マンガのアイロニー
アイロニーの話のつづき。前回はグレゴリー・カリーによる映画のアイロニーの話を紹介した。アイロニーとは変な(と語り手が思っている)態度やスタンスをするフリをしてみせることだった。特に言葉によるアイロニーではなく、映画表現固有のアイロニーの場合、変な視点やスタンスをわざとやってみせる映画表現ということになる。カリーの例は多岐にわたるが、これらの表現の特徴として以下のような要素をあげられるかもしれない*1。
- 通常の映画表現として見ると明らかに変なことをする。
- それを意図的にやることで何らかの効果を達成する。
- 多くの場合、鑑賞者に、物語世界に対して一歩引いた視点をとらせる効果を伴う。
個人的には映画よりマンガの方が得意なのでマンガにおけるアイロニー表現の話をしようと思う。最近諸事情で山本直樹作品をよく読んでいた。山本直樹作品はシナリオ上もアイロニーをこめた話が非常に多いのだが、表現技法の面でもマンガにおけるアイロニーの好例が見られる。
上記は連合赤軍事件を描いた『レッド』の一場面だ(『レッド』7巻、p.107)。赤色軍の指導者である北がスラスラと「総括」してみせる場面だ。
あたりまえだが、マンガで吹き出しに言葉が入っていれば、それは登場人物がその言葉を喋ったということを表わしている。上記の場面も北の喋った言葉なのだが、とても読めないような細かい文字が詰め込まれ、北の顔が半分隠れている。通常のマンガ表現として見れば、吹き出しにこんなに文字をつめこむのはおかしい*2。ただこれは明らかに意図的に行なわれており、北が流暢にまくしたてたという状況が表現されている。さらに語られている内容に対して物語の語り手がほとんど興味をもっていないことや、北の言葉が空疎であることを表出する効果もあるだろう。また、こうした手法は読者に対して、吹き出しという物質的なものが使用されていることを意識させてしまうため、作品世界からは離脱させるような効果を伴うだろう。
ちなみに、この文字を埋めつくすのは山本直樹の得意技で、いろんな場所でやっている(『レッド』はノンフィクションという体裁なので山本直樹作品らしい表現は抑えぎみだが、登場人物の顔の横に、死ぬ順番を示す数字が入っているといった表現も使用されている)。
次は『ありがとう』の一コマだ(『ありがとう』4巻p.24)。
この作品の後半からPCによる作画が全面的に取り入れられているのだが、ここでは背景の家が明らさまにコピー&ペーストになっている。マンガで背景に家の絵が描いてあればそれは家がそこにあるということを表わしている。ただどんな画一的な住宅街でも、ここまでまったく同じ家が並んでいることはありそうにないので、これは作品世界の文字通りの表現として見ると、おかしいし、異様である。背景に対する無造作な扱いといった印象も受ける。しかし、描かれているのが人工的で閉塞感のある世界なので、この表現は作品にはとてもあっている。
『BLUE』から(『BLUE』、太田出版p.18、p.34)
上記は10ページ以上あいだをあけた別のコマなのだが、ほとんど同じ構図・同じポーズの絵になっている。服装などは変わっているのだが、人物の姿勢がほぼ一緒で、コピーではなさそうなので、おそらくほぼ同じ絵を二回描いたのだろう。また、引用には入れていないが、実はこのコマを含む18-19ページと34-35ページは見開きで左右とも同じコマ割、同じ構図の反復になっている*3。
同じポーズの反復や同じコマ割りの反復は、作中の出来事としてはほとんど意味を持たないので、これは、読者に対しての表現である。状況の反復や、語り手のうんざりした気持ちを、同じコマ割り・構図の反復で表出しているといったところだろうか。読者にはこれがマンガであることを否応なく意識させられるので、一歩引いてみるような体験になるだろう*4。
この「BLUE」という短編は、登場人物の考えていることが直接語られず、表現や状況から推しはかることしかできないような作品なのだが、その反面と言っていいのか、こうした間接的な表現は多用されている。例えば、主人公の灰野くんが九谷さんという女の子に好意を持っていたことはほぼ明らかなのだが、灰野くんのストレートな感情が語られることはほぼない。一方、灰野くんが九谷さんに東京に行こうと語りかけ、二人が決定的にすれ違う場面は、コマ割り上ではこの短編のクライマックスとして描かれている。
上記のような手法を、熱いスポーツマンガや、恋愛マンガで使用してしまうと、台無しというか、チグハグな表現になってしまうだろう。山本直樹作品の場合、描かれている状況自体もアイロニーを含むものであり、醒めた登場人物が描かれるので、内容と手法が合致したものになっている。
例えば「BLUE」では、灰野くんが九谷さんに東京へ行こうと持ちかける場面で、カーラジオから山本譲二の「みちのくひとり旅」が流れ出す(p.38)。
この場面で「みちのくひとり旅」が流れるのは、いい曲だからというわけではもちろんなく、どちらかといえば、ギャグとして、雰囲気を台無しにするものとして扱われている。これは、表現のアイロニーではなく、状況のアイロニーの例であり、描かれている場面自体もアイロニーを含むものになっているというよい例だろう。