Mark Windsor「不安な話」

Windsor, Mark (2019). Tales of Dread. Estetika 56 (1):65-86.

「テイルズ・オブ・ドレッド(不安な話)」(Tales of Dread)は、ジャンル名なのだが、英語でも特にジャンル名として定着しているわけではない。元はと言えば、ノエル・キャロルが『ホラーの哲学』の中で、ホラーに似ているが、ホラーとは区別されるジャンルとして提示したのがはじまりだ。キャロル自身は、ホラーというジャンルを、恐怖と嫌悪を与えるモンスター(ドラキュラや幽霊など)の存在によって特徴づけている。一方、テイルズ・オブ・ドレッドは、「神秘的で、心をかきみだす超自然的出来事」を描くジャンルであるとされる。

おそらく、例をあげた方が早いだろう。ノエル・キャロルは、このジャンルの具体的な作品として、テレビドラマ『トワイライトゾーン』の多くのエピソードや、W・W・ジェイコブズの「猿の手」などをあげている。この論文の著者であるマーク・ウィンザーは、エドガー・アラン・ポーの短篇の多くや、最近のドラマ『ブラックミラー』やデヴィッド・リンチの作品をあげている。日本で言えば、ドラマ『世にも奇妙な物語』や、藤子・F・不二雄の異色SF短篇集に集められた多くの作品や、昔ジャンプで連載していた『アウターゾーン』などはこのジャンルに含まれるだろう。多くの場合、短篇または短篇のシリーズからなり、不気味な出来事が起こって、悲惨な結末で終わることが多い。「三つの願いをかなえるミイラがあって、欲を出して変なことを願ったために大変なことになってしまう」とか、「ある日目覚めたらパラレルワールドにいて誰も自分を覚えていない」とか、そういう類の話だ*1

ノエル・キャロルは『ホラーの哲学』の中で、通りすがりにこのジャンルに触れ、このジャンルはホラーとは別個の取り扱いを必要とするだろうと述べているが、それ以上議論を深めることはなかった*2。そこで、この論文の著者であるマーク・ウィンザーが改めて、このテイルズ・オブ・ドレッドというジャンルをとりあげたというわけだ。ちなみに、マーク・ウィンザーは「不気味とは何か?」("What is Uncanny?")という論文でフィンランド美学会のアーティクルオブザイヤーを受賞した、いわば不気味哲学界のホープであり、本論でも、その不気味論をいかし、不気味感情の面からテイルズ・オブ・ドレッドジャンルを扱っている。

不気味とは何か

マーク・ウィンザーによれば、不気味とは、起きるはずのないと思われる出来事に直面し、何が本当なのかわからなくなる現実喪失の感覚によって生まれる感情だ。

たとえば、物語の主人公が喋る動物に遭遇したとしよう。主人公があっさりと受け入れればただのファンタジーだが、主人公が受け入れず、自分がおかしくなったのではないか? もはや何が現実なのかわからないと不安になれば、その時に喚起される感情が「不気味」だ。

ウィンザーによれば、テイルズ・オブ・ドレッドというジャンルは、この不気味の感情を喚起するジャンルとして特徴づけられる。一般的なホラージャンルを規定する感情が恐怖と嫌悪であるのに対し、不気味さに特化したジャンルとしてテイルズ・オブ・ドレッドがあるというアイデアだ。

基本的なアイデアは以上だが、フロイトの「不気味なもの」論文や、トドロフの『幻想文学論序説』を丁寧に解釈して自分の説との関係を整理していたりなど、細かい部分もなかなかおもしろい論文だ。

*1:ちなみに、W・W・ジェイコブズの「猿の手」が、まさにこの三つの願いをかなえる不気味なミイラの話。これはその後何度もパクられて定番パターンになっているので多くの人が見たことがあるのではないかと思う。ジェイコブズの短篇自体も怪奇小説アンソロジーの定番になっている。

*2:実はキャロルはその後、テイルズ・オブ・ドレッドを扱った論考も書いているようで、ウィンザーもこの論考に触れているが、わたしは未読なのでここでは触れない。

Kalle Puolakka「日常の中の小説」

Puolakka, Kalle (2019). Novels in the Everyday: An Aesthetic Investigation. Estetika 56 (2):206-222.

日常美学(エヴリデイエステティクス)の観点から、小説を読むことの経験を扱った美学論文。当然ながら、コンスタントに小説を読む読者にとって、読むことは日常のルーチンの一部だが、この論文では、ピーター・キヴィの文学の哲学を援用することで、日常(エヴリデイ)の一部としての「読むこと」を扱っている。

元のキヴィの著作は、実際にはこの論文とはまったく別の文脈にある問題を扱う著作なのだが、著者はそれを応用して小説の読書経験の分析に使うという方針をとっていて、ややアクロバティックだが、おもしろかった。

小説を読むことのエヴリデイネスと、読むことのパフォーマンス

現代の読者にとって、小説はひとりで黙読で読むことが当たり前になっている。だが、これは歴史上比較的新しい出来事で、かつては物語は口誦され、複数人で楽しむことが当たり前の時代もあった*1。一方キヴィ(およびこの論文の著者プオロッカ)は、現代の黙読もまた、かつての朗読と同様に、パフォーマンス(上演芸術)の一種として捉える。

黙読をパフォーマンスと捉える理由は、読むことには一種のスキルという側面があるからだ。小説を楽しむには、想像で場面を再現し、小説の内なる声やリズムに自分を調和させる必要がある。小説の読者は、日々のルーチンの一貫として、新しい挑戦に挑み、新しい作家やジャンルを試し、時には失敗し、時には成功する。

さらに現代的な黙読は、孤独で親密な自分のための時間と捉えられる。多くの読者は眠る前に、ベッドの上で、自分だけの密やかな読書の時間を楽しむ。日常のルーチン的な経験には、平凡さとともに、もう少し積極的な意味、例えば災害の際などに失なわれてしまうような、安全や安心の感覚が伴う。コンスタントに小説を読む読者にとっては、小説を読むことは、まさに大切な日常の一部としてのルーチン的な経験の典型と言えるだろう。

つまり、読書は、ルーチン的経験であり、エヴリデイネスの重要な部分を含むが、一方で、しだいに上達し、深化する蓄積的な側面ももっている。この両者の側面を含むことで、小説を読むことは、日常生活の中で重要な地位をえている。

中断しながら読むこと

Once-Told Tales: An Essay in Literary Aesthetics (New Directions in Aesthetics)

Once-Told Tales: An Essay in Literary Aesthetics (New Directions in Aesthetics)

  • 作者:Kivy, Peter
  • 発売日: 2011/05/17
  • メディア: ハードカバー

また、キヴィはOnce-Told Talesという著作で、小説の読書は中断しながら読むことを前提としているという論点を扱っている。著者は、この中断の経験の積極的な意味についても論じており、日常生活の合間に、中断しながら小説を読むことは、日常生活に独特のムードや雰囲気をもたらすと捉えている。

(キヴィの扱っている中断の話はなかなかおもしろく、もう少し詳しく紹介したい気もするが、長くなったのでこの辺で)

*1:この辺の黙読の歴史の話は、近年は異論もあるらしく、キヴィが著作でちょっと紹介していたが、細かい話は忘れてしまった。

Mark Okrent, Intending the Intender:あるいは、なぜハイデガーはデイヴィドソンではないのか

Intending the Intender: Or Why Heidegger Isn’t Davidson,” in Heidegger, Authenticity, and Modernity: Papers Presented in Honor of Hubert Dreyfus, ed. M. Wrathall (Cambridge: M.I.T. Press, 2000).

ハイデガーデイヴィドソンを比較する論文。たまたま見つけたので読ん だ。 というかachademia.eduにHeidegger in Americaというタイトルでアップロードされていたのだが、これ違う論文なのでは? (読んでから気づいた)

著者によれば、ハイデガーデイヴィドソンの立場は実は類似しており、どちらもデカルト主義に敵対しており、行為との結びつきによって志向性を説明しようとする。

ここでいうデカルト主義は、次の主張を擁護する立場だ。(1)心は実体である。(2)あらゆる心的状態は意識的である。(3)状態は、意識的である場合にのみ志向内容をもつ。(4)意識的心的状態はその表象的性格のために志向的である。(5)心的状態において表象されるものは思考者に透明である。

この立場によれば、心は主体にとって透明であり、心的状態の内容は主に内省を通じて確定される。

デイヴィドソンハイデガーはどちらもこの立場に批判的であった。両者にとって、心的態度に志向的内容を与えるのは、行為との結びつきである。例えばデイヴィドソンにとっては、「今日は晴れている」といった信念は、他の行為や態度、例えば、「だから洗濯物を干そう」といった行為を合理化し、動機づけるかぎりにおいて、はじめてかくかくの信念たりえる。

一方ハイデガーにとっては、志向性の典型は、道具の使用であり、例えばハンマーをハンマーとして志向する際、わたしたちが示す態度は気づかいであり、気づかいを通じてわたしたちは環境や道具や道具の使用目的などと関わる。この態度が世界内存在としてのわたしたちを特徴づけている。

つまり、大雑把に言うと、どちらもデカルト主義を批判し、行為との関わりによって志向性を説明しようとしている。だが、ハイデガー独自の部分として著者は以下の論点をあげる。

著者によれば、デイヴィドソンは行為を扱う際に、目的合理性だけに訴えているが、ハイデガーは別種の規範性も扱っている。それは道具の使用に結びついた規範性であり、道具の「正しい使用法」に結びついたものだ。さらに道具の正しい使用法を参照することで、われわれは自分のアイデンティティも選ぶ。例えば、靴屋の道具を正しく使うことで、ひとは靴屋になる。これらはハイデガー独自の論点だろうと著者は主張する。

エドガー・アラン・ポー「アッシャー家の崩壊」

気軽に読んだ小説の感想などをもっと書いていきたいと思ったので書いていこう。

『「幽霊屋敷」の文化史』という本を読んでいたら、ポーの「アッシャー家の崩壊」の話が出てきて、そう言えば読んだ記憶がないなと思ったので読んだ。

「幽霊屋敷」の文化史 (講談社現代新書)

「幽霊屋敷」の文化史 (講談社現代新書)

はじめは青空文庫版のやつで読んだのだが、古い訳で読みにくいし、何かよくわからない話だなと思ったので、下記の訳で読み直したら結構おもしろかった。

「アッシャー家の崩壊」は、とにかく不気味な雰囲気はあるが、何だかよくわからない話で、『「幽霊屋敷」の文化史』でも、「終末のカタストロフに向かって物語が進展するあいだ、これといって何も起こらない」と言われている(p.99)。

しかし、順を追って見ていくと、この短篇は

  1. 無生物も意識をもつかもしれないという話と、アッシャー家の不気味な屋敷がまるで意志をもっていたようであったという話があり、
  2. アッシャー家の屋敷と、代々の子孫には不思議な精神のリンクがあったという話があり、
  3. 当代のアッシャーは精神の緊張の限界にきていたという話があり、
  4. 最後に、陰惨な事件のため、アッシャーの精神に限界がきた。その結果何が起こったか?

という話になっている。繰り返し挿入される「観念が具体物にやどる」というエピソードも含め、ポーは、汎心論めいた「物に心がやどる」テーマに関心があったのだなと伺われる。ちょっとわかりにくいのは、最後の陰惨な事件がただの事故なので、ちょっと拍子抜けしてしまうが、それはあくまでアッシャーの精神が崩壊をきたすきっかけとなった事件で、あまり本題ではなかったのかもしれない(読み直したらそのことに気がついた)。

個人的におもしろいなと思ったのは無機物もまた意識をもつかもしれないという話の箇所で、権威づけのため、当時の科学文献がひかれたりしていて、結構SFチックな内容になっている(ポーがこの小説で使っているアトモスフィアという概念も、当時の科学文献からとったのではないか、という指摘は『「幽霊屋敷」の文化史』でも触れられていた)。この辺をもっとふくらませれば、普通に現代でもSF短篇として通用しそうな話ではある。

アントン・フォード「行為と一般性」

Ford, Anton (2011). Action and generality. In Anton Ford, Jennifer Hornsby & Frederick Stoutland (eds.), Essays on Anscombe's Intention. Harvard University Press.

この論文では、「行為は定義できない」という立場——より正確には「行為は、単なる出来事 + Xとしては定義できない」という立場——をアンスコムに帰属させ、その立場を擁護している*1

前半では、概念の定義として、「類 + 種差」というタイプの定義が可能になるカテゴリーと、そうではないカテゴリーがあるという話をしている。

例えば、わし鼻は、くぼんだ鼻、つまり「鼻 + くぼんでいる」として定義できる。しかし、これが可能なのは、〈くぼんでいる〉という特徴が、鼻概念とは独立した偶有的特性だからだ。〈くぼんでいる〉という特徴は鼻以外のものに例化されることもあり、鼻概念とは独立に理解可能である。

だが、この種の定義が不可能なカテゴリーもある。例えば赤は色の一種であるが、赤を「色 + X」として非循環的な形で定義することはできない。〈単なる色〉に何らかの条件を付け加えることで赤を定義するのは困難に思われる。例えば、「人間に赤さの経験を引き起こす色」といった定義はできるかもしれないが、これは循環している。同様に、馬は動物の一種であるが、馬を「動物 + X」として定義するのは難しそうだ。伝統的にはもちろん「馬は四足の動物である」といった定義はあるが、これはあまりうまくいっているようには見えない。

同様に、行為というカテゴリーは、出来事の一種かもしれないが、「単なる出来事」というカテゴリーに何らかの偶有的特性を付け加えて、行為というカテゴリーを定義することはできないと著者は主張する。

そのために著者が持ち出すのが「ヒュームの循環」という事態だ。ヒュームの循環は、ヒュームとはそれほど関係ないのだが*2、〈ある行為Xを遂行するための構成的条件にXの概念を持つことが含まれる〉という事態のことだ。例えば、約束、結婚といった行為についてはこれが成り立つように思われる。一般的には、約束するひとは、すでに約束とは何かを知っているのでなければならない。少なくとも、約束という制度が成り立つための構成的条件のひとつには、関係者が約束概念をもっているということが含まれるように思われる。

もちろん、厳密に言うと、約束とは何かをあまりわかっていないまま、約束をするひとがいる可能性はあるのだが、少なくとも〈健全な約束〉や〈約束の典型例〉に話をかぎれば、約束するひとはすでに約束の概念をもっているはずだ。

以上のような循環は約束という概念の定義を困難にする。そして、行為の一種である約束を定義することが困難なのであれば、行為一般というカテゴリーも定義できないのだと著者は主張する。

感想

著者は、〈行為の下位カテゴリーの中にヒュームの循環が成立するものがあるなら、行為一般にもヒュームの循環が成り立つ〉という風に考えているように思われるのだが、ちょっとそこの流れがどういう理屈なのかあまり再構成できなかった。該当箇所の訳を載せておく。

もし行為の本質的種のうちのひとつにおいて、行為者が自分が何をしているのか知っており、かつそれが行為であり、単なる出来事ではないと知っているのであれば、約束の場合のように、〈行為者は自分がその行為を遂行する者だと知っている〉ということが、行為それ自体の本質に属する——ゆえに、行為にも、ヒュームの循環が成立する。 If one essential species of action is the action whose agent knows what she is doing, and that it is an action and not a mere event, then it belongs to the nature of action as such, as it does to that of a promise, that the agent of it knows she is the agent of it—so that action, too, gives rise to a Humean Circle.

あと、ヒュームの循環があると定義が困難になるというのはわかるのだが、定義が不可能になると言われると、そこまで言えるだろうか?というのは疑問(わたし自身は特に強い意見があるわけではないのだが)。例えば、芸術作品というカテゴリーについて、ここでいうヒュームの循環が成立することは多くの芸術哲学者が認めることだと思う(芸術作品を作るにはすでに芸術作品の概念をもっていなければならない)。

しかし、だからと言って芸術作品の定義が不可能だと思われているかと言うと、一般にそういう風には理解されておらず、「だから、制度や慣習を組み込んだ定義を立てなければならないのだ」という風に理解されていると思う。

ただし、これがアンスコムの立場なのだと言われれば納得感はある。例えば、芸術哲学で言えば、モーリス・ワイツウィトゲンシュタインの影響のもとで、芸術作品について似たようなことを述べているし、ピーター・ウィンチも(行為に関して)同じようなことを言っていた。だから、上記のような立場は、当時アンスコムウィトゲンシュタインの影響を受けたひとびとには広く共有されていた考え方だったのかもしれない。

あと、もうひとつ気になったのは、どちらかと言うと、なぜ上記のようなことを主張したいのか、これが言えると何がうれしいのかというがわからなかったので、もう少しそこが知りたいなと思った。

*1:著者は、意図的行為は定義できないという話もしているが省略。

*2:ヒュームがある箇所で「良いことをするためにはまず何が良いことなのか知っていなければならない」という趣旨のことを言っているらしい。

ヴィクター・ラヴァル『ブラック・トムのバラード』

たまに読んだ小説の感想を書こうと思う。

本作は、ラブクラフトの短篇小説「レッド・フックの怪」(または「レッド・フックの恐怖」)を語り直したもの。ノヴェラ(中編小説)にあたるのだろうか。それほど長い作品ではない。よく知られているように、ラブクラフト自身は人種差別主義的な思想をもった人物であり、作品にも時々そのような思想が顔をのぞかせることがある。本作の元となった「レッド・フックの怪」もそのひとつで、移民、外国人、有色人種などが忌しい存在と関わり、怪しい魔術を操るひとびととして描かれる。一方、本作は、自身も黒人であるヴィクター・ラヴァルがその「レッド・フックの怪」をトミーという黒人少年の視点から書き直している*1

以上のような本作のスタンスは「相反するすべての思いをこめて、H・P・ラヴクラフトに捧げる」という献辞にもよく表われている。本作はラブクラフトにリスペクトを捧げつつ、その人種差別的な部分を含め、換骨奪胎する試みなのである。

一般的には、以上のような本作のスタンスが興味をひくところなのかなと思うし、わたし自身もそれで興味をもったのだが、読んだ感想としては、むしろラブクラフト的な作風とうまく距離をとっている点が印象に残った。ラブクラフトっぽい描写やガジェットもそれなりに出てくるのだが、いわゆる「ラブクラフトっぽい作品」とはかなり違っている。

ここで言う、いわゆる「ラブクラフトっぽい作品」というのは、(a)はじめは懐疑的な語り手が少しずつ忌しいものに近づいていき、(b)それとともに精神に変調をきたし、(c)最終的にはやばいものに直面して、呪文のような謎の言葉(イアイア!とか)を吐いて死ぬなどの特徴をもった作品のことだ。この直前に読んだスティーヴン・キングの短篇(「呪われた村〈ジェルサレムズ・ロット〉」(『ナイトシフト1深夜勤務』収録)がもろにこれだったのだが、『ブラック・トムのバラード』これとはかなり違っている。本作はラブクラフト作品を下敷にしつつ、いわゆるベタなラブクラフト風を避けているのだ*2

具体的にどう違っているかというと、本作はむしろ近年の「ニュー・ウィアード」と呼ばれるジャンルに近い(近いというかニュー・ウィアードに分類されるような気がする)。ニュー・ウィアードの正確な定義はわたしも知らないし、本当に合意があるかどうかも微妙なのだが、一般的には、チャイナ・ミエヴィルとかジェフ・ヴァンダミアなどの小説に見られるようなファンタジーとSFとホラーを混ぜたような作風の小説をそう呼ぶのだと思う(多分)。本作のどこがニュー・ウィアードっぽいのか、言語化するのは難しいのだが、(a)魔法などが当り前に存在する世界観、(b)魔法のルールなどがファンタジーの定石を外してくる感じ、などはニュー・ウィアードっぽい。単にミエヴィルっぽいという説もあるが、少なくとも、ミエヴィル以後のファンタジー、ホラー、SFを取り混ぜた雰囲気をよく取り入れていて、それがうまいことラブクラフト成分を相殺している。もちろん、ファンタジー、ホラー、SFを境界横断的に書く作風と言えば、そもそものラブクラフト当人がまさにそのような作風であるし、実際ラブクラフトはニュー・ウィアードの祖のひとりとされることもあるようだが、一般的には、「名状しがたい」「忌しい」「クトゥルフ」などのイメージが強すぎて、それが見えにくくなっている。それに対し、本作は、テーマ上も、作風上も、新しい方向からラブクラフトにアプローチすることで、ラブクラフト作品のポテンシャルまで鮮烈に見せてくれたように思った。

*1:ちなみに「レッド・フックの怪」は『ラヴクラフト全集 5』に収録されている他、オーディオブック版も出ている。オーディオブック版は余計な効果音が入っているが、ラブクラフトはオーディオで聞くとめちゃくちゃおもしろいのでおすすめ。

*2:念のため注記しておくが、別にベタなやつも嫌いではない。

今年のベスト的な

読書メーターで読んだ本、kinenoteで観た映画を記録しているので、振り返って印象に残ったものを記載してみる。大半は2019年に作られたものではない。

全滅領域 (サザーン・リーチ1)

全滅領域 (サザーン・リーチ1)

叛逆航路 (創元SF文庫)

叛逆航路 (創元SF文庫)

ワンダーブック 図解 奇想小説創作全書

ワンダーブック 図解 奇想小説創作全書

ゼロから作るDeep Learning ―Pythonで学ぶディープラーニングの理論と実装

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嘘と貪欲―西欧中世の商業・商人観―

嘘と貪欲―西欧中世の商業・商人観―

理由 (朝日文庫)

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わたしの名は赤〔新訳版〕 (上) (ハヤカワepi文庫)

わたしの名は赤〔新訳版〕 (上) (ハヤカワepi文庫)

Only Imagine: Fiction, Interpretation and Imagination (English Edition)

Only Imagine: Fiction, Interpretation and Imagination (English Edition)

  • 大きな変化として、読む本の半分くらいがオーディオブックになった。家で本を読む時間があまりないので移動中に聞けるオーディオブックばかり消化されていく。リストで言うと宮部みゆきオルハン・パムクはオーディオブック版があったから読んだ。書籍だと難しい感じの本もオーディオブックだとすっと入ってくる(ことがある)のでうれしい。
  • 去年から引きつづきの傾向だが、ノワール、犯罪小説を良く読むようになった。映画もノワールものばかり見ている。リストには入っていないが、チャンドラーのフィリップ・マーロウシリーズを一通り読んだのも今年だったと思う(主要作は去年読んだので入れなかった)。
  • それ以外では『叛逆航路』の三部作と『全滅領域』の三部作には特に影響を受けたと思う。特にヴァンダミアの方はすっかりファンになって『ワンダーブック』も一生懸命読んだ。

映画

スパイダーマン:スパイダーバース (字幕版)

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  • 発売日: 2019/06/26
  • メディア: Prime Video

回路

回路

  • 発売日: 2013/11/26
  • メディア: Prime Video

リング

リング

  • 発売日: 2013/11/26
  • メディア: Prime Video

霊的ボリシェヴィキ

霊的ボリシェヴィキ

  • 発売日: 2019/06/05
  • メディア: Prime Video

バニー・レイクは行方不明 (字幕版)

バニー・レイクは行方不明 (字幕版)

  • 発売日: 2013/11/26
  • メディア: Prime Video

上海から来た女 (字幕版)

上海から来た女 (字幕版)

  • 発売日: 2013/11/26
  • メディア: Prime Video

  • 去年は50-60年代のSF映画をよく観ていたが今年は飽きてきたのかノワールをよく観るようになった。どうでもいいやつもいっぱい観たのだが、『バニー・レイクは行方不明』と『上海から来た女』はオールタイムベスト級。『上海から来た女』は原作小説も買った。
  • 改めてあげるとノワールとJホラーばっかりだった。積極的にホラーを観たつもりはなかったが、印象に残ったものをあげるとこの辺だった。『リング』はなんで今さらという感じだが、『回路』と『霊的ボルシェヴィキ』を入れたのでバランス的に入れようと思った(実は『回路』より『降霊』の方が好きなのだが、『降霊』を観たのは今年だっけ? 去年だっけ? 『降霊』はめっちゃ恐い上にストーリーとしてはノワールなのでよく考えたら『降霊』の方がバランスがよかったかもしれない)。