苗村弘太郎「物語的説明モデルの原型としてのヘンペルモデル」

ネット公開されたということで、以下の論文を読んだ。なかなかおもしろい論文だったので紹介したい。

苗村弘太郎(2019)「物語的説明モデルの原型としてのヘンペルモデル」『科学哲学科学史研究』第13号 https://repository.kulib.kyoto-u.ac.jp/dspace/handle/2433/240984

この論文は、次のことを論じている。A. C. ダントーは歴史的説明に関して、ヘンペルのモデルを批判したと一般に理解されている。ヘンペルが、自然科学と変わらない一般法則を通じた歴史的説明のモデルを提案したのに対し、ダントーの説では、歴史記述は個別的出来事の理解を重視する立場をとっているのだとされる。ところが、著者によると、この理解は誤っている。ダントーの説は、一般に思われているよりもヘンペルのそれに近く、歴史的説明には一般法則が必要であることもダントー自身が認めている。さらに、ヘンペルの立場も、一般に理解されているよりも、もう少し巧みなものである。

ダントー

ダントーは歴史的説明をどのように理解したか。ダントーによれば、歴史家がすることは、変化の始点と終点の間を埋めるような物語を語ることである。例えば、「時点Aにバッキンガム公はスペインとの婚約に賛成していた」「時点Cにバッキンガム公はスペインとの婚約に反対していた」という変化があった場合、歴史家は、この変化を説明するために、二つの出来事の間を埋める。

例えば、以下のように、中間の部分((2)の部分)を埋めることで、変化の説明を完成させる。

  • (1). 「時点Aにバッキンガム公はスペインとの婚約に賛成していた」
  • (2). 「時点Bにバッキンガム公はスペインの宴席で無礼な待遇に腹を立てた
  • (3). 「時点Cにバッキンガム公はスペインとの婚約に反対していた」

「(2)のような出来事があったので、(1)から(3)への変化があったのだね、うんうん」という説明がえられるわけだ。

だが、どのような出来事でも説明の役割を果たしうるわけではない。当然ながら(3)の変化と無関係な出来事を挿入しても何の説明にもならない。

この際、実際に(2)による説明が果す役割を考えると、ダントーのモデルは、ヘンペルの科学的説明のモデル──初期条件と法則から結果が導かれる──とそう大きく変わるわけではない。例えば、上の例で、(2)が説明の役割を果たすように見えるのは、「人は一般に無礼な待遇に腹を立てると、依頼を断わるものだ」とか「バッキンガム公のようなプライドの高い男は無礼な待遇に影響されやすい」といった一般法則が暗黙にであれ、念頭に置かれるからだろう。

では、ダントーとヘンペルの間には何のちがいもないのかというとそうではない。本論では両者のちがいも説明されているが、紹介が長くなったのでこの辺で終わる。

感想

一般に歴史的な論文の場合「この二つの出来事は因果関係あると思うけど、はっきり示すのは困難なので、そうは書かないでおこう」とか「この二つの出来事は誰がどう見ても因果関係あるので、これは書いておこう」という微妙な匙加減が結構あるなあと思っているのだが、ダントーモデルはその辺の微妙な塩梅をうまく捉えている感じはするなーという感想をもっている。

また歴史の場合、因果関係を示すために「常識」以上のリソースを使うのは難しいので、歴史は一般法則に関心ないというのも、ある程度はわかる気はする。言うてもまったく一般法則使わないのは不可能でしょ?と言われればその通りかもしれないが、別に常識レベルの推論しか使ってないのに、「一般法則に訴えてる」と言われても、「そりゃまあそうですがねー」という感じになるというか何というか。