Harry Frankfurt「私たちが気にしていることの重要さ」

Harry Frankfurt, The importance of what we care about - PhilPapers

Frankfurt, Harry (1982). The importance of what we care about. Synthese 53 (2):257-272.

以下の同名の論文集にも収録されている。

The Importance of What We Care About: Philosophical Essays

The Importance of What We Care About: Philosophical Essays

重要さimportanceの分析に興味があるのだが、こういう論文があるのを知って読んだ。ここでフランクファートは「重要さ」importanceと、関連する概念である「気にすること」care aboutについて論じている。

重要さ

フランクファートによれば、何を信じるべきか?は認識論の問い、何をなすべきか?は倫理学の問いであり、何を気にすべきか?はそれらとは異なる第三の領域を形成している。私たちが気にすべきなのは、私たちにとって重要なことであり、それは時に道徳ともかかわるが、かならずしもそれとは重ならない。私たちにとって重要なことの中には、非常に多様な事柄、スポーツや数学や友人や正直であることなどが含まれている。

フランクファートは重要さの定義を与えておらず、何かが重要であるということは、そのものが重要なちがいをもたらすということだという循環的な説明だけを与えている。この論文の主眼は、重要さ自体よりも、重要さに対応する態度である「気にすることcare about」の分析にあるようだ。

気にすること

何かが重要であることは何かを気にする理由を与える。私たちは自分にとって重要なことを気にするし、何かが重要であることは、その対象を気にする・気にかけることを正当化する。

また、何かを気にするということは、対象の喪失・強化・衰退などに反応すること、それに応じて、傷ついたり利益を得たりするようになるということだ。何かを気にしている人は、その何かを自分の一部のように見なす。例えば、家族の幸福を気にする人は、家族の幸福によって大きな影響を受けるし、家族の幸福のために動き、そのために自分の生活を捧げるだろう。

なお、この例でわかるように、フランクファートは、愛もまた、気にすることの一形態であると見なしている。

自由意志の限界事例として

また、その人が何を気にしているかということは、時に意志のコントロールを越える。このことを表現するために、フランクファートは、キング牧師の「そうせずにはいられなかった」という表現を引いている。

フランクファートはこの種の必然性を、「意志的必然性」と呼ぶ。意志的必然性は、依存症の人が自分の意志に反してアルコールやニコチンに手を伸ばすのとはちがい、強い意志から生じる。意志から生じるにもかかわらず、それが他の選択肢を退けるのは、「どのような意志をもつか?」ということ自体は意志のコントロールを越えた事柄だからだ。

フランクファートによれば、意志の形成とは、根底的には、何かを気にかけるようになることである。このため、何かを気にかけることは、人を制約するのだが、一方で、自律を促進するようなものでもあるとされる。

Lee Walters「創造されたタイプとしての反復可能な芸術作品」

Lee Walters, Repeatable Artworks as Created Types - PhilPapers

Walters, Lee (2013). Repeatable Artworks as Created Types. British Journal of Aesthetics 53 (4):461-477.

音楽作品や文学作品は、人間が創造したタイプであるという立場を擁護する論文。これはいい論文だった。三か月前に出会いたかった。

著者は、レヴィンソンやトマソンに賛同する立場で、以下を擁護する。

  • 音楽作品や文学作品は、タイプであり、個々のトークン(作品の演奏や印刷物)によって反復される。
  • ただし、それらのタイプは永久不変な抽象者ではなく、人間が創造することによって存在しはじめる。

この種の立場に対し、よくある反論として以下のようなものがある。

  1. タイプ創造説が正しければ、音楽作品や文学作品は抽象者である。
  2. 抽象者は永久に存在するため、創造できない。
  3. 音楽作品や文学作品は創造できる。
  4. よってタイプ創造説は誤っている。

この論文では、この種の議論の何が誤っているのかが丁寧に解説されている。さらに、抽象者は因果関係をもちえないとか、「抽象者はこういうものでないといけない」という議論への批判がまとめて展開されている。抽象者は因果の関係項になるという議論は、結構おもしろかった。

かなり同意できる、というか来月発表で指摘しようと思っていた内容がすでに指摘されていて、困った。

Jerrold Levinson「音楽作品とは何か」

Jerrold Levinson, What a musical work is - PhilPapers

Levinson, Jerrold (1980). What a musical work is. Journal of Philosophy 77 (1):5-28.

参照: ジェロルド・レヴィンソン「音楽作品とは何か」 - 病める無限の芸術の世界

作品の存在論の古典。

前半は、音楽作品は、純粋な音構造のタイプであるという説に対する批判、後半は、音楽作品がどのような存在者であるかについての提案となっている。

レヴィンソンによれば、音楽作品の存在論は以下の要請を満たす必要がある。

  1. 創造条件。音楽作品は作曲家の作曲以前には存在しない。作曲によって存在するようになる。
  2. 個別化条件。まったく同じ音構造をもつ作品であっても、異なる音楽史的文脈で作曲された作品は、別の作品である。
  3. 演奏手段の条件。特定の演奏手段や音作成の手段は、音楽作品に含まれる。

音楽作品は純粋な音構造のタイプであるという説は、上記の3つの要請を満たさないので否定される。

1について。音構造のタイプは、永久に存在する数学的な構造である。これらは、作曲家によって創造されることができない。楽曲=音構造のタイプだとすると、楽曲が作曲家によって創造されえなくなってしまう。よって音構造タイプ説はおかしい。

2について。まずこの条件自体説明が必要だろうが、ここでレヴィンソンは、音構造が同一であり、あい異なる二つの作品が作られうると言っている。例えば、メンデルスゾーンの《夏の夜の夢》とまったく同じ音構造をもった作品が(元の作品も作曲されているというシナリオのもとで)20世紀に作られたとしよう。この場合この新しい方の作品は、元の作品とは違い、「独創性」や「新鮮さ」をもたず、「昔風」で「平凡」な作品と見なされるだろう。レヴィンソンによれば、同一の作品が異なる評価的性質をもつことはないので、両者は異なる作品と見なされる。

(これはボルヘスの有名な「『ドン・キホーテ』の著者、ピエール・メナール」の思考実験にならったものだ)

しかし、楽曲=音構造のタイプだとすると、両者は同じ音構造なので、同じ楽曲になる。よって音構造タイプ説はおかしい。

3について。これは要するに、ピアノで弾かないとピアノ曲の演奏と見なされえないと言っている。シンセサイザーで原曲と識別不可能な音を作ったとしても、それは元の楽曲の上演ではないという条件だ*1

しかし、楽曲=音構造のタイプだとすると、シンセサイザーで作ったものも同じ音構造なので、元の楽曲の上演になってしまう。よって音構造タイプ説はおかしい。

上記の議論で純粋な音構造タイプ説を批判したあと、レヴィンソンは音楽作品は次のようなものだと論じる。

(Xを作曲家、tを作曲の時点として)X-によって-tにおいて-指し示されたものとしての-音と演奏手段の構造のタイプ

これは、のちの時点の演奏によって反復可能なタイプであるが、作曲家によって作られるものであるとされる。 なお、この定義だと、特定の楽曲が現実より一年早く作られたことはありえないという帰結が出てしまうので、それはどうなのかとは思った。

*1:なぜこの条件を入れるか? 一つの理由は「だってピアノで弾けって楽譜に書いてあるし」というものだ。楽譜にピアノで弾けって書いてあるのだから、シンセで再現したものは楽譜に従ってないし、元の楽曲とは別物だろうということ。

戸田山『恐怖の哲学』ウォルトンの箇所

恐怖の哲学―ホラーで人間を読む (NHK出版新書 478)恐怖の哲学―ホラーで人間を読む (NHK出版新書 478)

少し前に戸田山さんの新刊『恐怖の哲学』が出た。個人的にはとても楽しく読んだ。未読の人のために、一応簡単な紹介を書くと、1部は感情の哲学、2部はホラーの哲学、3部は意識という構成になっている。1部は心の哲学プリンツGut Reactions、2部は美学者ノエル・キャロルのThe Philosophy of Horrorが主な参照文献になっている。フィクションのパラドックスなど、美学的な話題の部分では目新しい指摘と思うものはなかったが、ホラー映画に関する批評的な読解などもかなりおもしろく、「戸田山さんはこういう文章も書けるのか」という新鮮な驚きがあった。

私の関心は美学なのでここでは主に2部の話を書く。ウォルトンおよびフィクションのパラドックスについて書いた場所は、いくつかまちがいがあったので訂正を書いておきたい。最初に断わっておくと、どれも致命的なまちがいではまったくない。記述は概ね正確である。単に、この本はよく読まれるだろうから訂正を書いておきたい趣旨である。ただし、解釈にはある程度踏み込んでいるので、異論もあるとは思う。

ウォルトンはホラー映画の実例として、もっぱら『ザ・グリーン・スライム』(The Gleen Slime)に言及している(これは『ガンマ3号宇宙大作戦』というタイトルで日本でも公開されたようだが、残念ながら観ていない。観たいかというと微妙)。p.286

→ちがう。ウォルトンはたしかに緑色のスライムが出てくる映画を例にあげるのだが、特に具体的な映画が念頭にあったわけではないらしい。確かに深作欣二の映画は公開タイミングなども合うのだが、その映画は念頭においてないということは「フィクションを怖がる」の訳者の森さんがウォルトンに問い合わせて確認されている(『分析美学基本論文集』p.332)。これは訳注に書いてあるのだが、読んでいないのかな。

あと「準恐怖quasi-fear」という用語の使い方がおかしい。

観客が、ホンマもんの恐怖ではなく、恐怖のふりをしていると言われるのは、その怖さの反応と感じが、自分は殺人鬼に襲われているという信念ではなく、自分はごっこ上殺人鬼に襲われているという信念に由来するからである。後者の恐怖をウォルトンは「準恐怖」と呼んだわけだ。pp. 266-267

→ちがう。ウォルトンは、ごっこ上の恐怖は、ごっこ上の恐怖としか呼んでない(ごっこ上の恐怖は本物の恐怖でないとは言っている)。準恐怖は、虚構的恐怖と本物の恐怖に共通する生理学的/心理的状態を指す言葉として使われている(邦訳p.303を見られたい*1 )。記憶と疑似記憶を合わせて準記憶と呼ぶことがあるが、そういうのと似た用法だと思う。ただ、これは英語圏でも普通によく見られる誤解ではある。

また、著者は、メイクビリーブ理論を、フィクションは一種のごっこ遊びであるという説だと捉えているように思われる。これも解釈としては、よくあるものだが、あまりよくない捉え方であると思う。

私の理解では、ウォルトンのメイクビリーブ理論とは以下のようなものだ。

  • 想像虚構性という二つの基礎概念によってメイクビリーブゲーム(何かを虚構的にするゲーム)を特徴づける。
    • この2つは基礎概念なので定義できず、例示によってのみ説明されている。ごっこ遊びは単に例示のためにあげられている。
    • Mimesis as Make-Believeの段階では、虚構性を想像によって定義しようとしていたが、後にあきらめた。
  • フィクションは、メイクビリーブゲームを生み出す機能をもったものとして特徴づけられている。

この際、「メイクビリーブゲーム」や「フィクション」はウォルトン用語として独自の定義が与えられているものなので、日常語の「ごっこ遊び」や「フィクション」とはわけて考えなければならない(揶揄をこめて、ウォルトフィクションなどと呼ばれることもある)。これは戸田山さんとも近いのではないかと思うのだが、ウォルトンは、自分は概念分析ではなく、理論構築をしていると明言している。

ちなみにウォルトン解釈で、私がもっとも好きなのは、David VellemanのOn the aim of beliefだ。これ自体有名な論文だが、これを読めばウォルトンのイメージが大きく変わると思う。いい意味でも悪い意味でもウォルトンがめちゃくちゃ変なことを考えていることがよくわかるというか。

at-akada.hatenablog.com

Mimesis as Make-Believe: On the Foundations of the Representational ArtsMimesis as Make-Believe: On the Foundations of the Representational Arts

*1:準恐怖については、森さんがこの論文のp.60で触れているとのこと。

Takashi Iida, "On the Concept of a Token Generator"

philpapers.org

Iida, Takashi (2013). On the Concept of a Token Generator. Annals of the Japan Association for Philosophy of Science 21:37-55.

飯田隆さんのタイプとトークンの存在論に関する論文。ここでタイプとトークンと言われているのは、自動車、音楽作品、語などなどの一般的なタイプとその事例のこと。タイプを、変化せず、消滅せず、しかし偶然的に存在する抽象者とする「標準的立場」に対し、トークンジェネレーターをタイプの存続の条件に置くような立場を提案している。

トークンジェネレーターと呼ばれているのは、楽曲を演奏するための楽譜など、トークンを作るためのレシピや記録のこと。例えば音楽作品が存在するのは、楽曲トークン(演奏)が存在するか、楽譜などのトークンジェネレーターが存在する場合だけであるとされる。典型的には、楽曲タイプは作曲家が曲を書いたときから存在しはじめる。すべての記録が消滅し、再度演奏することが不可能になれば楽曲タイプも存在しなくなる。自動車なども同様で、記録が残っており、同型の自動車をつくることができるかぎり、自動車のタイプは存続する。

あと独特なのは、タイプが時間的空間的位置をもつことを認めており(タイプは通常の物理的なものとはちがい、同時に複数の場所に存在しうるものとされる)、そのためタイプは「具体者」であるとしているところ。

Brock, Everett編『虚構対象』

Fictional Objects

Fictional Objects

https://global.oup.com/academic/product/fictional-objects-9780198735595?cc=jp&lang=en&

ちょっと前に出た虚構対象に関する論文集。フィクショナルキャラクターなどに関する存在論・意味論の最新の話題が論じられている。

最初の3つの論文を読んだ。個人的にはもう少し美学・芸術学的な話題に結びつけたものが読みたいが*1、どれもレベルは高く、この領域の盛り上がりを感じさせる。

  1. WILLIAM G. LYCAN: A Reconsidered Defense of Haecceitism Regarding Fictional Individuals
  2. ROBERT HOWELL: Objects of Fiction and Objects of Thought
  3. DAVID BRAUN: Wondering About Witches

1はフィクショナルキャラクターや単なる可能者に関してこのもの性説haecceitismを擁護する論文。キャラクターなどを性質の集合によって個別化するのではなく、ホームズのホームズ性などによって個別化できると考えても問題はないだろうという方向で議論している。

2はフィクショナルキャラクターなどに関して、前提のもとでの真というアイデアに訴えて説明しようとするもの。この立場では、ホームズは探偵であるといった発言は、ホームズの作品世界の前提のもとでの真理と見なされる。最近のキャラクター反実在論系の人はこの種の立場が多い気がする。

3はホームズやワトソンなど、虚構の個体ではなく、魔女であること、ホビットであることなど、虚構の性質、虚構の種の意味論を包括的に扱うもの。マニアックだしひたすら長いがこの話題に興味があればおすすめ。

*1:最近私もこの辺の話題を扱うことが多いので、ひょっとすると虚構の存在論にすごく興味があると思われているかもしれないが、実はそれほどでもない……。みんながやっていることはそんなにやりたくない……。

Brian Powell「ネーゲルの利他主義再訪」

philpapers.org

Powell, Brian K. (2005). Revisiting Nagel on altruism. Philosophical Papers 34 (2):235-259.

Possibility of Altruism

Possibility of Altruism

ネーゲル利他主義の可能性』の批判論文*1ネーゲル利他主義の可能性』は一応読んだのだが、よくわからないのでこういうのも読んだ。

ネーゲルは、理由は人称中立的だという立場だった。例えば以下のような2つの文を考えよう。

  1. 踏まれるとの足が痛いので、には足を踏まれるのを避ける理由がある。
  2. 踏まれると太郎の足が痛いので、太郎には足を踏まれるのを避ける理由がある。

1のような一人称の文に対応する判断を受け入れるとき、人は行為へと動機づけられる。

では、2のような三人称の文はどうか? ネーゲルによれば、1に含まれる動機づけ内容は2にもすでに含まれているのでなければならない。2のような判断を受け入れるとき、私は自分が太郎であるにせよないにせよ、太郎が足を踏まれないという事態を促進する一応の理由をもつ。自分が太郎であった場合、私は足を踏まれないようにする理由をもつし、自分が足を踏みそうな人だった場合、私は太郎の足を踏まないようにする理由をもつ。ネーゲルの立場では、これらはすべて2のような無人称の判断から派生する理由である。

ここから、自分の理由に反応することも、他人の理由に反応することも、本質的には変わらないというような一種の利他主義が出てくる。

利他主義の可能性』については以前もちょっと書いた。

at-akada.hatenablog.com

ただしネーゲルがどういう議論でこれを論証しようとしているのかはわかりにくい。

著者は、まずネーゲルが排除しようとしている立場を、IMI独我論と呼ぶ。IMI独我論(非人称の動機無効独我論impersonal motivational impotence solipsism)とは、自分の一人称の観点にのみ動機づけ内容を認めるような立場であるとされる。

著者はネーゲルの論証を次のように再構成している。IMI独我論は、自分自身を他人たちの中の単なる一人の人間にすぎないものとして捉える理解と相容れない。しかし、自分自身を他人たちの中の単なる一人の人間にすぎないものとして捉えることは避けられないため、理由の人称中立性と利他主義が要請される。要するに、自分が倫理的特異点のように扱わないと自分の視点を特別扱いできないだろうという感じだ。

その上で、著者は、行為者相対的実践的原理だけを採用しても、自分自身を他人たちの中の単なる一人の人間にすぎないものとして捉える理解と両立するのではないかと反論している。

個人的には、判断の動機づけ内容など、ネーゲル独特の言い回しがよくわからないので*2、反論がうまくいっているかどうかもよくわからないといった感じだ。その辺はもう少し整理してほしかった。あと、時間論の部分をショートカットしているのは残念。エゴイズムに対する強力な反論として、「エゴイズムってそもそも通時的自己同一性が成り立たないとどうしようもない」というネーゲルからパーフィットに受け継がれた重要な論点があるので。

*1:利他主義』はそのうち翻訳がでるらしいぞ

*2:例えば、判断が動機づけ内容をもつとは、単にそれが人を行為に動機づけるという事実的な話なのか、それとも動機づけるべきだという規範的な話なのか。