Guy Kahane「もし何も重要でないならば」

Guy Kahane, If Nothing Matters - PhilPapers

Kahane, Guy (2016). If Nothing Matters. Noûs 50 (2):n/a-n/a.

重要なものがいっさい存在しなければ、何がどうなるのかを論じている論文。

この著者には、Our Cosmic Insignificanceというすばらしい論文があるのだが、これもおもしろかった。

at-akada.hatenablog.com

目次

  1. どのようにして、ニヒリズムが真でありえるのか
  2. ニヒリズムの説明
  3. 恐れるものはない
    1. 世界のおわり?
    2. 理由なき懸念?
  4. ニヒリズムは何のちがいももたらさないのか?
    1. ニヒリズム保守主義
    2. 本当に何も重要でないとしても、同じようにやっていくのか
    3. ニヒリズム後の道具的理性
    4. ニヒリズム後の主観的懸念
    5. ニヒリズム後の評価的信念
    6. 評価的信念と主観的懸念
    7. 主観的懸念と価値
  5. 価値なき人生
    1. 単なる動物的もがき
    2. アパシーとマヒ
    3. 死に近いもの
  6. 本当に恐れるべきものは何か

評価的ニヒリズム

著者は、何も重要でないという状態を以下の二つの状態の組み合わせと同一視している*1

道徳に関する誤謬説の支持者はしばしばこれと似たことを主張する。私たちの道徳についての語りは、道徳的価値の実在を認めるので、厳密には偽である。道徳的価値などいっさいないが、道徳は便利なフィクションである。

ここでは、この誤謬説をもっと推し進めてみよう。私たちの価値についての語りは、価値の実在を認めるので、道徳的価値に関するものであろうとなかろうと、すべて偽であると考えたらどうだろう。さらに、理由に関する語りもすべて偽であると考えたら。

ここでの問い

誤謬説の支持者は、多くの場合、価値についての信念を捨てても、われわれは以前と変わらずに生きるだろうと考える。しかしグローバルな評価的ニヒリズムの場合、これはほとんどありそうにない。あるいは、少なくとも著者はそう主張する。

まずここで問題になっているのは、評価的・規範的な問いではなく、経験的な問いである。評価的・規範的な観点について言えば、いっさいの価値がない状態は、良くも悪くもない。評価的ニヒリズムの帰結は、何も良くないし、悪くもないということだからだ。

多くの人は、何も重要ではないという事態を恐れ、懸念するが、心配する理由は何もない。心配しない理由もない。何をする理由もないのだ。すべきこともないし、すべきでないことも無い。世界の終わりであるかのようにはしゃぐ理由もないし、はしゃいではいけないという理由もない。

誤謬説の支持者は、あたかも道具的理性だけは手付かずに残るかのように「価値は依然として便利なものだ」と言うが、グローバルな評価的ニヒリズムが真であれば、これもおかしい。価値ある目的もいっさいないのだから、道具的理性も消えてなくなる。より良い手段を採用する理由ももはや無い。道徳に社会秩序を維持する機能があっても、社会秩序も重要ではない。

一方、著者が問うているのは、グローバルな評価的ニヒリズムを信じることが因果的に何をもたらすのかということだ。評価的ニヒリズムを全面的に信じるようになったとき、私たちは他に何を信じ、どんな生活を送るのだろう。

ニヒリズムの帰結

著者によれば、以下の帰結がもっともらしい。

  • 評価的信念の喪失
  • 主観的懸念の喪失

まず、すべての評価的信念は誤っているという信念と、あれやこれやの事柄には価値があるという信念は相性が悪そうだ。もちろん矛盾した信念を持つことも可能だろうが、少なくとも、「何も価値がない」と信じる人が、友情や名誉に高い価値を付与する事例は多くないだろう。このため、著者は評価的信念の喪失をありそうな帰結としてあげる。

さらに、評価的信念と主観的懸念は、おそらくある程度は相関するだろうと想定される。友情や名誉に価値を置かない人は、友情や名誉を気にかけることも少ないだろう。これも、必然的とは言えないかもしれないが、両者がまったく相関しないという想定は奇妙なものだ。

もちろん、評価的信念のいっさいを失ったあとでさえ、私たちはおそらく目の前の苦痛を避けるだろう。身体的快をめざすこともあるかもしれない。それらの反応はほとんど自動的なものだ。しかし、長期的な計画にはもはや取り組まないだろう。極端な話、ベッドから出る理由がもはやないと信じながら、あなたはベッドから出るだろうか? 私には、その自信はない。評価的ニヒリズムを信じるようになったあと、私たちには、動物のような生活だけが残されるのかもしれない。

パスカル的マトリクス

何も重要でない 何か重要である
何か重要であると信じる -
何も重要でないと信じる - ×

著者は上記のようなパスカル風の表に訴えて、評価的ニヒリズムを信じない方が合理的であると論じている。もしニヒリズムが真であれば、何かが重要であると誤って信じていても、何も重要でないと正しく信じていても、何のちがいもない。正しければ良いとは言えないわけだし、どちらにしても、良くも悪くもない(上の表の「-」の部分)。

一方、私たちの価値に関する信念が万が一真であれば、ニヒリズムを信じることは大変な損失をもたらす。著者の議論が正しければ、私たちは皆無気力になってしまう。一方、価値に関する信念がおおむね真であれば、私たちは多くのものを得るだろう。

つまり、重要なものがあるという可能性がわずかでもあれば、ニヒリズムを信じない方が得だ。ニヒリズムを信じて得るものは何もないが、ニヒリズムを信じなければ得るものがある。

もちろんこの議論には、すでにニヒリズムを信じている人を説得する力はないわけだが。迷ってるなら、価値の存在に賭けた方が良いとは言えるかもしれない。

*1:本当はこれには問題があって、価値はあるが重要なものはない状態や、理由はあるが重要なものがない状態もあると思うが

G.K.チェスタトン「おとぎの国の倫理学」

G. K. Chesterton, The Ethics of Elfland - PhilPapers

Chesterton, G. K. (2008). The Ethics of Elfland. The Chesterton Review 34 (3/4):443-460.

正統とは何か

正統とは何か

『正統とは何か』Orthodoxyの3章。最初の出版年は1908年のはず。意外にもphilpapersのリンクがあった。

これは論文ではなく、エッセイのような気もするがまじめに読む。

ここでチェスタトンはおとぎの国(elfland)の優先性を論じている。おとぎ話の優先性とは、おとぎ話からえられる倫理と哲学こそ、他の思想に優先するということである。チェスタトンはおとぎ話からえられる原理によって、唯物論・機械論・進歩主義などを批判する。「おとぎ話は空想ではない。おとぎ話に比べれば、ほかの一切のもののほうこそ空想的である。おとぎ話に比べれば、宗教も合理主義もともにきわめて異常である。」(p.78)

だいぶ省略するが、おもしろいのは、唯物論・機械論の否定の箇所である。

必然性

チェスタトンによれば、おとぎ話の世界には論理的必然性というものはあるが、物理的必然性や自然法則などというものはない。

「おとぎの国では、すべてを想像力の基準によって判断する」。「二本と一本で木が三本にならないなどということは、とても想像することさえできはしない。」(p. 81)

論理的必然性または形而上学的必然性は、おとぎ話でも有効であるが、物理的必然性や自然法則と呼ばれるものは真正の必然性ではない。リンゴが木から離れることと、リンゴが地面に落ちることの間には必然的なつながりはない。リンゴがそのまま自由に飛んでいくことは想像できるし、十分に可能だからだ。本来、必然性と呼ぶに値するのは、想像の法則である論理的必然性だけに限定される。

では、なぜ自然は斉一であり、同じことを繰返すのか? それは魔法だからである。木から離れたリンゴは、必然的に落下しなければならないわけではない。もし毎回落下するとすれば、それは魔法であり、奇跡である。私たちは本来、自然のすべての所業に対して驚異すべきなのである。

機械論的世界観の否定

ところが、このおとぎ話の哲学を忘れ、現代(20世紀初頭)には、機械論的・唯物論的世界観がはびこってしまっている。

機械論的世界観に対する反論はなかなか愉快なものだ。チェスタトンによれば、機械論的世界観の前提は、反復は機械的というものである。この前提によれば、もし宇宙に生命があり、人格的なものであれば、宇宙はもっと変化しつづけ、突然踊りだすにちがいないというのだ。しかし、現に自然は斉一なのだから、この宇宙は決定論的な宇宙であり、機械的に法則に従うだけだろうと。

  1. 反復は機械的なものである。
  2. この宇宙は斉一であり、反復を繰り返す。
  3. よって、この宇宙は機械的な宇宙である。

ところが、この前提はまちがっている。反復は生命であり、変化をもたらすのは、むしろ飽きや疲れである。

子供はいつでも「もう一度やろう」と言う。大人がそれに付き合っていたら息もたえだえになってしまう。大人は歓喜して繰り返すほどの力を持たないからである。しかし神はおそらく、どこまでも歓喜して繰り返す力を持っている。きっと神様は太陽に向かって言っておられるのにちがいない------「もう一度やろう。」p.100

つまり、神は小学生よりもテンションが高いので何でも繰り返す。神が歓喜してアンコールを繰り返すために、自然は反復する。

唯物論的な宇宙観---広大な宇宙のイメージも否定される。チェスタトンによれば、私たちは好きなものに対して指小辞をつけて、小さなものと呼ぶ。相手が象であっても同様にリトルエレファントなどと呼びかける。

その理由は何か。どれほど巨大な物であっても、一つのまとまりを持った物と感じられる時、小さいという感じがするからだ。p.105

そしてチェスタトンは、あきれるくらい宇宙が好きなので、宇宙がひとつのまとまりを持った物として感じられるし、宇宙は実に小じんまりとしているという。

なお、宇宙の広さと人間のとるにたらなさというのは人生の意味などに関連して繰り返されるテーマだ。多くの哲学者は、宇宙の物理的な広さなんて関係ないんだという。しかし、私の知るかぎり「宇宙は小さいんだ」と言って反論したのはチェスタトンひとりではないかと思う。

Yitzhak Benbaji「道徳的なもの、個人的なもの、私たちが気にしていることの重要さ」

Yitzhak Benbaji, The moral. The personal, and the importance of what we care about - PhilPapers

Benbaji, Yitzhak (2001). The moral. The personal, and the importance of what we care about. Philosophy 76 (3):415-433.

フランクファートの論文へのリプライ。

Harry Frankfurt「私たちが気にしていることの重要さ」 - うつし世はゆめ / 夜のゆめもゆめ

  1. CIPを擁護するフランクファートの論証
  2. CIPと道徳的なものと個人的なもののジレンマ

CIP(Frankfurt's Care-Importance Principle)とは、以下のような原則のこと

何かを気にかけているのであれば、それがその人にとって重要であることが導かれる。これは気にかけることが重要さに関する不可謬の判断を含むからではない。何かを気にかけることは、それをその人にとって重要なものにするからである。

CIPのもとでは、以下が必然的に成り立つ。

pがXを気にかける→ Xはpにとって重要である。

著者はこれに反対している。私たちは一般に重要でない物事を自分たちにとって重要なものにすることができる。しかし時折失敗することもある。要するに、フランクファートは重要さについての主観説とでも言うべき立場を支持しており、著者はそれを批判している。

フランクファートの言うような重要さの創出が説得力をもつ事例は確かにあって、それは著者も認めている。

例えば、友人の健康が私にとって重要なのは、私が友人のことを気にかけているからだ。フランクファートによれば、愛することの一部は気にかけることによって構成される。このケースでは、元々重要だから気にかけているというわけではなく、気にかけているから、重要になったのだというのは正しそうだ。

しかし、重要でないことを気にかけてしまうこともある。例えば、私が、友人は雨を嫌うだろうと考え、友人が雨にぬれるかどうかを気にしているとしよう。しかし、これはただの誤解であり、友人は雨にぬれることが結構好きだった。

この場合、私は、重要でないことを気にしている。私は、誤った信念に基づいて、非合理的な仕方で気にかけていた。フランクファートのようにCIPを全面的に認めると、気にかけることの合理性の評価は、意味をなくしてしまう。

さらにこれは私の動機に反する。友人が雨にぬれるかどうかが私の心配とは独立に重要なことだと思ったからこそ、私はそのことを気にかけていたのだ。私が気にかけることによってそれは重要なことになったのだと言われても、私の心配は正当化されないだろう。

スタンフォード哲学事典「価値理論」

Value Theory (Stanford Encyclopedia of Philosophy)

ちょっと前に読んだ。

著者は良さ優先説good-first theoryと価値優先説value-first theoryを区別している。普通、「良さ/悪さ」と「価値」は区別されないが、両者のどちらが優先されるかを区別する文脈があるようだ。この辺ややこしかったので整理しておく。

問題は、著者が価値言明と呼ぶ、特殊なタイプのgoodの用法について。

  • 快は良いものである。Pleasure is good
  • 知識は良いものである。Knowledge is good

なぜ、これが特殊かと言えば、「良いダンサー」などとちがい、快と知識のどちらが良いかは比較できないように思われるから。一定量の快と知識の比較ならともかく、量を限定せずに快と知識の良さを比較することは意味をなさないだろう。

良さ優先説によれば、価値言明は、「快を得ることは、快を得ないこともよりも良い」「知識を得ることは、知識を得ないことよりも良い」ということを意味する。この立場によれば、価値の第一の担い手は、「知識を得ること」のような事態であり、価値言明は、事態が例化する良さという性質によって説明される。

一方、価値優先説によれば、価値言明は、「快は価値あるもの*1である」「知識は価値あるものである」ことを意味する。また、より多くの価値あるものがあることは、より良いことだとされる。この立場によれば、価値の第一の担い手は、快や知識などの性質、あるいはその例化物である。この立場では、良さ優先説と反対に、良さは、価値言明によって説明される。

まとめると、

  • 良さ優先説: 価値の基本的な形は、事態が〈良さ〉という性質をもつこと。
  • 価値優先説: 価値の基本的な形は、快や知識のような価値あるものvaluesがたくさんあること。

*1:「価値あるもの」の原語は可算名詞のvalues。非可算名詞のvalueは「価値」と訳している

Aaron Smuts「哲学としての映画: 大胆な主張の擁護」

映画は哲学できるか?という問題に関するもの。「大胆な主張bold thesis」と呼ばれるテーゼ、すなわち「映画は映画独自の手段でもって、オリジナルな哲学的貢献ができる」という主張を擁護している。

Aaron Smuts, Film as Philosophy: In Defense of a Bold Thesis - PhilPapers

Smuts, Aaron (2009). Film as Philosophy: In Defense of a Bold Thesis. Journal of Aesthetics and Art Criticism 67 (3):409-420.

  1. 大胆な主張
    1. 芸術的な基準
    2. 認識論的基準
  2. パラフレーズ問題
  3. 哲学すること
  4. 哲学としての映画
  5. 映画的哲学の例をもう少し
  6. 結論

Livingstonが提示したパラフレーズ問題というのがあって、それに答えるのがメイン。パラフレーズ問題とは、以下のような問題。

  1. 映画が独自の哲学的貢献を果たすというとき、その哲学的貢献は言語でパラフレーズできるべきだ。
  2. パラフレーズできないなら、そんな貢献が存在するかどうかは疑わしい。
  3. しかしパラフレーズできるなら、その哲学的貢献は、言語に依存したものではないか。

なぜパラフレーズできたらだめなのかというのはわかりにくいのだが、映像などに表現されたアイデアパラフレーズできるなら、それは既存のアイデアを図示したようなものと変わらないのではないかという発想のようだ。

スマッツは大胆な主張を支持するために、まず「哲学すること」を明確化している。スマッツによれば、哲学するとは何かを論証することであり、論証とは、ある立場を信じる理由をあげることだ。ここでいう理由はかなり広義なもので、アナロジーによる論証なども哲学に含まれる。スマッツニーチェの『道徳の系譜学』を例に挙げている。

また、映画特有の手段が論証に使われる例として、スマッツエイゼンシュテインのモンタージュの例と、トワイライトゾーン(!)の例をあげている。エイゼンシュテインは、キリスト教を脱神格化するような感じでうまいことモンタージュを使っているらしい(文字で説明するのは難しい)。

パラフレーズ問題については、パラフレーズできるからと言って、それらの論証は、解釈者がでっちあげたものだという話にはならないと反論していた。

私もLivingstonの議論は変だと思う。Livingstonはおそらく、(1)映像が意味を表現するのは解釈を通してだけであり、(2)解釈というのはすべて言語的なものだと思っているのではないか。これはどちらもあやしげな前提だ。解釈というのをものすごい広い意味で使えば(1)は成り立つかもしれないが、その場合(2)は成り立たないか、「言語的」というのがものすごく広い意味になってしまって、トリビアルな主張にしかならないのではないかな(映像というのは表象システムで、表象システムはどれも言語に似てますよねくらいのことしか言えない気がする)。

トマス・ネーゲル「アホらしさ」

タイトルのthe absurdは翻訳だと「人生の無意味さ」になっている。定訳は「不条理」。個人的には「アホらしさ」がいいような気がしているのでそれでいく。 以前からこの論文は構成がわかりにくいと思っていたのでメモ。

コウモリであるとはどのようなことか

コウモリであるとはどのようなことか

Thomas Nagel, The absurd - PhilPapers

Nagel, Thomas (1971). The absurd. Journal of Philosophy 68 (20):716-727.

よくある議論

多くの人は人生はアホらしい、不条理なものだと感じている。ネーゲルの念頭にあるのはカミュサルトルだろう。 ネーゲルはこの直観をうまく表現できる議論を探している。最初に二つ、よくある議論が提示され、否定される。

  1. 宇宙の広さと人生の短かさからの議論
  2. 正当化の連鎖からの議論

1は「私たちが重要だと思っているどんなことも、一万年後には重要ではない」とか、「宇宙は広く、私たちはちっぽけだ」とかいうやつ。ネーゲルによれば、これはおかしい。この議論によれば、宇宙が小さいか私たちが大きいかすれば人生はアホらしくないことになるが、そうではないし、物理的な大きさなど何の関係もないと思われるからだ*1

2。正当化の連鎖はかならずどこかで止まってしまう。金のために働く、娯楽や食料のために金をえる。しかしそれらはどこにもいきつかず、正当化の連鎖はどこかで終わる。最後には死が待っている。だから、何にもならないのではないか、という議論だ。しかし、正当化の連鎖が無限につづかないことや、最終目的が複数あることにそれ自体何の問題もない。この議論が正しければ、正当化の連鎖が無限につづけば人生はアホらしくないことになるが、そうではない。

アホらしさ

これらの議論は失敗しているのだが、人生はアホらしいという直観には真実が含まれている。ネーゲルはアホらしさの概念を簡単に分析したあと、2の「正当化の連鎖からの議論」の変形のような議論を提示する。

アホらしさが生じるのは、意図/願望と現実の間にギャップが生じている場合である。騎士の爵位を授けられたときにズボンがずり落ちるとか、犯罪者が慈善団体の代表者になるケースがこれにあたる。人生がアホらしいのは、この意図と現実のギャップがかならず生じるからだ。

ギャップは、

  • (1)真剣に生きることから逃れられないこと、
  • (2)真剣さに疑いをもつことからも逃がれられないこと

の2つから生じる。私たちは日々何とかして自分の生活を生きていかなければならないし、そのためには様々な目的を追求せざるをえない。ところが、人生を真剣に生きることに対する正当化もどこかで終わる。何のために生きなければならないのか? 幸福のため? では何のために幸福を目指すのか? この問いには答えがない。

もちろん、自分より大きなもの(共同体、宗教)に訴えても状況は変わらない。なぜ共同体の繁栄を目指すのか? なぜ神の栄光が称えられるべきなのか?といった問いに関しても、正当化の連鎖はどこかで終わるからだ。

われわれが一歩退いて発見するのは、われわれの選択を支配し合理性の要求を支える正当化と批判の全体系は、反応と習慣に基づいているのだが、その反応と習慣はわれわれによって決して問題視されず、循環に陥ることなしには弁護されるすべもなく、たとえ問題視されたとしてもなおわれわれが固執せざるをえないようなものなのだ、ということだからである。邦訳p.25

しかし、なぜ、先に提示した2の「正当化の連鎖からの議論」はだめで、この議論はOKなのかというのは難しい。私の言葉で説明すると、「正当化の連鎖がどこかで終わるからいかなるものにも価値はない」という議論はまちがっている。しかし、絶対に疑うことのできない最終的な価値があるという結論も特に正当化されていない。

「尊重すべき最終的な価値がある」という主張をVとすると、not Vも、Vも特に確証されていない。Vには、循環的でない根拠がない。従って、「いかなるものにも価値がない(not V)」を信じることも非合理ではない。

ところが、私たちはVを信じていかざるをえない。すべての価値を疑ったまま生きていくことはできない。ここから、人生のアホらしさが生じる。

対処法

人生のアホらしさにどう対処すればいいのか。ネーゲルは3つの対処法をあげている。

  1. 生の真剣さを放棄する
  2. 自殺
  3. 反逆と嘲笑
  4. アイロニー

1は真剣に生きないというもの。東洋の宗教はこれを理想としたのかもしれないと言われている。2に関して説明は不要だろう。3はカミュが推奨したもの。ネーゲルは、カミュの反逆と嘲笑はロマン主義的すぎるとして、アイロニーをよしとしている。

*1:私はこれは疑っていて、私たちが大きいか宇宙が小さいかすればアホらしくないのではないかと思うがそれは置いておく

スタンフォード哲学事典「問い」

問いquestionの意味論に興味があり、調べている。

Questions (Stanford Encyclopedia of Philosophy)

Hagstrom 2003も読んだ。

Uegaki forthcomingでも勉強させていただきました。

「問い」に関する哲学的興味っていくつかあって、

  1. 問いの意味論に関する言語学・言語哲学上の興味。疑問と答えという言語行為は何をやっていて、疑問は何を意味するのか。
  2. 問いと答えという認識の形式に関する認識論・科学哲学上の興味。特にwhy questionは、「説明」という科学哲学の重要トピックと関連するとされる。あと、ふつう認識論で注目されるのは命題知だが、wh知識というのもある(誰か、いつか、何かなどを知っている)。

スタンフォード哲学事典のこの記事は上記をバランスよく扱っていて、概観をえるにはなかなかよかった(よく見たら意味論の箇所と科学哲学の箇所を書いた人は別だった)。

20世紀の分析哲学って、認識論も言語哲学も、文・命題を中心とするもので、問いと答えというのは、それに対するオルタナティブとして追求されてきたという側面もある。ちなみに、以前読んだ以下の論文は、まさにこの問いと答えに注目した哲学者としてライルとドゥルーズを比較していた。

Peter Kulger「意味、カテゴリー、問い: ライルとともにドゥルーズを読む」 - うつし世はゆめ / 夜のゆめもゆめ

まあ形式意味論・言語哲学における問いの意味論は、そういうデカい話とは特に関係なく盛り上がっているわけだが。

問いの意味論

通常の叙述文が命題を表示するように、疑問文interrogativeは問いquestionを表示すると言われる。そして問いは、命題の集合やそれに類似したものであると言われる。例えば、《誰がいたのか》という問いは、〈花子がいた〉〈太郎がいた〉〈次郎がいた〉などの可能な答えに対応する命題(可能性)の集合であるとされる。疑問という言語行為はそれら複数の可能性を真偽を決定しないままに提示する。

また、これは疑問文の埋め込みについて考えるとわかりやすいかもしれない。「私たちは誰がいたのかについては賛成しあっている」という場合、私たちが賛成しあっているのは、上記のような命題の集合のそれぞれについてだろう。

ただしこの命題の集合について、詳細は論者によって分かれる。

  • Hamblin 1973: 問いは、偽なものを含む可能な答えの集合だよ
  • Karttunen 1977: 問いは、可能な答えのうち真なものの集合だよ
  • Groenendijk and Stokhof 1984: 問いは、包括的exaustiveで真な答え(可能世界によって異なる)だよ