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多少変更される可能性はありますが、一応↓こんな内容を発表しようかと思っております。
不幸の哲学 - 不幸は過去からどれだけのものを奪い去るか
害あるいは不幸は、福利論、道徳哲学、行為の哲学におけるきわめて重要な概念のひとつである。他人に害を与えることは道徳的不正の代表的な例であり、合理的主体には害を避ける理由がある。さらに、危害原理Harm Principle(人々は自らの行為が他人を害しないかぎりにおいて自由である)に見られるように、政治哲学にかかわる概念でもある。
また近年では、特殊な害のひとつである「死の害」に関する哲学的議論が盛んである。死の害を巡る議論が、害一般についての議論にも影響を与え、Hanser,Thomson, Bradleyなどの論者が害の哲学に取り組んでいる。
本発表が問題にするのは、この害という概念と時間との関係である。時間の中で生きる行為者であるわれわれにとって、過去や未来の不幸がどのような意味を持っているかということが基本的な関心のひとつである。より具体的には、不幸の哲学にかかわる問題のひとつである、未来の出来事が過去の幸福を奪い去るという形の不幸は存在するかという問題を扱う。
われわれは、未来の出来事が、幸福だった過去をそっとしておいてくれると考える傾向にある。過去の幸福は、もはや誰の手も届かないところにあって安全であり、何ものにも奪われることはないと考えている。
ところが、不幸な出来事について、いくつかの仮定を認めるならば、こうした幸福観は退けられなければならない。本発表は、過去は安全ではないという見解を擁護する。
未来の出来事が過去の幸福に及ぼす影響は二つの方向から議論される。
ひとつは、多くの価値が恒常性を持たないことである。感覚的快楽や時点に結びついた欲求の充足は、過去になることによって、われわれにとっての価値を失う。過去の快楽は、しばしば現在の行為者に何ももたらさず、何の意味も持たない。
もうひとつは、出来事の時間構造である。出来事の存在論や言語哲学において指摘されてきたアスペクトの存在を考慮するならば、不幸な出来事の中にも、単純な瞬間的出来事の総和とは見なせないようなアスペクトをもったものが存在する(達成、到達としての不幸)。こうした構造をもった不幸は、Vellmanが指摘するような福利の物語構造の一種であると考えられる。また単純な瞬間的出来事の総和ではない不幸が存在するならば、われわれは未来の出来事に依存する形で、過去の出来事がより大きな不幸の一部となる可能性を認めなければならない。
本発表では、こうした過去を奪い去る不幸の存在を認めるのにくわえ、合理的行為者はこの種の不幸をも避けるべきであるという立場を擁護する。こうした見解を認めるならば、合理的行為者を、現在と未来のみに配慮する存在として捉えるだけではなく、過去を含めた人生全体に配慮しつつ行為する存在として捉え直さなければならない。