ロナルド・ドゥオーキン「リベラルな国家は芸術を支援できるか?」

美的理由について勉強するシリーズ。

その1 その2 その3

原理の問題

原理の問題

『原理の問題』の9章に入ってる、国家による芸術支援に関する有名な論文を読んだ。

この論文では、国家が芸術と人文学に関して、どれだけ支援すべきなのかという問題を扱っている。前半では、(1)経済学的アプローチと(2)高尚なアプローチという二つのアプローチが検討され、どちらも退けられる。

  1. 経済学的アプローチ: 共同体において保持されるべき芸術の質は、共同体が芸術の保存のために支払うことを望む価格によって決定される。
  2. 高尚なアプローチ: 人々が望むものではなく、人々が持つに値する芸術を保持するべきだ。

経済学的アプローチは「市場に任せろ」、高尚なアプローチは「良い芸術を与えろ」とそれぞれ要約できるだろう。

経済学的アプローチにおいては、人々が自分が喜んで支払ってもよいと思う金額に応じた芸術を享受するべきだという前提が採用される。ここからストレートに出てくる結論は、芸術への公的支援はほとんどしなくても良いというものになる。なぜなら、国家が余計な支援をしなければ、人々は自分が望むだけの金額を美術館の入場料やオペラのチケットに対して支払うはずだからだ。市場に任せておけば、適正な価格が決定され、人々はちょうど自分が望むだけの芸術を得るはずだ。もし、公的補助金が市場を邪魔してしまうと、共同体は、自分が必要とする以上の金額を芸術に対して投入してしまうことになる。

また、経済学的アプローチに対して反発を覚える人々は、高尚なアプローチに共感するかもしれないが、その欠点についても考えるべきだろう。第一に、大学や美術館への補助金によって利益を受ける人々の大半は、すでに芸術を好むだけの教育を受けた裕福な人々である。医療や貧困対策ではなく、芸術に出資することは、裕福な人々にさらなる利益を与え、不公平を拡大するかもしれない。第二に、高尚なアプローチは傲慢なパターナリズムである。それは、ある生き方よりも特定の生き方の方が立派であり、テレビでフットボール中継を観るよりもティツィアーノの絵を観る方がより良い生き方だといった判断を強制するものである。国家が徴税と警察権力の独占を背景に、特定の善の構想を押しつけることは許されるべきではない。

だが、改めて考えると、経済学的アプローチの前提には問題がある。ドゥオーキンは、芸術には、いわゆる公共財とよく似た性格があることを指摘する。ハイカルチャーが栄えると、文化全体がその恩恵を受けて栄えるという関係があるのであれば、芸術への支払いは、料金を支払った人以外にも利益を与えることになる。公共財の場合、市場による選択がうまくいかないことはよく知られている。

ただし、芸術支援の場合、公共財に対する通常のアプローチはあまりうまくいかなさそうだ。ドゥオーキンは3つ問題をあげている。

  1. タイムラグの問題: ハイカルチャーを援助することで文化全体が栄える場合、効果が出るまでに大きな時間がかかる。
  2. 不確定性の問題: どの程度の出費がどの程度の効果をあげるのか、大まかに予言する方法さえない。
  3. 一貫性の問題: 人々がどんな文化を欲するかを決めることは原理的に不可能である。

このうち一貫性の問題がもっとも深刻なものだが、一言で説明するのは難しいので、詳しく説明する。ドゥオーキンによれば、共同体の文化は、その成員の選好と価値観にあまりにも深く影響してしまうので、文化の選択を比較することは不可能だ。例えば、オペラという芸術形式が仮に存在しなかったとしよう。しかしオペラをもたない文化は、果たしてそのことを嘆くだろうか。彼らはもはやオペラ文化を構成していた概念や価値観を持たないのだから、その喪失を残念がることもないだろう。もし私たちが現在の芸術支援をケチれば、未来世代はオペラの喪失と同様の喪失をこうむるかもしれないが、それがどれだけの害になるのか、果たして害と言えるのかどうかすら明確ではない。

ドゥオーキンの言う困難は、比較不可能性の問題なので、もちろん〈芸術を支援すべきではない〉という結論が出てくるわけではない。問題はむしろ〈いくら払えばいいのか決定することは極端に難しい〉という部分にある。

代替案としてドゥオーキンが提示するのは、以下のような案だ。まず文化と芸術は、私たちの思考と価値観を構成するリソースであり、言語と同じようなものだ。それらが多様性や創造性を失なうことは悪いことだとは一応言えるだろう。また、これはパターナリズムではないという擁護は可能だ。多様性と創造性を保持することは、特定の選好を押しつけることではなく、むしろより選択肢を増やすことにつながるのだから、パターナリズムではないだろう。

ドゥオーキンの案は、それほど明確とは言えないが、以上のような発想のもと、芸術と文化の多様性と創造性を保持することを目的とした公金の投入は一定程度正当化されるだろうというものになる。

James Shelley「美学における価値経験主義への反論」

Shelley, James (2010). Against Value Empiricism in Aesthetics. Australasian Journal of Philosophy 88 (4):707-720.

美的理由について勉強するシリーズ。これはどちらかと言えば、美的価値についての論文だが。

その1 その2

著者は、以下のような、美的価値の経験説に反対している。

美的価値の経験説: ものが美的価値をもつのは、それがもたらす経験の価値のためである。

この説の支持者によれば、なぜ美しいものに価値があるのかと言えば、美しいものは快をもたらすからだということになる。この説にはとても人気があるが、著者はこれに反対する。

分離可能な価値の異端説: 美的価値の経験説が芸術作品の美的価値に当てはまるとしよう。この場合、作品の美的価値は経験の価値に由来する。そうすると、ある作品と同じ経験をもたらすものは何であれ、この作品と同じ価値をもつことになる。しかし、芸術作品の価値は、このような仕方で分離可能なものではない。

つまり、経験説によれば、芸術作品の価値は、「快をもたらす薬」などと同じような道具的価値しかもたないことになってしまうのではないかという反論だ。

よくある再反論: 上記の反論は、作品がもたらす快を、作品それ自体から切り離せるように考えているので間違っている。作品がもたらす快の価値は、作品それ自体から切り離せないのだ。

作品から得られる快は、単なる身体的快楽のようなものではなく、その作品自体を経験の表象内容に含むような複雑な経験なのだ。だから、それによって芸術作品の価値が道具的価値になることはないのだという反論だ。

しかし、著者によれば、この再反論はうまくいっていない。経験説の支持者は、対象の美的価値を経験の価値によって説明したはずなのだから、経験の価値を説明する際に再び作品を参照してはならない。もし以下のように答えるとすれば、循環になってしまう。

  • Q「作品の美はなぜ価値をもつのか?」A「価値ある経験をもたらすからだ」
  • Q「その経験はなぜ価値をもつのか?」A「価値ある作品の経験だからだ」

もし循環を避けようとすれば、経験の価値は、何らかの現象的性質に由来すると答えなければならない。そうだとすると、結局、最初の批判に答えられないだろう。

Noel Carroll, 穏健な道徳主義

Carroll, Noël (1996). Moderate moralism. British Journal of Aesthetics 36 (3):223-238.

Beyond Aesthetics: Philosophical Essays

Beyond Aesthetics: Philosophical Essays

目次

  1. 過激な自律主義
  2. 穏当な自律主義

芸術的価値と道徳的価値の話が話題だったので、Evernoteの読書ノートからサルベージ。

芸術的価値は道徳的評価から自律しているか?というのはよく議論されるが、この論文は自律主義の批判で有名。最初のところでは、「自分の若い頃はニュークリティシズムの全盛で、芸術を道徳的に評価するなんてとんでもないという雰囲気だったが、最近はアーティストも政治の話をするようになった」とか思い出話をしており、その辺もおもしろい。

キャロルは以下の3つの立場を対比させた上で、穏健な道徳主義を擁護している。

立場 説明
過激な自律主義 芸術を道徳や政治の観点から語ることは不適切だ
穏健な自律主義 芸術作品の道徳的評価は有意味だが、芸術作品の美的次元は、道徳的評価の次元から独立している
穏健な道徳主義 作品の道徳的評価は美的評価に関わりうる

前半では、自律主義の議論を「最大公約数論証」として再構成し、これを批判している。後半では、後に「適切な反応の論証」と名付けられた論証で、穏健な自律主義を批判している。

キャロルが考える自律主義の問題点は、一部の芸術の特徴をアート一般に拡張し、アート一般の評価規準として主張してしまう部分にある。例えば自律主義の論証は典型的には以下のような形をとる。

  • 芸術はそれ自体として評価される。
  • 道徳的評価は作品をそれ自体として評価することではない。
  • よって作品を道徳的に評価することは不適切だ。

「芸術はそれ自体として評価される」「道徳的に評価されない」といった特徴は、確かに芸術作品のプロトタイプ的イメージとしてはよくあるものかもしれない。しかし、それは本当に、あらゆる芸術形式・あらゆるジャンルの芸術作品の特徴として適切なものだろうか。

キャロルが指摘するように、物語作品に対して道徳的反応をすることはごく普通だ。物語の読者は、作中の出来事を道徳的に捉え、適切な感情的反応をとる。しかし、そうだとすると、自律主義が「芸術一般の評価規準」として持ち出すものは、単に一部のジャンルの慣習を不当に一般化したものになってしまうかもしれない。

また、キャロルが穏健な自律主義に対する批判として持ち出すのもやはり物語芸術の例だ。物語芸術の場合、道徳的評価は明らかに芸術的評価に影響する場合がある。例えば、作中で道徳的人物として肯定的に描かれている主人公が、実際には差別的な言動をしていれば、それは作品としてもマイナスに評価されるだろう*1

具体的に、キャロルがあげているのは『アメリカンサイコ』の例だ。この作品は80年代アメリカの風刺だが、殺人の場面を暴力的に描きすぎてあまりうまくいっていない(らしい)。こういうのは制作者の道徳的な誤判断が作品の芸術的評価にも悪影響を及ぼす例だとキャロルは主張する。

*1:もちろん、ジャンルにもよるし、文脈にもよる。キャロルが言っているのは単にそういう場合があるだろうという話だ。

Marcia Muelder Eaton, 「美的義務」

Eaton, Marcia Muelder (2008). Aesthetic obligations. Journal of Aesthetics and Art Criticism 66 (1):1–9.

美的理由について勉強するシリーズその2。

その1

「道徳的義務」や「認識的義務」が存在するのに対し、「美的義務」は存在しないと言われる。道徳的義務や認識的義務に反することは非難に値する。例えば、「他人のものを盗まない」とか「証拠の無いことを信じない」といった規範を受け入れなければ非難を受けるだろう。

一方、美的理由に従わないからといって真剣な非難を受けることは想定しづらい。美的理由は、道徳的理由や認識的理由とちがって、「オプショナル」だ。どれだけ美しい絵であれ、崇高な光景であれ、特に興味がないから見に行かないということは許されている。美的理由に従うことは、自発的な意志の問題であり、よくも悪くも義務による強制とは異なるのではないだろうか。

では美的義務は本当にないのか? 著者はこの論文で、美的義務の可能性を模索している。

著者が注目するひとつは、美的ジレンマだ。道徳的ジレンマに道徳的義務が現われるように、美的ジレンマには美的義務が現われるかもしれない。著者は現実の事例も架空の事例もたくさん検討しているが、わかりやすいのは、「焼ける美術館」のケースだ。火事で燃えさかる美術館からひとつだけしか絵を持ち出せないとすれば、どの絵を救出すべきか?

また、架空の例ではなくても、現実の絵画修復者はこれと同じようなジレンマに直面する。1980年に開始されたシスティーナ教会の復元では、色あせたフレスコ画が鮮やかに復元されたが、批判も多く、激しい議論があった。これについてはWikipediaの記事で詳しく説明されていてなかなかおもしろかったが、修復によって美術作品の長く親しまれた姿を取り除くことはジレンマを含んでいる。

もうひとつ著者が注目するのは、他人を人格として扱うことは、他人の人生を物語として尊重し、良いストーリーを語ることを含んでいるという論点だ。例えば、歴史上の人物を悪の象徴として歪めたり、逆に美化して語ることは許されるのかといった問題だ。

ただし、著者自身認めているように著者があげている例は、美と道徳の中間領域のような事例が多い。

McGonigal Andrew「美的理由」

3月のワークショップに向けて、私が美的理由について勉強するシリーズ。「美的価値と行為の理由」というテーマを設定してみたが、そんなに参考文献はない。

直近は以下を読んだ。難しかったが、わりとおもしろい。

Andrew, McGonigal (forthcoming). Aesthetic Reasons. In Daniel Star (ed.), Oxford Handbook of Reasons and Normativity. Oxford: Oxford University Press.

McGonigal Andrew, Aesthetic Reasons - PhilPapers

こちらは、『理由と規範性に関するオックスフォードハンドブック 』の記事になる予定のものらしい。

目次

  • 美的理由を導入する
  • 予備的区別
  • 独自性と謙虚性
  • 反実在論を動機づける: 美的理由の安定性
  • 反実在論を動機づける: 美的対立と感性の役割
  • 美的理由の権威
  • 反実在論を動機づける: 美的義務への反対
  • 美的対立に関する実在論的立場
  • 反論への懸念
  • 美的理由と組み込み説
  • 美的義務の可能性

道徳や認識に関わる理由があるのと同じように、美的理由と呼ぶべきものもありそうに思われる。例えば、ある絵の美しさは、その絵を観に行く理由を与えるかもしれないし、森林の美しさは、森林破壊に反対する理由を与えるかもしれない。

ただし、美的理由とその他の理由の間には、大きく異なる点もある。美的理由は、(1)感覚経験に強く結びつき、(2)また、あまり強い強制力を与えないという特徴がある。とりわけ、道徳的義務と同じような仕方で美的義務があるという見解を疑う論者は多い。結局のところ、美的理由なるものがあるとしても、それは、各人の趣味や好みに依存するという意味で、きわめて主観的なものにすぎないのではないか?

一方、著者は、美的理由に関する反実在論(美的理由は主観的だという立場)にさまざまな魅力があることを認めながらも、美的理由の実在論を擁護する経路を提案している。それは大まかには以下のようなものだ*1

  1. 美的感性の涵養は、各人の人格的統合integrityと結びつくものであるという意味で、人によって異なるものである。
  2. しかし、「あなたの人格的統合と結びついた美的感性を涵養せよ」という行為者中立的理由は認められるだろう。
  3. 一方、一度美的感性を涵養すると、特定の選択が強制力をもつようになるだろう。

もし、「あなたの人格的統合に結びついた美的感性を涵養しなさい」という行為者中立的理由を認められるなら、この中立的理由は、「これこれの選択は、私の人格的統合に結びついた美的感性によって導かれるものである」という事実に橋渡しされ、特定の選択を美的に後押しする。

例えば、太郎が涵養した美的感性のもとでは『最後のジェダイ』を絶賛することが導かれ、花子が涵養した美的感性のもとでは『最後のジェダイ』を批判することが導かれるとしよう*2。この際、太郎と花子はそれぞれ異なる美的理由をもつが、それらはどちらも「美的感性を涵養せよという抽象的理由」と「個別化する事実」の2つによって導かれたという意味で、各人のほしいままではない、美的義務の要請になっている。著者は、以上のようなルートによって、実在論的な美的義務の可能性を擁護している。

*1:だいぶ単純化したが、実際にはJ.ブルームの広いスコープと狭いスコープの話と結びついていて、やたらと細かい話になっている。

*2:この際、両者がそれぞれ理想的な評価者としてふるまったとしても、実質的な対立は残りうるということは前提になっている。

ノエル・キャロル「ホラーの本質」

Noël Carroll, The nature of horror - PhilPapers

Carroll, Noël (1987). The nature of horror. Journal of Aesthetics and Art Criticism 46 (1):51-59.

だいぶ間が空いてしまったが一応SFファンタジーに関する論文を紹介したので、ホラーに関する論文も紹介する。

これはのちに『ホラーの哲学』の1章の一部になった論文だ。書籍の方も読んだ。基本的な主張は変わってないが、書籍の方が長いのでそちらを読めばいいと思われる。

The Philosophy of Horror: Or, Paradoxes of the Heart

The Philosophy of Horror: Or, Paradoxes of the Heart

この論文でキャロルは、ホラージャンルがもたらす固有の感情を特徴づけることで、ホラージャンルの本質を特定しようとしている。ホラー特有の感情は、「アートホラー」という名前で呼ばれている。

キャロルによれば、感情の種類は、特定の状況の認知と身体反応によって特定される。よって、アートホラーを特定するには、アートホラーがどんな身体反応と、どんな状況の認知を伴うかを特定すれば良い。

また、このアートホラーの感情を特定するために、キャロルは、次のような手順を踏んでいる。まず、ホラージャンルにおいては、鑑賞者に期待される反応は、登場人物の反応と一致すると考えられる。さらに、ホラージャンルにおける登場人物の反応は以下のようにまとめられる。

登場人物は、何らかのモンスターXと遭遇することで、以下のような反応に陥る。

  1. 身体反応: 震え、悪寒、叫びなどの正常でない身体的動揺状態
  2. 状況認知: モンスターXは危険threateningで不浄impureなものである
  3. 1の身体反応は、2の状況認知によって引き起こされる。

これがそのまま観賞者に期待される感情(=アートホラー)の構成要素となる。

ポイントは、危険と不浄の両方が必要だという部分にある。モンスターが危険なだけであれば、引き起こされる感情は、危いものへの恐れfear(コワイ)になる。モンスターが不浄なだけであれば、引き起こされる感情は、嫌悪disgust(キモイ)になる。アートホラーには、この両方が必要であるとされる。

不浄

「不浄」という部分はわかりにくいが、キャロル説の特徴的な部分でもある。キャロルは、メアリ・ダグラスに依拠した上で、不浄なものは、多くの場合、境界侵犯的なものや不定形のものであると説明している。要するに、人間の嫌悪を引き起こすような性質だ。具体的に不浄なものの例としてあがっているのは、

  • 生と死の境界を侵犯するもの: 幽霊、ゾンビ、ミイラ、フランケンシュタインの怪物
  • 無生物と生物の境界を侵犯するもの: 意志をもった家、ロボット、殺人自動車
  • 異なる種を組み合わせたもの: 狼男、蜥蜴男
  • 複数の個体の融合: ジキルとハイド、悪魔憑き
  • 特定のカテゴリーの部分しかないもの: 動く手

確かに、単純に「危険で恐い」だけではなく、日常的な理解を攪乱したり、タブーに触れる要素が重要な気もする。

私見では、ホラーの登場人物はオープンマインドで寛容な人間ではなく、偏見に満ちた狭量で保守的な人間であった方が良いと思うのだが*1、それはおそらくこの要素と関連しているのではないかと思った。つまり、狭量な人間が焦点になっている方が、モンスターによって境界を攪乱されやすくなるので、よりアートホラーが高まるのではないかと考えられる。

またキャロルも指摘しているように、モンスターは日常世界の外から来る(宇宙、地中、海など)というのもこうした境界侵犯性と結びついていると考えられる。

*1:そして実際そのように設定されることが多いと思うのだが。

Laetz Brian & J. Johnston Joshua, ファンタジーとは何か

Laetz Brian & J. Johnston Joshua, What is Fantasy? - PhilPapers

Laetz Brian, & Johnston Joshua J., (2008). What is Fantasy? Philosophy and Literature 32 (1):161-172.

ファンタジージャンルの特徴を述べた論文。作品がファンタジージャンルに分類される条件を論じている。

ファンタジーの条件

まず、ファンタジージャンルの特徴として、ドラゴンやエルフや魔法のような超自然的なものに訴えるのは自然な見解だろう。しかし著者によれば、現代的なファンタジー作品は、神話や宗教作品からは区別される。例えば、死後の世界の存在を主張する宗教団体が作った映画に死後の世界が登場しても、それはファンタジーとは見なされないだろう。

一方で、ファンタジーは神話や伝説に深く影響を受けてもいる。古典的なファンタジー作品の多くは、ヨーロッパの神話や伝説に材をとったものだが、近年では、アジアやイスラム圏の伝説に基づいたファンタジー作品もある。神話や伝説の「転用」は、むしろファンタジーの本質的な条件に思われる。

そこで著者らは、神話とファンタジーのねじれた関係をそのまま条件に組み込む。

  • ファンタジーには、神話・伝説・民間伝承に影響を受けた超自然的な内容が含まれる。
  • 観衆の大部分はこれらの内容を信じていない。
  • 観衆はそれらが別の文化によって信じられていたと信じている。

要するに「昔の人が信じていた神話を、もはやそれを信じていない現代人が別の目的に転用したもの」がファンタジーだ。ただし、この条件は多少複雑化されている。「実は古代ギリシア人もギリシア神話を大して信じていなかった」というのはありえる事態だが、それによって、ある作品がファンタジーでなくなることはない。古代ギリシア人がギリシア神話本当に信じていたことは必要ではない。現代のわれわれがギリシア神話を、「かつて信じられていた神話」と見なしているだけで十分だ。

さらに、著者たちは超自然的内容の使用のされ方に関して、細かい条件をいろいろ付けている。

  1. それらは目立った形で登場する
  2. それらは自然化されていない
  3. それらは寓意的にのみ使用されているのではない
  4. それらは単にパロディとして使用されているのではない
  5. それらは単にバカげたものではない
  6. それらは主として観衆を怖がらせることを意図していない

映画の中で2分だけ魔法使いが登場するだけで、作品全体がファンタジーになるわけではない。ファンタジーは、超自然的なものを主要な要素とする作品でなければならない。また、神話を科学的に説明するタイプのSFはファンタジーではない。

また、喋る動物が寓話のためにのみ登場する作品、例えば『動物農場』はファンタジーではない。パロディやギャグのためだけに魔法使いやドラゴンを登場させる作品もファンタジーではない。恐怖のために超自然的なものを導入する作品はホラーであってファンタジーではない。

また、それ以外の条件として、ストーリーにアクションの要素が含まれること、フィクションであることも要請されている。

ぜんぶまとめて書くと「ファンタジーとは、フィクションのアクションストーリーであり、神話・伝説・民間伝承に影響された超自然的内容を目立った形で含む。さらにその内容は観衆の大部分によって信じられておらず、観衆はそれらが別の文化によって信じられていたと信じている。さらにそれらは自然化されておらず、もっぱら寓意的使用、単なるパロディ、単にバカげたもの、主として観衆を怖がらせることを意図していない。」となる(長い)。

驚異

「恐怖のためであってはいけない」「パロディのためであってはいけない」というネガティブな条件がたくさん付くことに疑問を抱く人もいるだろう。私もそこは変だと思う。そういったネガティブな条件の集積ではなく、ファンタジーに固有の目的を特定し、「超自然的な内容が、主としてXという目的のために使用されている」という積極的な条件を入れればいいのではないだろうか。

一方、ファンタジーに固有の目的の候補がひとつある。それは驚異wonderの感情を喚起することだ。ホラーが恐怖を喚起するのと同じように、ファンタジーは驚異を喚起するというのは自然な捉え方ではないか。

ところが、著者たちは、これに疑問を呈している。まず、多くのファンタジー作品は驚異を喚起しないし、大人向けのダークファンタジーなどは驚異の喚起を意図したものではないだろうというのだ*1。そのため、驚異がファンタジーの伝統において重要な要素だったことは疑いないが、ファンタジーの条件には入らないだろうと著者らは主張する。ここは少なくとも疑問の余地のある部分ではあるだろう。

感想

「神話からの転用」というのは、少なくともファンタジーのひとつの典型的な形を取り出すことには成功していると思うが、ファンタジーもいろいろあるから難しいなと思った。例えば世界幻想文学大賞 World Fantasy Awardはファンタジーの賞だが、SFやホラーに近いものが受賞することもある*2。有名なところでいうと、2010年の受賞作であるチャイナ・ミエヴィルの『都市と都市』は、超自然的なものがいっさい出てこない。にもかかわらず『都市と都市』には確かにファンタジーの要素がある感じもするし。それが何なのかというと、やっぱり「驚異」というしかないのではないか*3

単なるアイデアではあるが、「神話から流用した要素が、少なくとも当初は、驚異の喚起を意図して導入される」という形の条件にすればいいのではないだろうか。ファンタジー慣れした観衆にとって、ドラゴンや魔法使いがすでに驚異を喚起しないとしても、ドラゴンや魔法使いはもともと驚異の喚起を目的に導入されたものだから、ファンタジーの構成要素たりえるのだという発想だ。いわゆるジャンルファンタジーが、使い古された要素しか含んでおらず、ほとんど驚異を喚起しないとしても、かつて驚異を目的とした道具立てを含んでいればファンタジーに分類されるという形だ。

都市と都市 (ハヤカワ文庫SF)

都市と都市 (ハヤカワ文庫SF)

*1:英語のdark fantasyがどういう作品を指すのかよくわからないなと思った。

*2:日本語だと「ファンタジー」と「幻想文学」はちょっと使いわけがあるような気もするが、英語だとその辺どうなのだろう。

*3:『都市と都市』がファンタジーに分類されるかどうかは微妙だが、なぜ『都市と都市』が最低限のファンタジー「っぽさ」をもっているかというと、驚異を喚起するからだということ。