Thomas Nagel『利他主義の可能性』

Possibility of AltruismPossibility of Altruism

ネーゲルのデビュー作にして、(メタ)倫理学的行為論の出発点と言われる古典的著作。

10章くらいまで読んだのだが、よくわからなくなってきたので書き出してみる。

ネーゲルはこの本の中で、以下の2つを擁護している。

  1. 理由は根底的には無時制である。いくつかの出来事は、それが未来のことであっても、つねにそれを促進する理由がある。
  2. 理由は根底的には非人称である。いくつかの出来事は、それが他人のことであっても、誰にでもそれを促進する理由がある。

大雑把には、われわれは未来の自分のことを考慮すべきだし、それとおなじように他人のことも考慮すべきなんだよというようなことが論じられている。

ネーゲル自身による定式化

すべての理由は以下のような述語Rである。すべての人pとすべての出来事Aについて、もしRがAについて真であれば、pはAを促進する一応の理由prima facie reasonをもつ。p. 47

これは理由の定義のように見えるが、どうも理由の伝搬一般を扱うための図式のようなものらしい。ネーゲルによれば、私が今もっている理由(時制的理由)は、無時制的理由によって支えられ、そこから派生したものでなければならない。また私が自己に対してもっている理由(人称的理由)は、非人称的理由によって支えられ、そこから派生したものでなければならない。

もう少し図式っぽく書くと、

x[Aの(一般的)理由がある]ならば、y[Aを促進する(派生的)理由がある]。

x部分、y部分は時制と人称でそれぞれ異なる形で具体化される。

  • 時制的伝搬の例: 「いつか医者になる」という無時制的理由があるならば、今、「未来に医者になること」を促進する理由がある。
  • 人称的伝搬の例: 「誰かがAの命を救う」という非人称的理由があるならば、私には、「Aの命を救うこと」を促進する理由がある。

これは例えば手段に関する原理「Aする理由があり、BがAを達成するよい方法であれば、Bする理由がある」というのに近いかもしれない。

一方、ネーゲルの原理と競合する立場は、「私は今、未来の自分について考慮したい。だから未来の出来事を考慮する理由がある」などのように媒介的な欲求の存在に訴えるものだ。これを欲求ベースの説明と呼ぶことにすれば、ネーゲルの立場は、欲求ベースの説明ではなく、原理ベースの説明が正しいというものだ。

ネーゲルは、慎重に立場を切り分けた上で、欲求ベースの立場を批判する議論を行なっている。例えば、原理ベースの説明でも媒介的欲求の存在は認められる。私たちが合理的であれば、私たちは原理に即した欲求をもつだろう(ちょうどある目的を欲する人が、その手段に対しても欲求をもつように)。反対に、原理に訴えず、欲求だけによって説明しようとするならば、満足な説明はえられない(「目的に対する最善の手段を選びたい」という欲求によって、ある手段を選ぶ理由を説明しようとすることは奇妙だろう)。

書かれた時代を考えても、この微妙な対立を立て、欲求ベースの説明を退けようとするあたりはネーゲルの天才を感じさせる。

(逆に言うと、手さぐりでやってるせいか、整理されていない箇所も多くてごちゃごちゃしているなとも感じるのだが)