差異は同一性に先立つか

まえおき

樫村晴香ドゥルーズのどこが間違っているか?」を読んでいた。
なんかひさしぶりにフランス現代思想っぽいテキストを読んでいて思いついた疑問。
特に本論とそこまで関係ないのだが、ここには、ドゥルーズは同一性よりも差異を基本的なものとした、そしてそれは何かしらよいことなのだというようなことが書いてあった。そういえばこの間ルーマンを読んでいたらルーマンも同一性より差異を基本に置く方がよいと言っていたように思う。


わたしは普段分析哲学の伝統にあるものばかり読んでいるので、差異が同一性よりも基本的なものだという見解はあまりなじみがない。
しかし、本当は差異の方が基本的で、同一性というのはそこから派生してでてくるという発想もおもしろいかもしれないと思って少し考えてみていた。
とりあえずぱっと思いつく問題を書く。

どこからはじめるか

実はこういう文章で「同一性」とか「差異」という言葉がどう使われているのか自体、個人的にはつまずきのポイントだったりする。
どうつまずくかを説明しよう。一番素朴な仕方で考えてみる。まずモノがある(モノは物理的なものでも、心でも出来事でも抽象物でもなんでもいい)。それぞれのモノ同士の間には様々な関係が成り立つ。モノはそれ自身とは同一である。これが同一性だ。つぎにモノは他のモノとは同一ではない。これが差異だ。
今度は別の方向から攻めよう。何か言語を導入して、モノに名前をつけてみる。とりあえずaとかbとかcとかがモノの名前だとしよう。aとbはひょっとすると同じモノの名前かもしれない。こういう場合「a=b」とか「aはbと同一だ」という文が真になる。これがこのミニ言語上で表現された同一性だ。一方、aとcがちがうものだとすると「a≠c」「aとbはちがう」が真になる。これがこのミニ言語上で表現された差異だ。


以上のような仕方が素朴な理解なのだが、どうもこれでは全然だめなんじゃないかという感じがする。なぜかというと、以上のような発想は、まずモノがあるという発想だからだ。まずモノがあってモノはそれ自身との間に同一性をもっている。この発想がすでに同一性ベースなのでだめかもしれない。これでは差異ベースの発想はうまく理解できないのではないか。

差異はいくつあるか

そこで全然ちがうところから出発した方がよさそうな感じがする。まず差異がある。つぎに差異がモノをつくりだす。aとbがあってaとbの間に差異があるのではなくて、まずいきなり差異があって、差異によって、差異のおかげで(途中経過は謎だが)aとbはちがうといった事実が成り立つ。


しかしこれも結構むずかしい。だって差異があると言っても、差異はどんな風にあるのか? 差異は本当にあると言っていいようなものなのか? あと差異はいくつあるのか?
最後の疑問からいこう。差異はいくつあるか。選択肢はだいたい3つあるが最初の2つはだめだ。

  • 差異は複数ある
  • 差異はひとつある
  • 差異は数えられない

素朴な発想でいくと、差異A、差異B、差異Cという複数の差異がある。次にある特定の差異Aがaとbは異なるという事実を成り立たしめる。しかしこれはだいぶまずい。これは最初に同一性をもったモノがある発想と一緒だ。モノの種類がちがうだけだ。この方向だと、「最初に同一性をもったモノがあります。しかしそれは差異という種類のモノです」という話になって、結局モノが最初にあるという発想から一歩も外に出ていない。
最初に差異が複数あるのではなく、差異がただひとつだけあるという発想も同じようにまずい。ひとつとかふたつとか数えられるのは同一性ベースの発想だからだめだ。差異が同一性に先立ってあるとすれば、それは数えられないはずだ。ここであるという言葉が本当に問題ないかどうかもほんとうはあやしい。


ここまでの成果

  • はじめにモノがあるのではなく、差異が(なんかすごく特殊な意味で)ある。
  • 差異は数えられない。

否定から同一性を構成する

つぎに何とかして差異からモノおよびモノの同一性を構成していこう。
なんでそんなことをする必要があるかって? ここで検討したいのは「差異は同一性に先立つ」という見解であって、「いかなるモノもない」という見解ではないからだ。差異が先立つ派は、「モノがある」というのは虚構だと考えるかもしれないが、ひとまず虚構でもなんでも「モノがある」というのはなんか意味をなすのだろう。しかし現状、不可算の差異がふわふわしてるだけで、これが成り立つようなリソースが何もない。モノはどうやってでてくるのか。
わりと簡単に思いつくのは否定を使う方向だ。
いま、aとcはちがうみたいな事実が成り立っているとしようや。
いや、これすでにだいぶごまかしていて、モノがないはずなのに、aとかbとかどっから出てきたって感じなのだが、とりあえずそれは置く。なんかaとかbといったモノに先立って、なんかa≠cみたいな原始的な事実(数えられない)があるとしておいてほしい。


否定のnotみたいなものが意味をなすとすれば次のような事実も成り立つかもしれない。
「aとbはちがうわけではない
これで同一性もいける。

Z: aとbが同一であるのは、aとbがちがうわけではないという場合だ。

a=b \Leftrightarrow \neg (a \neq b)

お、結構いけてないか? 差異ベースで同一性を定義できてないか?
しかしかなり問題がある。まずこの否定って何なのか? どっからでてきたのか?


いま考えているのは、いかなるモノにも先立ってあるような差異からどうやってモノやモノの同一性がでてくるのかという話だ。なのでこの否定は、言語的なものではないはずだ。何か言語の存在に先立って成り立つような否定的な事実があるという感じじゃないといけない。これも結構難しいが、世界には〈雨が降っている〉〈aとbはちがう〉といった肯定的事実だけではなく、〈雨が降っていない〉〈aとbはちがわない〉という否定的な事実もあるのかもしれない。それでいこう。
しかしそれを認めたとしても、問題はこれが「差異が同一性に先立つ」という見解じゃなくて「差異および否定が同一性に先立つ」という立場になってしまっていることだ。「否定どっから出てきた」問題に答えないといけない。
差異からうまく否定の存在を導き出す方法がないかぎり、この仕方だと否定は差異と同じくらい基本的なものだという話になってしまいそうだ。「差異が先立つ」派がそれでいいのかどうかはよくわからない。

「否定は必要だ」論

否定なんかいらなくて、差異から何とかしてモノおよび〈ものの同一性〉がでてきますという立場もありえるかもしれない。しかしそれにも困難があるという点を指摘して終わろう。
同一性、差異、否定の関係はかなり基本的なものに思える。

Z: aとbが同一であるのは、aとbがちがうわけではないという場合だ。

a=b \Leftrightarrow \neg (a \neq b)

aとbが同一なら、aとbはちがわない。aとcがちがうなら、aとcは同一ではない。
直観的にであれ、このことを理解していない人は、差異とか同一性という概念を理解していないというくらい、これは根本的なものに思われる。Zはなんか論理的必然であるように思われる。
しかし、差異から(否定を経由することなく)直接同一性がでてきたのだとすると、Zは論理的必然ではない。

順序としては以下のようになる。

  • 1. 差異というものがあります。
  • 2. なんかそこから同一性がでてきます。
  • 3. 差異と同一性の関係を見てみると、実は一方が他方の否定になっていることがわかりました。なんかたまたま一方が他方の否定になっているようです。

3はかなり変じゃない?
普通の発想だと、Zのような事柄が成り立つのは否定(「ない」)の言語的な意味による。

普通の順番はこうだと思う。

  • 1.〈赤い〉という性質がある。
  • 2. 言語のなかに「赤い」という言葉があって、〈赤い〉という性質をさししめすことができる。
  • 3. 言語のなかには「ない」のような便利な否定の言葉があって、「赤くない」といった表現で〈赤い〉という性質をもっていないことも表現できる。

(言葉が先にあって、性質があとという発想もできるが、そのちがいはここでは無視する)。
この場合、赤いと赤くないの間に、一方が他方の否定にあたるという関係が成り立つことは「ない」の言語的な意味による。なんでZのような事実が成り立つかというと、「ない」というのはそういう意味の論理的語彙だからだ。
しかし、「否定なんかいらなくて、差異から何とかしてモノおよび〈ものの同一性〉がでてきます」という立場だと、こういう説明はできない。差異と同一性の間に、一方が他方の否定にあたるという関係が成り立つのは、なんかたまたまだ。
それってどういうことだか理解できますかね?