最後には死が待っている。だから、何にもならないのではないか、という議論だ。しかし、正当化の連鎖が無限につづかないことや、最終目的が複数あることにそれ自体何の問題もない。この議論が正しければ、正当化の連鎖が無限につづけば人生はアホらしくないことになるが、そうではない。

アホらしさ

これらの議論は失敗しているのだが、人生はアホらしいという直観には真実が含まれている。ネーゲルはアホらしさの概念を簡単に分析したあと、2の「正当化の連鎖からの議論」の変形のような議論を提示する。

アホらしさが生じるのは、意図/願望と現実の間にギャップが生じている場合である。騎士の爵位を授けられたときにズボンがずり落ちるとか、犯罪者が慈善団体の代表者になるケースがこれにあたる。人生がアホらしいのは、この意図と現実のギャップがかならず生じるからだ。

ギャップは、

  • (1)真剣に生きることから逃れられないこと、
  • (2)真剣さに疑いをもつことからも逃がれられないこと

の2つから生じる。私たちは日々何とかして自分の生活を生きていかなければならないし、そのためには様々な目的を追求せざるをえない。ところが、人生を真剣に生きることに対する正当化もどこかで終わる。何のために生きなければならないのか? 幸福のため? では何のために幸福を目指すのか? この問いには答えがない。

もちろん、自分より大きなもの(共同体、宗教)に訴えても状況は変わらない。なぜ共同体の繁栄を目指すのか? なぜ神の栄光が称えられるべきなのか?といった問いに関しても、正当化の連鎖はどこかで終わるからだ。

われわれが一歩退いて発見するのは、われわれの選択を支配し合理性の要求を支える正当化と批判の全体系は、反応と習慣に基づいているのだが、その反応と習慣はわれわれによって決して問題視されず、循環に陥ることなしには弁護されるすべもなく、たとえ問題視されたとしてもなおわれわれが固執せざるをえないようなものなのだ、ということだからである。邦訳p.25

しかし、なぜ、先に提示した2の「正当化の連鎖からの議論」はだめで、この議論はOKなのかというのは難しい。私の言葉で説明すると、「正当化の連鎖がどこかで終わるからいかなるものにも価値はない」という議論はまちがっている。しかし、絶対に疑うことのできない最終的な価値があるという結論も特に正当化されていない。

「尊重すべき最終的な価値がある」という主張をVとすると、not Vも、Vも特に確証されていない。Vには、循環的でない根拠がない。従って、「いかなるものにも価値がない(not V)」を信じることも非合理ではない。

ところが、私たちはVを信じていかざるをえない。すべての価値を疑ったまま生きていくことはできない。ここから、人生のアホらしさが生じる。

対処法

人生のアホらしさにどう対処すればいいのか。ネーゲルは3つの対処法をあげている。

  1. 生の真剣さを放棄する
  2. 自殺
  3. 反逆と嘲笑
  4. アイロニー

1は真剣に生きないというもの。東洋の宗教はこれを理想としたのかもしれないと言われている。2に関して説明は不要だろう。3はカミュが推奨したもの。ネーゲルは、カミュの反逆と嘲笑はロマン主義的すぎるとして、アイロニーをよしとしている。

*1:私はこれは疑っていて、私たちが大きいか宇宙が小さいかすればアホらしくないのではないかと思うがそれは置いておく

スタンフォード哲学事典「問い」

問いquestionの意味論に興味があり、調べている。

Questions (Stanford Encyclopedia of Philosophy)

Hagstrom 2003も読んだ。

Uegaki forthcomingでも勉強させていただきました。

「問い」に関する哲学的興味っていくつかあって、

  1. 問いの意味論に関する言語学・言語哲学上の興味。疑問と答えという言語行為は何をやっていて、疑問は何を意味するのか。
  2. 問いと答えという認識の形式に関する認識論・科学哲学上の興味。特にwhy questionは、「説明」という科学哲学の重要トピックと関連するとされる。あと、ふつう認識論で注目されるのは命題知だが、wh知識というのもある(誰か、いつか、何かなどを知っている)。

スタンフォード哲学事典のこの記事は上記をバランスよく扱っていて、概観をえるにはなかなかよかった(よく見たら意味論の箇所と科学哲学の箇所を書いた人は別だった)。

20世紀の分析哲学って、認識論も言語哲学も、文・命題を中心とするもので、問いと答えというのは、それに対するオルタナティブとして追求されてきたという側面もある。ちなみに、以前読んだ以下の論文は、まさにこの問いと答えに注目した哲学者としてライルとドゥルーズを比較していた。

Peter Kulger「意味、カテゴリー、問い: ライルとともにドゥルーズを読む」 - うつし世はゆめ / 夜のゆめもゆめ

まあ形式意味論・言語哲学における問いの意味論は、そういうデカい話とは特に関係なく盛り上がっているわけだが。

問いの意味論

通常の叙述文が命題を表示するように、疑問文interrogativeは問いquestionを表示すると言われる。そして問いは、命題の集合やそれに類似したものであると言われる。例えば、《誰がいたのか》という問いは、〈花子がいた〉〈太郎がいた〉〈次郎がいた〉などの可能な答えに対応する命題(可能性)の集合であるとされる。疑問という言語行為はそれら複数の可能性を真偽を決定しないままに提示する。

また、これは疑問文の埋め込みについて考えるとわかりやすいかもしれない。「私たちは誰がいたのかについては賛成しあっている」という場合、私たちが賛成しあっているのは、上記のような命題の集合のそれぞれについてだろう。

ただしこの命題の集合について、詳細は論者によって分かれる。

  • Hamblin 1973: 問いは、偽なものを含む可能な答えの集合だよ
  • Karttunen 1977: 問いは、可能な答えのうち真なものの集合だよ
  • Groenendijk and Stokhof 1984: 問いは、包括的exaustiveで真な答え(可能世界によって異なる)だよ

哲学の論文を作る時

発表したり、論文を書くとき、自分がいつもどういう工程でやっていて、どこにどれくらい時間をかけているのかというのを考えていた。「この辺効率化できるかなー」とか考えたかったのでいろいろ書き出してみる。できれば他の人の例も知りたいよね。

重要な前提条件: 私は趣味で論文書いたり発表するだけの人なので、業績を増やす必要があまりない。*1

私の場合、基本的に作業は、「読む」「考える」「書く」くらいしかない。実験しないし、データ集めたりもない。

工程を区分してみる。

  1. 読む: サーベイ
  2. 考える
  3. 書きだす
  4. 書く
  5. 読む: 出典探し用の調査
  6. アウトプット用の練習など

各工程どれくらいだろうか。目安以下くらいな気がする(数値は営業日単位なので、一週間5日、一月20日くらいで計算している)。数字はほんとに目安なので、1/2で済むこともあれば、2倍かかることもあるだろう。

  • 1と2: 並行で40日
  • 3: 10日
  • 4と5: 並行で20日
  • 6: 5日

「読む」「考える」

第一段階ではただ読む。扱おうと思ったテーマに関する論文や本を読む。だいたいそのテーマに関するサーベイなどがあるので、まずそこから手をつけ、文献リストを作り、ひたすら読んでいく(ジャストなテーマに関してそういうのがなければまず隣接分野を調べるとかする)。

この時点で、基本的なアイデアはあることもあるし、ほとんどなくて、「この辺扱いたいけど、何かできそうなことあるかな」くらいの時もある。しかし最初はなるべく無心に読んだ方がいい気がする。

印象では、10本くらいが最初の壁になる(論文10本。著作は1章1本くらいでカウント)。それくらい読むとある程度そのテーマに関する目鼻がつく。「こういう論点があるのかー」というのは何となくわかるし、いろいろアイデアも湧いてくる。あと文献リストを作ると、主流の立場とか、流行してるテーマも見えてくるのでいい。

2の「考える」というのは、だいたい読むのと並行でなされる。というか、私の場合読まないとあまり考えがまとまらないので、1と2はある程度並行にやらないと難しい。

あと、読む難易度はものによってかなり違う。小さくまとまった論文はおおむね読みやすいが、巨匠が書いた著作とかだと、まず巨匠の背景的な発想を知らないと読めなかったりする。馴染みのない分野の論文を読むのも難しい。また自分が賛成するような立場だったり、自分と近い前提のものは読みやすいし、反対に対立する立場は読みにくい。

放っておくと読みやすいものだけ読んでしまうのだが、いろんなものを読まないと、すごく表面的な論点しか扱えなかったりする。いろいろ読んだ方がいい。

哲学の場合、流行している主流の立場が一見うまくいっているように見えても、実は背後に強い前提があったり、どっかに強い負荷をかけてるせいだということがある。その辺をある程度客観的に見て、切り込んでいかないと、あまりいい論文にならない気がする。

あとはまあ時間は有限なのでそんなに何でも読めないという問題もある。しかし、考えてみると、この「読む」「考える」作業がもっとも時間がかかっている気はする。

書き出す

読んでいくうちにアイデアがまとまれば、書きはじめる。何も思いつかない状態でとりあえず書き出してもいいが、アイデアがないと結局つまって、ただただ苦しい状態になる。

理想としては、いいアイデアが出なかったらそのテーマはあきらめて寝かせておくくらいでいいと思う。卒論や修論だとそういうわけにもいかないだろうが。アイデアを思いつく確実な方法はないので、最終的には「何も思いつかないというリスクにどう対処するか」という問題だと思う。

リスクを減らす方法は、一つのテーマにしぼらないことだろう。複数のテーマを並行で進めて、蓄積しておく。その上で、アイデアが出たものから処理していくというのが理想。なかなかそこまではできないけど。

あと一定アイデアがまとまったら、構成を作る。最初にアウトラインだけざっと最後まで作ってから書き出した方が後半スムーズに進む。

この時点で、そもそも思いついたアイデアがうまくいかないことがわかったり、簡単に崩壊することもある。9割がた書いてから崩壊すると悲惨なことになるので、初期段階はアイデアの頑健性の検討が最重要。いいアイデアだと思ったものが検討していくと崩壊することはよくあるので、最初に十分叩いておかないと。

書く

ここまで来たら後はひたすら書く。最後まで書く。推敲とか参考文献は後に回して、まずざっと最後まで書くのがよい気がする。

読む作業は、この段階でも並行するのだが、書きはじめた後は「直接参照する文献/直接引用する箇所を探す」という作業がメインになる。「この箇所引用したらわかりやすいかなー」とか「こういうこと言ってる人いないか」というのを探す。

あとは、推敲作業。ざっと最後まで書いたあと、ひたすら自分で読んで直す。この段階で、最初に作った構成を一回壊して作り直したり。あと煮詰まってきたら人に見てもらう。

最後は発表時間や枚数制限に合わせて長さを調整したりする。発表の場合は、内容が固まったあとは、音読練習して、それに合わせて、微修正を繰り返す。

改めて考えると

人文研究の場合、書く作業や読む技術が注目されやすい。文章術などは教わる機会が多いだろうし、本もたくさんある。読む技術は、読書会やゼミなどで鍛えられるものだろう。

しかし、改めて振り返ると、書き出すまでのサーベイからテーマ選びなどの部分が結構重要だなと思った。しかもこの部分って、人と話し合う機会すらほとんどないので、人によって全然ちがったりしそうだなと思った。「え、トイレでズボン全部脱がないんですか!」みたいな。

あと冷静に仕事として考えると、効率が悪すぎる。こんなに工数かけたら、論文一本で400万くらい貰わないと元が取れない……。

同じテーマで何本か書けば、最初の方の工程はへらせるので、生産性を上げるなら、同じテーマでたくさん論文を増やす(かつなるべく質も下げない)方法を考えるべきなんだろうなあ。

*1:自分では影響範囲はよくわからないのだが、ここの制約のせいで、話はずいぶん変わりそうだ。

Harry Frankfurt「最終目的の便利さ」

この論文で、フランクファートは、そもそも人間が何らかの目的をもつことは何の役に立つのかという問題を扱っている。

On the Usefulness of Final Ends

Necessity, Volition, and Love

Necessity, Volition, and Love

おそらく、何の最終目的ももたない生というのは可能だろう。何の目的ももたない人も、意図的行為はできるかもしれない。あるいは、何の目的もなくとも、何らかの価値を認識することさえできるかもしれない(何かに価値を見出してもそれを目指したりしなければ)。

しかし、いかなる目的も目標もない人生は、意味のない人生ということになるだろう。意味ある人生は、自分にとって重要な活動に従事するものでなければならない。一方、何の目的も目標もない人生を送る人は、何も気にかけていないため、その人にとって重要な活動など存在しないからだ。(もちろん本人はそれでかまわないだろうし、フランクファートも、それが「悪い」人生だとは言っていないが。)

また、フランクファートはおもしろいことを言っている。私たちが人生を捧げる目標を選ぶとき、考慮されるのは、目標自体の価値だけではない。目標には、目指しがいのある目標と、目指しがいのない目標があるからだ。例えば、部屋に引きこもって人類救済ボタン(押すと人類が救済されるボタン)を押し続ける生は、価値ある目標に捧げられているが、あまり有意義な生には見えない。少なくとも、人生の目標を選ぶ際に、目標達成プロセスが有意義かどうかを気にしない人はほとんどいないのではないだろうか。

しかし、そう考えるなら、私たちは、手段の内在的価値のために、目標を選択するのだということになる。手段と目的はこの重要な点で逆転している。

Paisley Livingston「哲学としての映画に関する近年の仕事」

Livingston, Paisley (2008). Recent work on cinema as philosophy. Philosophy Compass 3 (4):590-603.

philpapers.org

「映画に哲学ができるか?」というテーマには、意外と蓄積があって、これはPhilosophy Compassサーベイ論文。 皆様ご存知のように、映画には哲学的テーマを扱ったものがたくさんある。これらは独自の哲学的貢献をなすと考えられるべきなのか?

目次

  • 映画には「哲学する」ことができるか?
  • 作者と意図
  • 解釈のプロジェクトのタイプ
  • 解釈の戦略と哲学としての映画に対する含意
  • 哲学としての映画の強い主張の問題点

この論文のメインの貢献は、映画が「哲学する」と言われる場合には、様々なパターンがあるとして、解釈の種類をわけている部分。著者は以下のような解釈のタイプを区別している。

  1. 実際の製作者が哲学的問題を扱うことを意図している場合
  2. 解釈者が補助線を引いて、著者が意味しえたことを展開する場合
  3. 映画を、何らかの哲学的立場を具体化したものとして扱う場合

非常にベタな例だが、『マトリックス』を観れば、懐疑論的状況について鮮烈かつ具体的に理解することができるだろう。あるいは、『ダークナイト』を観て、正義と悪の境界について、鮮烈かつ具体的に考えさせられるという人もいるかもしれない。

こういう解釈は多くの場合、解釈者が補助線を引いて自分の解釈を読み込んだりするものだ。あまりに牽強付会だと、映画をダシに自分の話をしているだけになってしまうが、作品解釈というのはしばしば一定程度の読み込みを必要とするものだし、一種の「見立て」のような解釈も、映画の解釈としては別に変なものではない。

また、映画独自の貢献を考える場合、単にストーリーやわかりやすい寓意だけではなく、重要なのは、映像・編集・音楽・舞台装置・演技といった部分。この論文では「映画は映画独自の手法で哲学的貢献を果たすことができる」という主張は「強い主張bold thesis」と呼ばれている。著者は強い主張には懐疑的なようだが、映画は抽象的な哲学的主張を具体化し、鮮烈な経験として理解させてくれるという部分は認めている。

感想

おもしろいのはやっぱりビジュアルや音楽や編集など、非言語的手段によるアイデアの表現という部分だ。私は、非言語手段でも哲学的アイデアを伝えられるという強い主張に賛成なのだが、難しいのは、これを認めるには、哲学理解もちょっと変えないといけないというところだ。哲学というのは、単に知識を与えるだけではなく、世界はどのようであるのかという理解を与えるものでもあると考えれば、映像は、世界の見方を表現し、哲学的アイデアを表現できると考えても別に変ではないと思う。

例えば『マトリックス』で言えば、あれが懐疑論の映画なのは当たり前で、それよりバーチャル世界でチートで活躍したいという鮮烈な欲望に気づかされることなどが大事なのではないか。ダウンロードしたカンフースキルで戦う映像とか、キアヌ・リーブスのチート感なしにそれを表現することはできないわけだし。

Harry Frankfurt「私たちが気にしていることの重要さ」

Harry Frankfurt, The importance of what we care about - PhilPapers

Frankfurt, Harry (1982). The importance of what we care about. Synthese 53 (2):257-272.

以下の同名の論文集にも収録されている。

The Importance of What We Care About: Philosophical Essays

The Importance of What We Care About: Philosophical Essays

重要さimportanceの分析に興味があるのだが、こういう論文があるのを知って読んだ。ここでフランクファートは「重要さ」importanceと、関連する概念である「気にすること」care aboutについて論じている。

重要さ

フランクファートによれば、何を信じるべきか?は認識論の問い、何をなすべきか?は倫理学の問いであり、何を気にすべきか?はそれらとは異なる第三の領域を形成している。私たちが気にすべきなのは、私たちにとって重要なことであり、それは時に道徳ともかかわるが、かならずしもそれとは重ならない。私たちにとって重要なことの中には、非常に多様な事柄、スポーツや数学や友人や正直であることなどが含まれている。

フランクファートは重要さの定義を与えておらず、何かが重要であるということは、そのものが重要なちがいをもたらすということだという循環的な説明だけを与えている。この論文の主眼は、重要さ自体よりも、重要さに対応する態度である「気にすることcare about」の分析にあるようだ。

気にすること

何かが重要であることは何かを気にする理由を与える。私たちは自分にとって重要なことを気にするし、何かが重要であることは、その対象を気にする・気にかけることを正当化する。

また、何かを気にするということは、対象の喪失・強化・衰退などに反応すること、それに応じて、傷ついたり利益を得たりするようになるということだ。何かを気にしている人は、その何かを自分の一部のように見なす。例えば、家族の幸福を気にする人は、家族の幸福によって大きな影響を受けるし、家族の幸福のために動き、そのために自分の生活を捧げるだろう。

なお、この例でわかるように、フランクファートは、愛もまた、気にすることの一形態であると見なしている。

自由意志の限界事例として

また、その人が何を気にしているかということは、時に意志のコントロールを越える。このことを表現するために、フランクファートは、キング牧師の「そうせずにはいられなかった」という表現を引いている。

フランクファートはこの種の必然性を、「意志的必然性」と呼ぶ。意志的必然性は、依存症の人が自分の意志に反してアルコールやニコチンに手を伸ばすのとはちがい、強い意志から生じる。意志から生じるにもかかわらず、それが他の選択肢を退けるのは、「どのような意志をもつか?」ということ自体は意志のコントロールを越えた事柄だからだ。

フランクファートによれば、意志の形成とは、根底的には、何かを気にかけるようになることである。このため、何かを気にかけることは、人を制約するのだが、一方で、自律を促進するようなものでもあるとされる。