哲学の論文を作る時

発表したり、論文を書くとき、自分がいつもどういう工程でやっていて、どこにどれくらい時間をかけているのかというのを考えていた。「この辺効率化できるかなー」とか考えたかったのでいろいろ書き出してみる。できれば他の人の例も知りたいよね。

重要な前提条件: 私は趣味で論文書いたり発表するだけの人なので、業績を増やす必要があまりない。*1

私の場合、基本的に作業は、「読む」「考える」「書く」くらいしかない。実験しないし、データ集めたりもない。

工程を区分してみる。

  1. 読む: サーベイ
  2. 考える
  3. 書きだす
  4. 書く
  5. 読む: 出典探し用の調査
  6. アウトプット用の練習など

各工程どれくらいだろうか。目安以下くらいな気がする(数値は営業日単位なので、一週間5日、一月20日くらいで計算している)。数字はほんとに目安なので、1/2で済むこともあれば、2倍かかることもあるだろう。

  • 1と2: 並行で40日
  • 3: 10日
  • 4と5: 並行で20日
  • 6: 5日

「読む」「考える」

第一段階ではただ読む。扱おうと思ったテーマに関する論文や本を読む。だいたいそのテーマに関するサーベイなどがあるので、まずそこから手をつけ、文献リストを作り、ひたすら読んでいく(ジャストなテーマに関してそういうのがなければまず隣接分野を調べるとかする)。

この時点で、基本的なアイデアはあることもあるし、ほとんどなくて、「この辺扱いたいけど、何かできそうなことあるかな」くらいの時もある。しかし最初はなるべく無心に読んだ方がいい気がする。

印象では、10本くらいが最初の壁になる(論文10本。著作は1章1本くらいでカウント)。それくらい読むとある程度そのテーマに関する目鼻がつく。「こういう論点があるのかー」というのは何となくわかるし、いろいろアイデアも湧いてくる。あと文献リストを作ると、主流の立場とか、流行してるテーマも見えてくるのでいい。

2の「考える」というのは、だいたい読むのと並行でなされる。というか、私の場合読まないとあまり考えがまとまらないので、1と2はある程度並行にやらないと難しい。

あと、読む難易度はものによってかなり違う。小さくまとまった論文はおおむね読みやすいが、巨匠が書いた著作とかだと、まず巨匠の背景的な発想を知らないと読めなかったりする。馴染みのない分野の論文を読むのも難しい。また自分が賛成するような立場だったり、自分と近い前提のものは読みやすいし、反対に対立する立場は読みにくい。

放っておくと読みやすいものだけ読んでしまうのだが、いろんなものを読まないと、すごく表面的な論点しか扱えなかったりする。いろいろ読んだ方がいい。

哲学の場合、流行している主流の立場が一見うまくいっているように見えても、実は背後に強い前提があったり、どっかに強い負荷をかけてるせいだということがある。その辺をある程度客観的に見て、切り込んでいかないと、あまりいい論文にならない気がする。

あとはまあ時間は有限なのでそんなに何でも読めないという問題もある。しかし、考えてみると、この「読む」「考える」作業がもっとも時間がかかっている気はする。

書き出す

読んでいくうちにアイデアがまとまれば、書きはじめる。何も思いつかない状態でとりあえず書き出してもいいが、アイデアがないと結局つまって、ただただ苦しい状態になる。

理想としては、いいアイデアが出なかったらそのテーマはあきらめて寝かせておくくらいでいいと思う。卒論や修論だとそういうわけにもいかないだろうが。アイデアを思いつく確実な方法はないので、最終的には「何も思いつかないというリスクにどう対処するか」という問題だと思う。

リスクを減らす方法は、一つのテーマにしぼらないことだろう。複数のテーマを並行で進めて、蓄積しておく。その上で、アイデアが出たものから処理していくというのが理想。なかなかそこまではできないけど。

あと一定アイデアがまとまったら、構成を作る。最初にアウトラインだけざっと最後まで作ってから書き出した方が後半スムーズに進む。

この時点で、そもそも思いついたアイデアがうまくいかないことがわかったり、簡単に崩壊することもある。9割がた書いてから崩壊すると悲惨なことになるので、初期段階はアイデアの頑健性の検討が最重要。いいアイデアだと思ったものが検討していくと崩壊することはよくあるので、最初に十分叩いておかないと。

書く

ここまで来たら後はひたすら書く。最後まで書く。推敲とか参考文献は後に回して、まずざっと最後まで書くのがよい気がする。

読む作業は、この段階でも並行するのだが、書きはじめた後は「直接参照する文献/直接引用する箇所を探す」という作業がメインになる。「この箇所引用したらわかりやすいかなー」とか「こういうこと言ってる人いないか」というのを探す。

あとは、推敲作業。ざっと最後まで書いたあと、ひたすら自分で読んで直す。この段階で、最初に作った構成を一回壊して作り直したり。あと煮詰まってきたら人に見てもらう。

最後は発表時間や枚数制限に合わせて長さを調整したりする。発表の場合は、内容が固まったあとは、音読練習して、それに合わせて、微修正を繰り返す。

改めて考えると

人文研究の場合、書く作業や読む技術が注目されやすい。文章術などは教わる機会が多いだろうし、本もたくさんある。読む技術は、読書会やゼミなどで鍛えられるものだろう。

しかし、改めて振り返ると、書き出すまでのサーベイからテーマ選びなどの部分が結構重要だなと思った。しかもこの部分って、人と話し合う機会すらほとんどないので、人によって全然ちがったりしそうだなと思った。「え、トイレでズボン全部脱がないんですか!」みたいな。

あと冷静に仕事として考えると、効率が悪すぎる。こんなに工数かけたら、論文一本で400万くらい貰わないと元が取れない……。

同じテーマで何本か書けば、最初の方の工程はへらせるので、生産性を上げるなら、同じテーマでたくさん論文を増やす(かつなるべく質も下げない)方法を考えるべきなんだろうなあ。

*1:自分では影響範囲はよくわからないのだが、ここの制約のせいで、話はずいぶん変わりそうだ。

Harry Frankfurt「最終目的の便利さ」

この論文で、フランクファートは、そもそも人間が何らかの目的をもつことは何の役に立つのかという問題を扱っている。

On the Usefulness of Final Ends

Necessity, Volition, and Love

Necessity, Volition, and Love

おそらく、何の最終目的ももたない生というのは可能だろう。何の目的ももたない人も、意図的行為はできるかもしれない。あるいは、何の目的もなくとも、何らかの価値を認識することさえできるかもしれない(何かに価値を見出してもそれを目指したりしなければ)。

しかし、いかなる目的も目標もない人生は、意味のない人生ということになるだろう。意味ある人生は、自分にとって重要な活動に従事するものでなければならない。一方、何の目的も目標もない人生を送る人は、何も気にかけていないため、その人にとって重要な活動など存在しないからだ。(もちろん本人はそれでかまわないだろうし、フランクファートも、それが「悪い」人生だとは言っていないが。)

また、フランクファートはおもしろいことを言っている。私たちが人生を捧げる目標を選ぶとき、考慮されるのは、目標自体の価値だけではない。目標には、目指しがいのある目標と、目指しがいのない目標があるからだ。例えば、部屋に引きこもって人類救済ボタン(押すと人類が救済されるボタン)を押し続ける生は、価値ある目標に捧げられているが、あまり有意義な生には見えない。少なくとも、人生の目標を選ぶ際に、目標達成プロセスが有意義かどうかを気にしない人はほとんどいないのではないだろうか。

しかし、そう考えるなら、私たちは、手段の内在的価値のために、目標を選択するのだということになる。手段と目的はこの重要な点で逆転している。

Paisley Livingston「哲学としての映画に関する近年の仕事」

Livingston, Paisley (2008). Recent work on cinema as philosophy. Philosophy Compass 3 (4):590-603.

philpapers.org

「映画に哲学ができるか?」というテーマには、意外と蓄積があって、これはPhilosophy Compassサーベイ論文。 皆様ご存知のように、映画には哲学的テーマを扱ったものがたくさんある。これらは独自の哲学的貢献をなすと考えられるべきなのか?

目次

  • 映画には「哲学する」ことができるか?
  • 作者と意図
  • 解釈のプロジェクトのタイプ
  • 解釈の戦略と哲学としての映画に対する含意
  • 哲学としての映画の強い主張の問題点

この論文のメインの貢献は、映画が「哲学する」と言われる場合には、様々なパターンがあるとして、解釈の種類をわけている部分。著者は以下のような解釈のタイプを区別している。

  1. 実際の製作者が哲学的問題を扱うことを意図している場合
  2. 解釈者が補助線を引いて、著者が意味しえたことを展開する場合
  3. 映画を、何らかの哲学的立場を具体化したものとして扱う場合

非常にベタな例だが、『マトリックス』を観れば、懐疑論的状況について鮮烈かつ具体的に理解することができるだろう。あるいは、『ダークナイト』を観て、正義と悪の境界について、鮮烈かつ具体的に考えさせられるという人もいるかもしれない。

こういう解釈は多くの場合、解釈者が補助線を引いて自分の解釈を読み込んだりするものだ。あまりに牽強付会だと、映画をダシに自分の話をしているだけになってしまうが、作品解釈というのはしばしば一定程度の読み込みを必要とするものだし、一種の「見立て」のような解釈も、映画の解釈としては別に変なものではない。

また、映画独自の貢献を考える場合、単にストーリーやわかりやすい寓意だけではなく、重要なのは、映像・編集・音楽・舞台装置・演技といった部分。この論文では「映画は映画独自の手法で哲学的貢献を果たすことができる」という主張は「強い主張bold thesis」と呼ばれている。著者は強い主張には懐疑的なようだが、映画は抽象的な哲学的主張を具体化し、鮮烈な経験として理解させてくれるという部分は認めている。

感想

おもしろいのはやっぱりビジュアルや音楽や編集など、非言語的手段によるアイデアの表現という部分だ。私は、非言語手段でも哲学的アイデアを伝えられるという強い主張に賛成なのだが、難しいのは、これを認めるには、哲学理解もちょっと変えないといけないというところだ。哲学というのは、単に知識を与えるだけではなく、世界はどのようであるのかという理解を与えるものでもあると考えれば、映像は、世界の見方を表現し、哲学的アイデアを表現できると考えても別に変ではないと思う。

例えば『マトリックス』で言えば、あれが懐疑論の映画なのは当たり前で、それよりバーチャル世界でチートで活躍したいという鮮烈な欲望に気づかされることなどが大事なのではないか。ダウンロードしたカンフースキルで戦う映像とか、キアヌ・リーブスのチート感なしにそれを表現することはできないわけだし。

Harry Frankfurt「私たちが気にしていることの重要さ」

Harry Frankfurt, The importance of what we care about - PhilPapers

Frankfurt, Harry (1982). The importance of what we care about. Synthese 53 (2):257-272.

以下の同名の論文集にも収録されている。

The Importance of What We Care About: Philosophical Essays

The Importance of What We Care About: Philosophical Essays

重要さimportanceの分析に興味があるのだが、こういう論文があるのを知って読んだ。ここでフランクファートは「重要さ」importanceと、関連する概念である「気にすること」care aboutについて論じている。

重要さ

フランクファートによれば、何を信じるべきか?は認識論の問い、何をなすべきか?は倫理学の問いであり、何を気にすべきか?はそれらとは異なる第三の領域を形成している。私たちが気にすべきなのは、私たちにとって重要なことであり、それは時に道徳ともかかわるが、かならずしもそれとは重ならない。私たちにとって重要なことの中には、非常に多様な事柄、スポーツや数学や友人や正直であることなどが含まれている。

フランクファートは重要さの定義を与えておらず、何かが重要であるということは、そのものが重要なちがいをもたらすということだという循環的な説明だけを与えている。この論文の主眼は、重要さ自体よりも、重要さに対応する態度である「気にすることcare about」の分析にあるようだ。

気にすること

何かが重要であることは何かを気にする理由を与える。私たちは自分にとって重要なことを気にするし、何かが重要であることは、その対象を気にする・気にかけることを正当化する。

また、何かを気にするということは、対象の喪失・強化・衰退などに反応すること、それに応じて、傷ついたり利益を得たりするようになるということだ。何かを気にしている人は、その何かを自分の一部のように見なす。例えば、家族の幸福を気にする人は、家族の幸福によって大きな影響を受けるし、家族の幸福のために動き、そのために自分の生活を捧げるだろう。

なお、この例でわかるように、フランクファートは、愛もまた、気にすることの一形態であると見なしている。

自由意志の限界事例として

また、その人が何を気にしているかということは、時に意志のコントロールを越える。このことを表現するために、フランクファートは、キング牧師の「そうせずにはいられなかった」という表現を引いている。

フランクファートはこの種の必然性を、「意志的必然性」と呼ぶ。意志的必然性は、依存症の人が自分の意志に反してアルコールやニコチンに手を伸ばすのとはちがい、強い意志から生じる。意志から生じるにもかかわらず、それが他の選択肢を退けるのは、「どのような意志をもつか?」ということ自体は意志のコントロールを越えた事柄だからだ。

フランクファートによれば、意志の形成とは、根底的には、何かを気にかけるようになることである。このため、何かを気にかけることは、人を制約するのだが、一方で、自律を促進するようなものでもあるとされる。

Lee Walters「創造されたタイプとしての反復可能な芸術作品」

Lee Walters, Repeatable Artworks as Created Types - PhilPapers

Walters, Lee (2013). Repeatable Artworks as Created Types. British Journal of Aesthetics 53 (4):461-477.

音楽作品や文学作品は、人間が創造したタイプであるという立場を擁護する論文。これはいい論文だった。三か月前に出会いたかった。

著者は、レヴィンソンやトマソンに賛同する立場で、以下を擁護する。

  • 音楽作品や文学作品は、タイプであり、個々のトークン(作品の演奏や印刷物)によって反復される。
  • ただし、それらのタイプは永久不変な抽象者ではなく、人間が創造することによって存在しはじめる。

この種の立場に対し、よくある反論として以下のようなものがある。

  1. タイプ創造説が正しければ、音楽作品や文学作品は抽象者である。
  2. 抽象者は永久に存在するため、創造できない。
  3. 音楽作品や文学作品は創造できる。
  4. よってタイプ創造説は誤っている。

この論文では、この種の議論の何が誤っているのかが丁寧に解説されている。さらに、抽象者は因果関係をもちえないとか、「抽象者はこういうものでないといけない」という議論への批判がまとめて展開されている。抽象者は因果の関係項になるという議論は、結構おもしろかった。

かなり同意できる、というか来月発表で指摘しようと思っていた内容がすでに指摘されていて、困った。

Jerrold Levinson「音楽作品とは何か」

Jerrold Levinson, What a musical work is - PhilPapers

Levinson, Jerrold (1980). What a musical work is. Journal of Philosophy 77 (1):5-28.

参照: ジェロルド・レヴィンソン「音楽作品とは何か」 - 病める無限の芸術の世界

作品の存在論の古典。

前半は、音楽作品は、純粋な音構造のタイプであるという説に対する批判、後半は、音楽作品がどのような存在者であるかについての提案となっている。

レヴィンソンによれば、音楽作品の存在論は以下の要請を満たす必要がある。

  1. 創造条件。音楽作品は作曲家の作曲以前には存在しない。作曲によって存在するようになる。
  2. 個別化条件。まったく同じ音構造をもつ作品であっても、異なる音楽史的文脈で作曲された作品は、別の作品である。
  3. 演奏手段の条件。特定の演奏手段や音作成の手段は、音楽作品に含まれる。

音楽作品は純粋な音構造のタイプであるという説は、上記の3つの要請を満たさないので否定される。

1について。音構造のタイプは、永久に存在する数学的な構造である。これらは、作曲家によって創造されることができない。楽曲=音構造のタイプだとすると、楽曲が作曲家によって創造されえなくなってしまう。よって音構造タイプ説はおかしい。

2について。まずこの条件自体説明が必要だろうが、ここでレヴィンソンは、音構造が同一であり、あい異なる二つの作品が作られうると言っている。例えば、メンデルスゾーンの《夏の夜の夢》とまったく同じ音構造をもった作品が(元の作品も作曲されているというシナリオのもとで)20世紀に作られたとしよう。この場合この新しい方の作品は、元の作品とは違い、「独創性」や「新鮮さ」をもたず、「昔風」で「平凡」な作品と見なされるだろう。レヴィンソンによれば、同一の作品が異なる評価的性質をもつことはないので、両者は異なる作品と見なされる。

(これはボルヘスの有名な「『ドン・キホーテ』の著者、ピエール・メナール」の思考実験にならったものだ)

しかし、楽曲=音構造のタイプだとすると、両者は同じ音構造なので、同じ楽曲になる。よって音構造タイプ説はおかしい。

3について。これは要するに、ピアノで弾かないとピアノ曲の演奏と見なされえないと言っている。シンセサイザーで原曲と識別不可能な音を作ったとしても、それは元の楽曲の上演ではないという条件だ*1

しかし、楽曲=音構造のタイプだとすると、シンセサイザーで作ったものも同じ音構造なので、元の楽曲の上演になってしまう。よって音構造タイプ説はおかしい。

上記の議論で純粋な音構造タイプ説を批判したあと、レヴィンソンは音楽作品は次のようなものだと論じる。

(Xを作曲家、tを作曲の時点として)X-によって-tにおいて-指し示されたものとしての-音と演奏手段の構造のタイプ

これは、のちの時点の演奏によって反復可能なタイプであるが、作曲家によって作られるものであるとされる。 なお、この定義だと、特定の楽曲が現実より一年早く作られたことはありえないという帰結が出てしまうので、それはどうなのかとは思った。

*1:なぜこの条件を入れるか? 一つの理由は「だってピアノで弾けって楽譜に書いてあるし」というものだ。楽譜にピアノで弾けって書いてあるのだから、シンセで再現したものは楽譜に従ってないし、元の楽曲とは別物だろうということ。

戸田山『恐怖の哲学』ウォルトンの箇所

恐怖の哲学―ホラーで人間を読む (NHK出版新書 478)恐怖の哲学―ホラーで人間を読む (NHK出版新書 478)

少し前に戸田山さんの新刊『恐怖の哲学』が出た。個人的にはとても楽しく読んだ。未読の人のために、一応簡単な紹介を書くと、1部は感情の哲学、2部はホラーの哲学、3部は意識という構成になっている。1部は心の哲学プリンツGut Reactions、2部は美学者ノエル・キャロルのThe Philosophy of Horrorが主な参照文献になっている。フィクションのパラドックスなど、美学的な話題の部分では目新しい指摘と思うものはなかったが、ホラー映画に関する批評的な読解などもかなりおもしろく、「戸田山さんはこういう文章も書けるのか」という新鮮な驚きがあった。

私の関心は美学なのでここでは主に2部の話を書く。ウォルトンおよびフィクションのパラドックスについて書いた場所は、いくつかまちがいがあったので訂正を書いておきたい。最初に断わっておくと、どれも致命的なまちがいではまったくない。記述は概ね正確である。単に、この本はよく読まれるだろうから訂正を書いておきたい趣旨である。ただし、解釈にはある程度踏み込んでいるので、異論もあるとは思う。

ウォルトンはホラー映画の実例として、もっぱら『ザ・グリーン・スライム』(The Gleen Slime)に言及している(これは『ガンマ3号宇宙大作戦』というタイトルで日本でも公開されたようだが、残念ながら観ていない。観たいかというと微妙)。p.286

→ちがう。ウォルトンはたしかに緑色のスライムが出てくる映画を例にあげるのだが、特に具体的な映画が念頭にあったわけではないらしい。確かに深作欣二の映画は公開タイミングなども合うのだが、その映画は念頭においてないということは「フィクションを怖がる」の訳者の森さんがウォルトンに問い合わせて確認されている(『分析美学基本論文集』p.332)。これは訳注に書いてあるのだが、読んでいないのかな。

あと「準恐怖quasi-fear」という用語の使い方がおかしい。

観客が、ホンマもんの恐怖ではなく、恐怖のふりをしていると言われるのは、その怖さの反応と感じが、自分は殺人鬼に襲われているという信念ではなく、自分はごっこ上殺人鬼に襲われているという信念に由来するからである。後者の恐怖をウォルトンは「準恐怖」と呼んだわけだ。pp. 266-267

→ちがう。ウォルトンは、ごっこ上の恐怖は、ごっこ上の恐怖としか呼んでない(ごっこ上の恐怖は本物の恐怖でないとは言っている)。準恐怖は、虚構的恐怖と本物の恐怖に共通する生理学的/心理的状態を指す言葉として使われている(邦訳p.303を見られたい*1 )。記憶と疑似記憶を合わせて準記憶と呼ぶことがあるが、そういうのと似た用法だと思う。ただ、これは英語圏でも普通によく見られる誤解ではある。

また、著者は、メイクビリーブ理論を、フィクションは一種のごっこ遊びであるという説だと捉えているように思われる。これも解釈としては、よくあるものだが、あまりよくない捉え方であると思う。

私の理解では、ウォルトンのメイクビリーブ理論とは以下のようなものだ。

  • 想像虚構性という二つの基礎概念によってメイクビリーブゲーム(何かを虚構的にするゲーム)を特徴づける。
    • この2つは基礎概念なので定義できず、例示によってのみ説明されている。ごっこ遊びは単に例示のためにあげられている。
    • Mimesis as Make-Believeの段階では、虚構性を想像によって定義しようとしていたが、後にあきらめた。
  • フィクションは、メイクビリーブゲームを生み出す機能をもったものとして特徴づけられている。

この際、「メイクビリーブゲーム」や「フィクション」はウォルトン用語として独自の定義が与えられているものなので、日常語の「ごっこ遊び」や「フィクション」とはわけて考えなければならない(揶揄をこめて、ウォルトフィクションなどと呼ばれることもある)。これは戸田山さんとも近いのではないかと思うのだが、ウォルトンは、自分は概念分析ではなく、理論構築をしていると明言している。

ちなみにウォルトン解釈で、私がもっとも好きなのは、David VellemanのOn the aim of beliefだ。これ自体有名な論文だが、これを読めばウォルトンのイメージが大きく変わると思う。いい意味でも悪い意味でもウォルトンがめちゃくちゃ変なことを考えていることがよくわかるというか。

at-akada.hatenablog.com

Mimesis as Make-Believe: On the Foundations of the Representational ArtsMimesis as Make-Believe: On the Foundations of the Representational Arts

*1:準恐怖については、森さんがこの論文のp.60で触れているとのこと。