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Timothy Williamson『哲学の哲学』5章

The Philosophy of Philosophy (The Blackwell / Brown Lectures in Philosophy)The Philosophy of Philosophy (The Blackwell / Brown Lectures in Philosophy)


5章「形而上学的様相の知識」
Williamsonの『哲学の哲学』の主要な主張のひとつは、哲学の主題や方法は、他の諸分野と本質的に異なるわけではないというものである。これは一方では哲学の特権的方法があるという主張へのカウンターでもあるし、哲学の方法に対する全面的な懐疑への批判でもある。Williamsonによれば、安楽椅子哲学は特別なものではないし、そこまで悪いものでもないということになる。
この章でも「形而上学的様相」という、いかにも典型的に哲学的な対象が、日常的な認識能力に基づいていることが議論される。
以下わりと簡単にまとめているが、実際は様相論理の細かいテクニカルな話が多くて大変だった。
感想: わりと納得したが、ここででてくるのは様相認識論の大づかみな構図であって、もう少し細かい話が知りたい。様相認識論自体新しい分野なので難しいのかもしれないけど。


形而上学的様相とは、形而上学的可能性や形而上学的必然性のことである。典型的な例は「宵の明星が明けの明星でないことは不可能だ」とか「水がH2Oであることは必然的だ」など。こうした可能性、必然性、不可能性は心に依存したものではない(mind-independent)とされる。
形而上学的様相に興味を持つのは哲学者だけなので、形而上学的様相を知るための認知能力を仮定するのはばかげている。人間は哲学しなければならないという淘汰圧のもとで進化したわけではない。哲学で用いられる認知能力は、日常用いられるより一般的な認知能力の例として理解すべきである。
Williamsonは形而上学的様相を扱う認知能力を、反事実的条件法を扱う認知能力に伴うものであると考える。様相を扱う能力は、架空の状況を設定し、その帰結について知る能力の副産物である。
人間には、反事実的状況について知る能力がある。例えば、私の落としたボールペンが机の上を転がって、ペンケースにぶつかって止まる。私は「もし仮にペンケースがなければ、ペンは机から落ちていただろう」と思う。こうした判断は実験によっても確かめられるが、少なくとも私たちは、近似的なものであれ、こうした判断を頭の中で行ない、その帰結を予測する能力を持っている。
Williamsonによれば、反事実的条件法の評価にはあらゆる認知能力が用いられる。Williamsonは「認知能力のオンラインでの使用」「オフラインでの使用」という言い方を用いていて、これは現実の状況(オンライン)に対して用いられる認知能力は、基本的に架空の状況(オフライン)に対しても走らせることができるということである。
反事実的条件法の評価は以下のようになされる。
1.架空の状況の設定。ある命題を仮定し、そこからの帰結を状況設定にどんどん付け加える。そこでは、演繹的推論だけではなく、常識的物理学のような、種々の予測メカニズムや判断が用いられる。状況を想像することは重要な手段だが、常に必要なわけではない。
2. 現実の状況についてのあらゆる知識や信念が架空の状況との比較のために使われていい。
3. 背景的な知識と信念の内のいくつかは、架空の状況でも成り立つものとして用いられる。
4. 以上を繰り返し、特定の帰結がそこから出てくるかどうかを評価する。

要するに、特定の命題を仮定して設定された架空の状況をシミュレーションし、探索を走らせるタスクといった感じである。


一方、可能性や必然性は、反事実的条件法によって定義できる。例えば「pは必然的である」は「もし仮にpでないならば矛盾が生じるだろう」と同値。「pは可能である」は「もし仮にpならば矛盾が生じる、ということはない」と同値。
日常的な推論能力が副産物として高度な演繹推論を可能にしたように、こうした抽象的な反事実仮想の能力は、日常的な反事実条件法の判断能力の副産物として生まれた。哲学専門の直観能力のようなものを想定する必要はない。