Agustin Rayo, Gabriel Uzquiano『絶対的一般』

Absolute Generality

Absolute Generality

  • 作者: Agustin Rayo,Gabriel Uzquiano
  • 出版社/メーカー: Oxford University Press, U.S.A.
  • 発売日: 2007/01/18
  • メディア: ペーパーバック
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序文だけ読んだのでまとめます。
本論文集のテーマは「絶対的に一般的な探求は可能か」、つまりわれわれは、「存在する絶対的にすべてのものabsolutely everything there is」を探求することはできるのかというものです。
たとえば哲学者が

抽象的対象は存在しない。

といったことを問題にするとき、その人は存在する絶対的にすべてのものについて語っている(存在する絶対的にすべてのものは抽象的対象を含まないと言っている)ように見えますが、本当にそうなのか。
全体の問いは形而上学的なものであり、個々の議論は言語学(量化の意味論)や論理学にもかかわるものです。広い意味で実在論対非実在論のようなテーマにかかわるものですね。
こうした一般的な存在の探求は、何かがあるとか無いとかいった存在論的な問題について、形而上学的に語るための可能性の条件としても語られてきました。すなわち、もしも「存在する絶対的にすべてのもの」の探求が可能であれば、形而上学者が「存在」ということで何を意味しているかは明確で、「存在する絶対的にすべてのものに含まれる」=「存在する」ということになるわけです。また、この形而上学的な存在概念は、曖昧でも、図式や概念枠組みに相対的でもない、基礎的かつ実在論的な存在について語ることを可能にします。うれしいですね。


ところで、この問いは、以下の二つのサブクエスチョンに分解されます。

形而上学的問い
すべてを含む議論領域はあるか?

利用可能性の問い
すべてを含む議論領域は、探求の領域として利用可能なものでありえるか?

* 議論領域(domain of discource)の解説はしませんが、「すべて」といったときに指している範囲であるというくらいに理解してください。ときどき「ドメイン」とも書きます。


特に後者の問いは、文脈やその他のものに制限されない、無制限の量化はあるのかといった言語学(意味論)的な問いとも関連します。


そしてもちろん、以上のような問いに対し、肯定する人(絶対説)と、否定する人(非絶対説)がいるわけです。
序文では、非絶対説の側からの懐疑論の議論と、それに対する応答がいくつか紹介されています。
集合論的な議論など、なかなか厄介なものもありますが、なるべくまとめてみましょう。

無限の拡張可能性indefinite extensibility

最初のふたつは厄介なのですが、理解できた範囲でまとめます。
無限拡張可能性の議論は、マイケル・ダメットのアイデアに基づくもので、集合のような概念は無限に拡張可能であり、確定した外延を持たないと考えます。
そのひとつの動機はラッセルのパラドックスを回避することです。
あんまりちゃんと説明しませんが、「自分自身を要素としない*すべて*の集合の集合」などを考えた場合、ラッセルのパラックスが生じるのですが、無限拡張可能性の支持者は、この「すべて」には、「自分自身を要素としないすべての集合の集合」それ自身は含まないという風に考えます。集合のような概念には、確定した外延というものが存在しないため、すべての集合に量化できるとという仮定がまちがいらしいです。
無限拡張可能性から、絶対的一般性が不可能であるという風にすぐ結論する必要は必ずしもないのですが、無限拡張可能性の支持者はしばしばそうします。どうして集合のような概念でさえ、確定した外延がないのに、すべてを含む議論領域があると考える理由があるのか? このように絶対的一般性を否定する場合、無限拡張可能性の支持者には、もしすべてを含む議論領域がないならば、世界がどのようなものであるのかを説明する必要があります。
一方、あくまでも形而上学的な結論は差し控え、われわれの言語の量化は何らかの形で制限されなければならないという控え目な結論に留まることもできるでしょう。

オールインワン原理

関連する議論として、リチャード・カートライトが見出した(支持はしていない)以下の原理に訴えかけるものもあります。

オールインワン原理
議論領域の対象は集合または集合のようなものを形づくる

もしこの原理が正しければ、絶対的に一般的なドメインがあれば、すべての対象が要素であるような集合(または集合のようなもの)があることになり、ラッセルのパラドックスが起きてしまいます。
これに対する応答は、(1)ラッセルのパラドックスが起きないように、分出公理に例外を認めること、および(2)この原理自体を否定することです。前者の方向を取ると、議論領域が集合であるということの意味が失われてしまうなどの問題があるらしいです。では一方、オールインワン原理はなぜ認められねばならないか。ひとつの動機は、モデル理論において、すべてのドメインに対し量化を行なう必要があることです。これに対する応答もいろいろ考えられるが結構難しいらしいです(←すいません、ここはもう少し調べないと議論の詳細がわかりませんでした)。

再概念化からの議論

存在は、概念図式や言語に相対的であると考える哲学的伝統があります。ここではカルナップ、パトナムなどが例にあげられています。
パトナムの議論を考えましょう。
x1, x2, x3の3つの個体が存在する世界があるとします。一方、この世界には、x1, x2, x3以外に、その和(x1+x2, x1+x3, x2+x3, x1+x2+x3)を入れた7つの対象が存在するという考え方もできるでしょう。2つの記述は、事実について対立しているわけではありません。両者は図式を異にするだけで、同一の事態を表現していると考えられます。
ここで両者の記述の内、どちらかが適切かということは無意味であり、どちらもそれぞれの概念図式に相対的に適切です。
一方、何が存在するのかについて、概念図式から独立した事実というものが存在しないのであれば、客観的にすべてを含む議論領域について語ることは無意味です。


これに対する反論は、パトナムの議論は、単に異なる2つの量化子を持った2つの言語が存在しうるということをしめすにすぎず、あくまでも言語についての指摘にすぎない、すべてを含む議論領域があるという形而上学的主張に対する反論にはなっていないというものです。これによって言えることはせいぜい、日常的には、量化子は多義的なものであるということにすぎない、と絶対説の支持者は反論するでしょう。

意味論の不確定性からの議論

この議論は、「利用可能性の問い」の方を問題にするものです。もし、すべてを含む議論領域があるとしても、われわれはどうやってそれにアクセスするのでしょう。
すべてを含むドメインはおそらくは非加算無限なので、一階の加算な言語Lを考えたとき、ドメインを少し制限しても、Lのすべての文を真とすることができるでしょう。
ドメインを「すべてを含むドメイン」よりも制限したとしても、発話を真とすることができるなら、話し手がどのドメインを使用しているかどうやって決定するのでしょうか。われわれは絶対的なすべてのものへ確定的に量化することができないのではないでしょうか。


しかしこの議論には、以下のような実質的な哲学的仮定が含まれています。つまり意図しないものとして排除できるのは、発話が真であることと両立しない議論領域だけであるというような仮定がなければ、おそらく成立しない議論です。どんなドメインであれ、すべての発話を真とするような解釈は平等であるというような発想の議論になっているわけです。
しかし、発話を真にすることだけがドメインを選択する基準ではないかもしれません。たとえばデイヴィド・ルイスのように、ある種の個体の集まりは他のものより「自然」であり、「自然を節目で切り分ける」と考えることもできるかもしれません。
すなわち、すべてを含むドメインに基づいた解釈こそ、自然な解釈であり、解釈は自然なものに制限されるべきだと考えれば、意味の不確定性の問題は生じません。
他には、対象言語の導入規則を強化するとか、協調的な話し手が自ら「絶対的にすべてのものについて話している」と主張する場合、語用論的な考慮のもとで、絶対的にすべてを含むドメインとして考慮すべきだなどの反論が紹介されています。

種[sortal]の制限からの議論

マイケル・ダメットは、量化のドメインは、同一性の基準を与えるような実質的一般名辞(訳はこれでよいか不明)の外延を構成しなければならないという提案を行なっているようです。
これを認めた上で、もしすべてを包括するような一般的な種(「もの」「対象」「個体」など)が同一性の基準を与えないとすれば、それは量化のドメインとなることができるような種の外延を構成せず、すべてを含むドメインは存在しません。
要するに、「この部屋に学生は何人いる?」とか「コンセントはいくつある?」と聞くことは意味をなすが、「ものはいくつある?」と問うことは意味をなさないと。
ただ、量化が種名辞によって制限されるかであるとか、すべてを含む一般名辞がそこから排除されるかといった問題は、それ自体かなり議論の余地のあるものです。