ノエル・キャロル『ホラーの哲学』の翻訳が出ます(5) - ホラーの定義

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ノエル・キャロル『ホラーの哲学』の翻訳が出ます。

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ユリイカ2022年9月号 特集=Jホラーの現在にも書いています。

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紹介

第一章のホラーの定義の箇所を紹介しようと思います。

ホラーの定義と聞くと、次のように考える人はいるのではないでしょうか。ホラーの定義? 「怖い作品」のことでいいんじゃないかと*1

しかしここでちょっと考えてほしいのは、「怖い作品」はすべてホラーでしょうかということです。地震や台風や、事故や伝染病や環境破壊などを扱った作品も、何らかの意味では、「怖い」のではないでしょうか。交通事故は怖い。しかし、危険な交通事故を扱った映画は(少なくとも交通事故が出てくるだけであれば)「ホラー」ではないでしょう。ホラーが扱うのは、そういう意味での「怖さ」ではないはずです。

では、ホラーが扱う「怖さ」とは何でしょうか? 本書では、このホラー固有の「怖さ」が「アートホラー」と呼ばれています。

そして、本書によれば、アートホラーという感情の定義はおおむね次のようになります*2。それは、(1)超自然のモンスターに向けられるものであり、(2)危険に対する恐怖の感情(コワイ)と、(3)不浄に対する嫌悪の感情(キモイ)が混合した感情であると。

(1)について。本書では、「モンスター」という語は、「超自然のクリーチャー」くらいの意味で使用されます。吸血鬼やゾンビなどだけではなく、幽霊も宇宙生物も含みます。

(2)について。ここは普通の意味での恐怖を指しています。高いところが怖いとか、病気やケガや事故が怖いという感情はここに入ります。キャロルは、恐怖fearを、危険に向けられる感情と捉えています。

(3)について。ここはキャロルの定義のキモになる箇所で、キャロルはこの嫌悪(キモイ)の要素を捉えるために人類学者メアリー・ダグラスの「不浄」の概念に訴えています。恐怖が危険に向けられる感情であるのと同様に、嫌悪disgustは不浄に向けられる感情であるとされます。ここは後でもう少し詳しく触れましょう。

まとめると、キャロルのホラーの定義は、まずホラーにおける特殊な「怖さ」を、超自然のモンスターに向けられるコワイとキモイが混合した感情として定義します。また、ホラージャンルは、この特殊な感情を与えることを目指すジャンルとして定義されます。

先ほど、交通事故の危険を描くだけの作品は(たとえ交通事故が怖いとしても)ホラーではないという話をしました*3。キャロルの定義をもとに考えると、なぜこの作品がホラーに含まれないかというと、(2)の要素はあるが、(1)と(3)がないせいだということになります。そこで例を少し修正し、「コワイ」にくわえて、「キモイ」「モンスター」という要素を入れてみましょう。もし、交通事故を引き起こしているのが、何らかの忌しい超自然の存在であれば(例えば、幽霊であれば)、この作品をホラーに含めても違和感はなさそうです。

(3)について補足。嫌悪と不浄はキャロルの定義のうちの核となる部分ですが、少々つかみづらい部分でもあります。不浄とは、簡単に言えば、〈文化の中の基本的なカテゴリーからの逸脱〉です。キャロルは、ダグラスにならい、カテゴリーの狭間にあるもの、カテゴリーと矛盾するもの、不完全なもの、不定形のものがこの特徴をもつとしています。この特徴をもつものは、その文化の中で忌避の対象となります。例えば、切り離された髪の毛、唾液、糞尿などは、自他の境界に位置するがゆえに忌避されます。死体は、生/死、人間/物体のカテゴリーの境界に位置するがゆえに忌避されます。また虫のように、カテゴリーの境界に位置する生物もしばしば忌避されます(わたしの直観によれば、虫は生物なのに足が機械っぽいところが不浄を感じさせます)。

ホラーのクリーチャーがこの特徴をもつことは明らかでしょう。ホラーのクリーチャーの多くは、ゾンビや幽霊のように、生死の境界を攪乱したり、人狼のように複数の生物種を混ぜ合わせています。

以上がキャロルによるホラーの定義の紹介でした。

本書に出てくるホラー作品の紹介コーナー

コリン・ウィルソンの『精神寄生体』を紹介します。この小説、わたしは本書ではじめて知ったし、あまり現在言及されることは少ないかと思うんですが、なかなかおもしろいですよ。ストーリーは、人間の精神に寄生して、人間を操る精神生物と人類の戦いという感じです。目に見えない寄生生物に自分も操られるかもしれない、他人もすでに操られているかもしれないというのが単純に怖いです。

あと、この小説は、笠井潔の矢吹駆シリーズとちょっと似てまして、フッサール現象学が異星人との戦いの武器として導入されるんですよね。現象学的還元などを身につけることで、精神寄生体のコントロールに対抗できるようです。それだけならともかく、作中では、主人公たちがフッサールを読むことでなぜか念力まで身につけていて笑いました。フッサールを読むと、物体を宙に浮かせることができるようです。矢吹駆シリーズ同様に、現象学者は必読でしょう。

*1:細かいことを言うと、できの悪いホラーは怖くないので「怖さを目指す作品」のように定義する必要はあるでしょう。

*2:以下は、キャロルの定義そのままではなく、だいぶ噛みくだいています

*3:ちなみに、ホラーでないというのは別に作品の欠陥ではないです。例えば、ディザスタームービーなどのジャンルはホラーとは違った意味での天災の恐怖を描くでしょうが、それがホラーに含まれないのは欠陥ではなく仕様です。

ノエル・キャロル『ホラーの哲学』の翻訳が出ます(4)

ノエル・キャロル『ホラーの哲学』の翻訳が出ます。

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紹介 - 「ホラー」の世代差

短かい小ネタを書いた方が読む方も書く方も楽でいいだろうと思ったので小ネタを書くことにしました。

実は、先にホラーの定義の箇所を紹介しようと思ったんですが、ホラーの定義論をする際に気になる問題があります。世代によってホラーの典型的イメージがかなりちがうという問題です。

わたしが何となく仮説としてもっているのは「人間は、自分が子どもの頃に流行っていたホラー映画を、ホラーの典型例だと思い込む傾向がある」というものです。例えば、わたし自身は「ホラー」と聞くと、まず『13日の金曜日』シリーズのようなスラッシャーホラー、スプラッターホラーをイメージします。だいたい『13日の金曜日』のジェイソンか、『エルム街の悪夢』のフレディのイメージです。なぜかというと子どもの頃にそれが流行っていたからです。といっても、実際に子どもの頃に『13日の金曜日』を観たかというと、そんな記憶はなく、アニメなどで、ホッケーマスクをかぶり、チェンソーをもったジェイソンの姿が「ホラーっぽいアイコン」として引用され、それが「怖いもの」として印象に残っているせいだと思います(実際はジェイソンはチェンソーをもっていないというのは後に知りました)。

しかしこれが普遍的なイメージかというと明らかにそんなことはないわけですね。スラッシャー映画が流行ったのは『悪魔のいけにえ』(1974)など以降ですし、現在スラッシャー映画がたくさん作られているかというと、そうでもない。ちなみに、もっと若い人に聞いてみたところ、「ホラー」と聞くと、典型的に思い浮かぶのは貞子や俊雄で、スプラッターなどはむしろホラーではないイメージ(ジェイソンは言われれば何となくホラーっぽいものというイメージはある)と言われました。

さらに歴史をさかのぼると、30年代のホラー映画は『魔人ドラキュラ』や『フランケンシュタイン』だし、50年代のホラー映画は、SFホラー映画ばかりなので、もっと上の世代になるとそういうイメージの人もいるでしょう。

さらに日本語の場合、「ホラー」は外来語で、日本語として普及したのもわりと歴史が浅いらしく(Wikipediaには90年代と書いてありました)、その辺のねじれもあるのかなと思っています。これは本当にただの推測ですが、外来語であるがゆえに、新規なもの・刺激が強いものをイメージさせやすいかもしれません。

日本語には「怪奇」という語もあって、こちらの方が歴史も古いです。現在では、おおむね「怪奇」の方が「ホラー」より広いジャンルという風に使いわけられているようです。おそらく——境界は非常に曖昧ですが——、吸血鬼もの、妖怪ものなどは「ホラー」ではなく「怪奇」という感じでしょうか。一方で、これは訳者解説にも書いたんですが、『ホラーの哲学』でいう「ホラー」はむしろ「怪奇」の方が近いのではないかと思います*1。めちゃくちゃ怖いものだけではなく、ちょっと不気味なものが出てくるくらいでもホラーに入るイメージです。

本書に出てくるホラー作品の紹介コーナー

ドン・シーゲル監督の『ボディ・スナッチャー/恐怖の街』を紹介します。キャロルが「宇宙憑依もの」と呼んでいるジャンルの一作です。周囲の人々が知らない間に宇宙人が作った偽物(ないし変身する宇宙人)に置き換えられていくというやつです。冷戦期にこの手の映画がいくつも作られていて、当時は赤狩りの時代なので、共産主義の隠喩とも言われたりしています。

翻訳中にこの時代のこの手の映画をいくつか観たんですが(『宇宙船の襲来』『それは外宇宙からやってきた』など)、『ボディ・スナッチャー/恐怖の街』以外はそれほどおもしろいものではないので別に見なくてもいいと思います。

『ボディ・スナッチャー/恐怖の街』だけは今見てもかなり不気味ですね。人間の偽物がサヤエンドウのような鞘に入れられて運ばれてくるのですが、人間の偽物が入った鞘を運んでくるトラックの存在が、嫌な都市伝説みたいな感触です。作中の出来事が主人公の回想として基本的にすべて過去形で語られるというのも効果的だと思います。

*1:じゃあ「ホラー」ではなく「怪奇」と訳した方がいいんじゃないかというのも少し考えたんですが、「ホラー」をすべて「怪奇」と訳すと意味が通じなくなる箇所も大量に出てくるので無理でした。あと怪奇というと横溝正史の作品などをイメージする可能性もある気がするんですが、それはキャロルがいう「ホラー」とも違うので、やっぱり「怪奇」だとだめですね。

Jホラーと怪談収集小説

ユリイカ2022年9月号 特集=Jホラーの現在』が出たので、掲載した論考「Jホラーの何が心霊実話なのか?——実話怪談、ドキュメンタリー、心霊写真」の補遺的な話を書く。

ノエル・キャロル『ホラーの哲学』の翻訳ももうすぐ出ます。

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Jホラーと呪われた映像

ユリイカ』に書いた文章では、「呪われた映像」「心霊映像」がJホラーの重要なモチーフのひとつであるという話を書いた。また、そのモチーフがフェイク・ドキュメンタリー、ファウンド・フッテージ、POVといった手法と相性が良いという点に触れた。このモチーフの一番有名な例は言うまでもなく『リング』の呪いのビデオだが、Jホラーをある程度観たことがある人なら知っているように、「心霊映像」くらいまで広げて考えると、事例は本当に無数にある*1。最近だと例えば『呪詛』にもそのようなモチーフがあった*2

ユリイカ』でも書いたが、こうした手法の由来のひとつはおそらく、Jホラーの作り手がよく言及する「心霊写真的な怖さ」だと思われる。心霊写真というのは、単に怖いものが写っている写真というだけではなく、写真自体が、触れたり見たりするだけで呪われそうな感じがして忌避される。つまり、表象対象から表象媒体に呪いが伝染するように感じられるわけだ。

これを映像に置き換えた際に重要なのは、映像は、映画の作中で文字通り上演できるということだ。よくあるパターンとしては、作中で、「いやー、なんかこの映像、ヤバいものが映ってて、見ると本当によくないことがあるんで、絶対に見ない方がいいと思うんですが……」と言った後で、上演するなど。当然映像の内容自体もいかにも呪われそうな不吉な映像になっていることが多い。

もちろん映画の中で流れるのは、単に「呪われている映像」「心霊映像」という設定の映画の映像にすぎないわけだが、映像の内容も相まって、何となく鑑賞者である自分の方にまで呪いが伝染しそうないやーな感じがする。この決定版は、映像から文字通り「出てくる」という演出をやった『リング』だが。

怪談収集小説と呪われたテキスト

ユリイカ』の註で、この手法の小説版がどのようなものになるかという話に少し触れた。

今から考えると『リング』の原作版というのは少し不思議な部分があって、「どうして小説なのに呪いのビデオなんて設定にしたのか? 作中で上演できないのに」と思わないでもない。そういう効果のことは意図していなかったのだと思うが、上演した方がいいというのは映画版が証明したわけで、そう考えると『リング』は映画化によってはじめて完成した作品という感じがする(原作の良さはそこではないというだけの話かもしれないが)。

小説でこれと似た手法をやるなら、登場するのは「呪われた映像」ではなく「呪われたテキスト」にしなければならない。「はて、そういう小説があったか?」と考えて、『ユリイカ』では三津田信三の『どこの家にも怖いものはいる』をあげた。

だが『ユリイカ』の原稿を書いた後に気づいたが、この種の手法を取り入れた小説はもっとたくさんあるし、すでにジャンルとして成立しているのではないか。代表作をあげると、三津田信三『どこの家にも怖いものはいる』(2014)などの「幽霊屋敷シリーズ」、小野不由美残穢』(2012)、芦花公園『ほねがらみ』(2021)などがそうだ。こうしてあげてみると傑作が並ぶし、これは2010年以降の日本のホラー小説で特に盛り上がったジャンルなのかもしれない。このジャンルに特に名前はついていないと思うので、とりあえず「怪談収集小説」と呼ぶ。

怪談収集小説の特徴は以下。もちろん、中身はかなりバリエーションがあるし、以下の条件のうちひとつかふたつだけ満たすというパターンのものもある。

  1. 語り手は怪談を収集し、一見関係がないと思われた複数の怪談が、実はひとつの共通の背景をもっていることに気がついていく。『ほねがらみ』で言うところの「ひとつの映画をバラバラに見せられているような感覚」*3
  2. 怪談の真相に近づくにつれ、語り手や、その周辺の人々が何らかの悪い影響を受けていく。つまり、呪われる。
  3. しばしば、フェイク・ドキュメンタリー、ファウンド・フッテージなどの手法を導入する。

先ほどの映画でよくあるパターンになぞらえて説明すると、作中で、「いやー、なんかこの怪談どうもヤバそうで、読むとよくないことがあるんで、読まない方がいいと思うんですが……」と言った後で、怪談を掲載する。当然怪談の内容自体もいかにも呪われそうな不吉な内容になっていることが多い。

つまり「呪われたテキスト」の具体例は「読むとさわりのある怪談」として実装されていることが多いように思う。『どこの家にも怖いものはいる』『残穢』の場合、悪い影響の部分は『リング』などに比べるとマイルドだが。呪いの破壊力という意味では『ほねがらみ』が一番『リング』に近いかもしれない。

3の部分は、具体的にどういうことかというと、作者ないし、作者の分身的な語り手が設定されていたり(フェイク・ドキュメンタリー)、誰かが残した手記など(ファウンド・フッテージ)が登場する*4

少しおもしろいなと思うのは、この手の手法は、メディア固有的なものなので、フェイク・ドキュメンタリー小説である『残穢』の映画版は、フェイク・ドキュメンタリー映画にはならない。小野不由美の分身と思われる小説家の「わたし」は、小説版『残穢』を書いているが、映画版『残穢』を作っているわけではないので。

あと一応断わっておきたいが、怪談収集小説がJホラーからすごく影響を受けていると言いたいわけではない(影響は多少ありそうだが)。実際には実話怪談、ネット怪談の影響の方が大きいかもしれない。単に似た効果を実現しているというだけだ。

「呪われメディア」と見立て

これは『ユリイカ』に書こうかなと思って触れなかったが、この手の手法は、ケンダル・ウォルトンが「想像の対象」や「de re想像」と呼んだものの具体例と考えることができる。これは要するに、フィクションやごっこ遊びの中で、現実にあるものを、別のもの(ないし別の属性をもつもの)に見立てる「見立て」のことだ。

ウォルトンがあげている具体例は、ごっこ遊びの中で人形を赤ちゃんに見立てる例などだが、他にも『ガリヴァー旅行記』の例があげられている(p.354, 邦訳p.347)。『ガリヴァー旅行記』のテキストは作中では、ガリヴァーが書いた航海日誌であるという設定になっている。現実にはジョナサン・スウィフトが書いた小説であるわけだが、それが作中で〈ガリヴァーが書いた航海日誌〉という属性を付与するような見立てが行なわれている。

同じように、『リング』の呪いのビデオの映像も、作中で〈呪われている〉という属性が付与されているし、『残穢』の怪談もそうだ。もっと別種の例をあげれば、お化け屋敷で、呪われているという設定の人形が置いてあれば、これに近い効果をあげるかもしれない。実際あるのかどうか知らないが、「呪いの人形」という設定の人形に触れないと先に進めないお化け屋敷があれば、結構おもしろいかもしれない。

ウォルトンによれば、見立てのメリットは、想像に「鮮烈さvivacity」を与えるところにある。つまり、何か具体的な手触りのある「モノ感」「そこにある感」みたいなのを与える。そして実際、Jホラーや怪談収集小説の「呪われメディア」は、目の前の媒体が「呪われている」という属性を虚構的に付与することで、この具体的な手触りをうまく使っていると思う。

*1:おそらくこのモチーフに特にこだわっていたのは『女優霊』『リング』の脚本家高橋洋だろう。エッセイなどでも「見たら死ぬ映画」に関する想像を書いていたりするので「見ると死ぬ映像」というのは、彼の中では映画の象徴のようなものなのかもしれないとも思う。

*2:『呪詛』は台湾映画だがJホラーの影響があるのは確かなので。

*3:『ほねがらみ』は変な小説なので、作中で、このジャンルの先駆を紹介したり、ジャンルの魅力を説明したりしている。

*4:「残された手記」自体はホラー小説で昔からある手法なので、わざわざ映画になぞらえて「小説版ファウンド・フッテージ」のように呼ぶのも変かもしれないが、ここでは映画と比較しているのでそういう表現になる。

ノエル・キャロル『ホラーの哲学』の翻訳が出ます(3)

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ノエル・キャロル『ホラーの哲学』の翻訳が出ます。

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紹介 - ホラーの詩学

断片的にいくつか紹介してきましたが、『ホラーの哲学』を、トータルに紹介することもしてみようと思います。

『ホラーの哲学』とはどんな本か。ふたつの軸で整理するならば、縦軸は「ホラーの詩学」であること、横軸がパラドックスであるという整理を思いつきました(縦と横は特に意味がないのでどっちがどっちでもいいです)。おおむねふたつとも「序」に書いてあることですが。

「ホラーの詩学」とは何かというと、要するに〈制作〉の観点からのホラー論であるということです。

キャロルの言い方で言えば、「アリストテレスが〔『詩学』で〕悲劇に対して行ったことを、ホラージャンルに対して行う」(p.8)。アリストテレスの『詩学』が扱ったのは、当時の一大人気ジャンルであるギリシャ悲劇ですが、アリストテレスの悲劇論は、〈制作〉〈作る〉という観点からの悲劇論です。詩学poeticsという語は元々「創作術」「制作術」を意味しています。キャロルによれば、『詩学』では、(1)ギリシャ悲劇が鑑賞者に与える効果、(2)その効果を出すために役立つもの(特にプロット)が述べられています。同じように、本書でも、(1)ホラーが鑑賞者に与える効果——つまりホラーの〈怖さ〉(アートホラー)——と、(2)その効果を出すための仕組みが分析されます。

つまり、作り方の「ハウツー」ですね。もちろん本書を読んでも、いきなりホラー小説やホラー映画が作れるようになったりはしないと思うんですが、本書は哲学書でありながら、基本的な関心は、「作り方」、言い換えれば「これはどんな仕組みで動いているのだろう」という点にあります。最初に紹介したモンスターの作り方などもそうですし、例えば三章のホラーのプロットの分析などもそうですね。三章は、もう少しわかりやすくリライトすれば、ホラー創作術の本にもそのまま載せられる内容になっていると思います。

わたしが個人的にすごく好きなのは、本書のこの〈作る〉という観点です。おそらく、これは分析対象・分析手法とも関連しているでしょう。

「序」で、キャロルは哲学的美学がハイアートのみを扱う傾向、芸術において紋切り型を嫌う傾向に反対しています。

実際、人文系の学術書で何らかの作品を扱う際に、傑作、名作、古典のみを扱いがちな傾向はあると思うんですが、その背景には、おそらく「作る」という観点がないからという理由もあるのではないでしょうか。研究者に受け手側・鑑賞者側の視点しかないと、凡作を前にしたときに、できることが「扱わない」「無理やりほめる」のどちらかしかなくなってしまいます。

しかし、制作という観点からすれば、凡作だから分析対象にならないということはないし、失敗も興味深いケーススタディになりえるでしょう。特定ジャンルにおける紋切り型や、「あるある」も、むしろ分析のとっかかりとして利用しやすいものになります。なぜこの紋切り型がよく使われているのか、そこにどういう魅力があるのか。これは大衆芸術、ポピュラーカルチャーを扱う際に重要な観点です。

紹介 - 心のパラドックス

もうひとつの軸であるパラドックスについても簡単に紹介します。

本書では、「フィクションのパラドックス」(二章)、「ホラーのパラドックス」(四章)というふたつのパラドックスが扱われます。これも本書のもうひとつの重要な軸です。本書の原題には元々「心のパラドックスたちParadoxes of the Heart」という副題があったのですが*1——翻訳では、そのままではわかりにくいので「フィクションと感情をめぐるパラドックス」としました——、「心のパラドックスたち」が指しているのはこのふたつのパラドックスのことです。

「フィクションのパラドックス」は、〈なぜ存在しないとわかっている虚構のキャラクターを怖がることができるのか〉という問題です。

「ホラーのパラドックス」は、〈なぜホラーの鑑賞者は、怖いものをわざわざ見たがるのか〉という問題です。

いずれもフィクションと感情に関わるパラドックスです。これ以上詳しい話を紹介すると長くなるので、今回はこの辺で。

本書に出てくるホラー作品の紹介コーナー

小説も紹介したいなと思ったのでシャーリイ・ジャクスンの『丘の屋敷』を紹介します。三章の「幻想」を扱う箇所で登場します。

実は、ホラー小説でベストを選べと言われたら、わたしは、迷いつつも、おそらくこれをあげるんじゃないかと思うくらいには好きな作品です。ちなみにホラー映画でベストを選べと言われたら、やはり迷いつつも、本作の映画版であるロバート・ワイズ監督の『たたり』をあげるかも……*2

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何がそんなに好きなのか自分でもよくわからないんですが、考えてみると、ひとつには精神的に不安定な主人公エレノアの精神の不安に連動して、怪異が起きていくという構造ですね。これは後続の作品で似たものはありますが、『丘の屋敷』はすごくうまいです。

もう一個は、個人的に、心霊研究・心霊実験の題材が好きすぎるという理由があります。これは一応自分なりの説明があって、ホラーというのは、理性の光でもって、覗いてはいけない暗闇を照らそうとしてひどい目に合うというのが基本的な流れだと思っていて、〈理性的なもの〉と〈神秘的なもの〉のコントラストが魅力のひとつだと思うんですね。一方、科学者・研究者が心霊研究・心霊実験を行なう場面というのは、まさに〈理性〉〈神秘〉の衝突じゃないですか。そこがいいですね。変な機械などで、霊を測定したりするとなおよいです*3

あと『丘の屋敷』は、原作だと、心霊研究を行なうモンタギュー博士が哲学者で、そこも推しポイントですね。モンタギュー博士は基本的に何の役にも立たないですが。

*1:ちなみに「心のパラドックス」という表現は18世紀の著述家ジョン・エイキンとアナ・リティティア・エイキンから取られています。

*2:ちなみに、Netflixでやってたドラマ版の『ホーティング・オブ・ヒルハウス』というのもありまして、これは原作とはだいぶ違うんですが、これも結構好きです。

*3:実は、世間的にはそこまで評価されていないであろう『リング2』が結構好きなんですが、理由は謎の電極をつけて心霊実験する場面が出てくるからです。

ノエル・キャロル『ホラーの哲学』の翻訳が出ます(2)

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ノエル・キャロル『ホラーの哲学』の翻訳が出ます(1) - うつし世はゆめ / 夜のゆめもゆめ

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ユリイカ2022年9月号 特集=Jホラーの現在にも書いています。

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紹介

今回紹介したいのは歴史的な話。本書はホラーの歴史ではなく、どちらかと言うとホラーの理論的考察を中心としていますが、歴史的な話もところどころでしていて、実はそこでも結構おもしろいことを言ってますという紹介。

ひとつは一章の結論部で、啓蒙思想とホラーの関係について触れた部分。大雑把に言うと、啓蒙思想による科学的・近代的世界観の確立がホラージャンル誕生の前提になったという話をしています。ここはまあ似たようなことはよく言われていると思うんですが、なかなかおもしろいし、興味ある人はそれなりにいるのではないかと思います。

もうひとつ、個人的に好きなのが、本書の最終節「ホラーの現在」という箇所です。ちなみに、『ホラーの哲学』は1990年に出た本なので、「現在」というのは1990年のことです。この辺は訳者解説でも触れたんですが、1990年というのがどういう時期かというと、当時はどうやら70年代からのホラーブームがずっとつづいているという意識があったらしいです(わたしは世代的にも実感ないです)。

70年代からのホラーブームというのは、1973年に『エクソシスト』の映画が大ヒットして、原作の小説も売れて、ホラー映画やホラー小説がたくさん作られた時期です。序文などでも触れられているんですが、『ホラーの哲学』は実はこの1973年くらいからの十年半のホラーブームへのリアクションとして書かれた本なんですね。

もちろん理論的な本なので、本書の大半は、過去十年半のホラーだけではなく、十八世紀からずっとつづいているホラーというものを対象にしています。ただ、ひとつの動機として「この十年半のホラーブームは何だったんだろう」というのがあって、最終節でその話をしてるんですね。

で、なんで今ホラーブームなんだろうという話を検討していて、ここが結構おもしろいです。まあまじめにやろうと思ったら歴史的な話になるので、本人もこれは思弁であり、推測だって書いているんですが。

キャロルの回答はひとことで言うと「アメリカ人が自信をなくしたから」です。本書の言葉で言うと「パックス・アメリカーナの崩壊」ですね。背景はベトナム戦争などです。細かい話を完全にすっ飛ばすと、それまでアメリカ人が抱いていた強い個人などの理想が崩壊してしまって、「これからどうすればいいんだろう」みたいな不安にホラーがうまくはまったと。

これはまあ70年代におけるアメリカ文化の変容みたいなレベルではよくある指摘だと思うんですが、ことホラーにかぎって、この辺の話をしているのは、あまり類似の指摘がない気がします(あったらすいません)。訳者解説では『ワンス・アポン・ア・タイム・イン・ハリウッド』の話なんかもしています。

本書に出てくるホラー作品の紹介コーナー

話の流れ上、ウィリアム・フリードキン監督の『エクソシスト』(1973)を紹介します。といっても、そもそも有名な作品なので、今さらわたしが紹介する意味はほとんどないと思うんですが。いや、名作なんで普通に観た方がいいと思いますよ。

どうでもいい話をすると、実はわりと最近見返したんですが、ブリッジ状態で階段を降りる有名なシーンが出てこなくて、びっくりしました。あれは実はディレクターズカット版で追加されたシーンらしいですね。

アメリカ理想主義の崩壊がホラーブームにつながったという話を聞いて改めて考えると、『エクソシスト』って、まあ確かにそんな感じの話ではありますね。カラス神父は、元々近代的で懐疑主義的な人間として描かれていて、そもそも最初からあまり神を信じきれていない。それが悪魔に神の不在を突き付けられて、「おまえの信じてたものは全部嘘だ! さあどうする!」みたいな。理想の崩壊後を生きるアメリカ人の隠喩みたいに見えなくもないです。

あと『エクソシスト』は、普通ジャンル映画なら一分で飛ばすところをものすごく丁寧にやっているのが独特な感じはしますね。悪魔憑きと思われる症状を医者にも診せたけどだめだったという場面を普通そんな丁寧にやらないと思うんですが、この映画は前半ずっと病院で精密検査してますからね。

エクソシスト』の影響を受けていると思われる『女神の継承』(2022)も最近観たんですが、あれも信仰しきれない人間の苦しみみたいな話ではありました。

ノエル・キャロル『ホラーの哲学』の翻訳が出ます(1)

まえおき

ノエル・キャロル『ホラーの哲学』の翻訳が出ます。出版社の告知ページも出たので宣伝していきます。

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たまたまタイミングが合って、ユリイカ2022年9月号 特集=Jホラーの現在にも書いています。

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このふたつの仕事が重なったため、すっかりホラーづいており、毎日何がしかのホラー映画、ホラー小説を摂取している夏です。

翻訳出版に合わせて『ホラーの哲学』の宣伝をしていきたいと思います。

紹介

まずは目次。章タイトルなどはまだ仮です。

目次(仮)

    • 本書が置かれた文脈
    • ラージャンル摘要
    • ホラーの哲学とは?
  • 第一章 ホラーの本質
    • ホラーの定義
      • まえおき
      • 感情の構造について
      • アートホラーを定義する
      • アートホラーの定義に対するさらなる反論と反例
    • 幻想の生物学とホラーイメージの構造
    • 要約と結論
  • 第二章 形而上学とホラー あるいはフィクションとの関わり
    • フィクションを怖がる——そのパラドックスとその解決
      • フィクション錯覚説
      • フィクション反応のフリ説
      • フィクションへの感情反応の思考説
      • 要約
    • キャラクター同一化は必要か?
  • 第三章 ホラーのプロット
    • ホラープロットのいくつかの特徴
      • 複合的発見型プロット
      • バリエーション
      • 越境者型プロットおよびその他の組み合わせ
      • 典型的ホラー物語が与えるもの
    • ホラーとサスペンス
      • 疑問による物語法
      • サスペンスの構造
    • 幻想
  • 第四章 なぜホラーを求めるのか?

まじめに紹介しようと思うと大変なのでハードルを下げるために、断片的に紹介していきます。つづくかはわかりませんがなるべくがんばります。

少し前に出た戸田山和久『恐怖の哲学』でも紹介があったので、おそらく本書では最終章のホラーのパラドックスの話が有名だと思います。ホラーのパラドックスというのは、なぜ怖いのに見るのか、普通怖いものは避けるはずなのにどうしてわたしたちはホラーを求めるのかという問題です。

これはこれでおもしろいんですが、ただ、個人的には、ホラーのパラドックスの話ばかりが言及されるのはあまりおもしろくない、本書には他にもおもしろい部分がたくさんありますよという風に思っています。

そういうわけでちょっとずつ紹介していきます。

今日紹介したいのは、一章後半の「幻想の生物学とホラーイメージの構造」の節。怖いモンスターの作り方を分析した箇所です。ここは「カテゴリーを組み合わせて君だけのホラーモンスターを作ろう」みたいな最高に楽しい箇所ですね。キャロルはここで「融合」「分裂」「巨大化」「群集化」という四つのメソッドを紹介しています。

キャロルの意見によれば、ホラーをかきたてるものというのは、カテゴリー的にどこに位置づけて良いのかよくわからない「不浄なもの」「狭間に位置するもの」です*1。この四つのメソッドは、不浄性を作り出したり、強めたりする手法として紹介されます。

融合というのは、人間に馬の頭がついてるとか、そういうやつです。かけ離れた複数のカテゴリーをくっつけるといいですね。

分裂は、時間分裂と空間分裂があるんですが、時間分裂の代表例は人間が狼になるとかです。空間分裂の代表例はドッペルゲンガーです。

巨大化は、文字通り巨大化で、群集化は群れを作るやつです。

巨大化・群集化は、不浄を作るというより強める方なので、元々キモいものを巨大化させたり、群集化させるのが効果的であると薦められています。

正直この辺の手法って、古典的なモンスターホラーではよく見たけど、最近はあまり見ないですね。少し前にネット怪談に題材をとった『犬鳴村』という映画があり、犬鳴村って別に元々はそういう話ではないと思うんですが、映画だとそういう話になってて、個人的には結構好きでした。古典的なモンスター映画が好きなので。

ただ、人間に豚の頭とか犬の頭がついてるやつはシンプルに怖いですからね。現在でも別に無しではないと思います。

本書に出てくるホラー作品の紹介コーナー

以前から個人的に考えていた企画として、本書に出てくるホラー映画、ホラー小説を適当に紹介していくというのがありました。『エクソシスト』とかそういう有名なのもいいんですが、変なやつ中心に。あんまり需要ないと思うんですが、無理矢理解説にくっつけていきます。

栄えある第一回はネイサン・ジュラン監督の『極地からの怪物 大カマキリの脅威』(1957)です。配信とかは無いと思うのでDVDを探してください。2千円くらいで買えます。

ちなみに本作は、どこで出てくるかと言うと、今回紹介したモンスターの作り方の例で出てきます。タイトルを見ればわかるように巨大化のめっちゃわかりやすい例です。極地の氷の中で眠っていた巨大カマキリが復活します。実は50年代にこの手の動物巨大化ものってすごくたくさん作られていて、わたしは個人的にこのジャンルがめっちゃ好きです。

本作が今でも観る価値がある作品かというと微妙なんですが、どういう人におすすめなのかははっきりしています。怪獣映画ファンです。特に初代『ゴジラ』とか、『サンダ対ガイラ』とか昭和の最初の頃のおどろおどろしいやつが好きな人にはおすすめです。怪獣映画として観ると、軍隊と巨大カマキリの対決とか見どころもあってそんなに悪くないです。

これは最初の展開がすごく良くて、最初の場面で「アメリカが誇る最先端のレーダー網!」みたいな感じで、米軍のレーダー網の素晴しさが強調されるんですよね。そのレーダー網に謎の高速飛行物体が検知される、だが、その正体は……という(わかると思いますが、もちろん巨大カマキリです)。ちなみに巨大生物がレーダーにひっかかる場面は、日本の『空の大怪獣 ラドン』(1956)にもあって、この映画が1957年なので、おそらくこの映画が『ラドン』をぱくってますね。

個人的に怪獣映画の魅力って、怪獣というふざけたものが、国家、軍隊、科学というまじめなものと衝突するところにあると思っていて、軍のレーダー網が巨大カマキリに反応するのは、この衝突が感じられて好きですね。

*1:正確に言うと、危険でコワイ、かつ、不浄でキモイという二条件があるんですが、危険でコワイ方は当たり前なのであまり強調されません。

今年のベスト的な

例年、新しいものはあまり読んでいないのだが、今年は比較的新しいものを読んだ気がする(小説限定)。

2021年に出たもので良かったもの

ティーヴンソンは翻訳が出ただけで最初に出たのは19世紀だけど。

ベストは『6600万年の革命』。ピーター・ワッツの『ブラインドサイト』はあまり好きではなかったんだけど、これは本当に好き。何が好きなのかは説明しづらい。

『ネットワーク・エフェクト』はヒューゴー賞受賞おめでとう。このシリーズ大好きなんだけど、「もえもえー」みたいな気持ちで読んでるので受賞にふさわしいのかどうかとかよくわからない。

実話怪談でよかったもの

今年の後半は、『一生忘れない怖い話の語り方』を読んで、ずっと実話怪談ばかり読んでいた気がする。

中でも特に気に入っているのは雨宮淳司の一連の作品だ。

同作者の『怪癒』の解説文にはこうある。「実話怪談で傑作、大作という言葉を使うことが適切かどうかはわからない。だが本書の最後、約70ページをさいて収録された「蛇の杙」は著者渾身の一作であるとともに、実話怪談というジャンルにおいて恐らく今後も名を残す逸話であろうと思う」。

わたしも、雨宮淳司を読むまでは、実話怪談において、傑作、大作というものが存在することを知らなかったと思う。しかし例えば「背中」「撃墜王」(『風怨』収録)、「銀の紐」(『魔炎』収録)、「回廊」(『怪医』収録)などの作品は忘れがたい。実際、実話怪談でタイトルを覚えていること自体めずらしいと思うのだが、これらの作品についてはあまりに忘れがたかったので自然にタイトルを覚えてしまった。

個人的には「背中」「銀の紐」など、少年少女を主人公にしたジュブナイル怪談(そんなジャンルがあれば)が特に好きだが、呪術を扱ったものも独特の味がある。