Joel Feinberg「不条理な自己実現」

Joel Feinberg, Absurd self-fulfillment - PhilPapers

Feinberg, Joel (1980). Absurd self-fulfillment. In Peter van Inwagen (ed.), Time and Cause. D. Reidel 255--281.

absurdの訳で悩むのだが「不条理」と「アホらしさ」を使いわけることにする。不条理だけだと、コミカルな要素がまったくなくなるのが厳しい。ちなみにabsurdの意味合いは論者によってかなりちがうのだが、ネーゲルは明確にコミカルな意味を念頭に置いている。

これは難しい論文で、よくわからなかったため、以下のサイトも参照した。

Summary of Joel Feinberg’s, “Absurd Self-Fulfillment”

基本的な内容は、

  1. リチャード・テイラーカミュネーゲルの「人生の不条理・アホらしさ」を巡る検討。不条理を様々に区別しつつ、批判的に検討するが、著者は何らかの意味ですべての人生が不条理であることは認めるらしい。
  2. 自己実現・自己充足の分析。すべての人生がある意味で不条理であるとしても、それでも自己実現は可能であるし、それでかまわないという主張を擁護している。

著者は、不条理を(1)不合理、(2)主観的視点と客観的視点のギャップから生じるネーゲル的アホらしさ、(3)目的の欠如pointlessness、(4)無駄に終わることfutility、(5)取るに足らないことtriviality(努力に見合わない、しょうもない結果しか生まない労働)などによって特徴づける。

カミュテイラーは、有名なシーシュポスの神話ーー神々の怒りをかったシーシュポスは岩を山の上に運び、岩が転落してまた山の上に運ぶという労働を繰り返すーーを参照し、すべての生はシーシュポスのような目的なき、バカげた繰り返しだという。人生は目的なき反復で、最後にはただ死が待っている。何をえても最後にはなくなってしまう。人間は、秩序と意味を求めるが、宇宙はそれに答えてくれず、われわれは疎外される。

ネーゲルによれば、アホらしさは視点のギャップから生じる。私たちは自分の人生を重要なものと見なさざるをえないが、宇宙的視点から見れば、それらは取るに足らない。われわれの生は、視点を変えれば、つねにどうしようもない茶番である。

著者はこれらの主張を受け入れつつも、不条理/アホらしさは相対的な問題だとしている。宇宙的視点から見れば茶番にすぎないとしても、自己実現は可能だ。著者は自己実現を、本性の発揮として捉える。例えば、シーシュポスに岩運びの才能があれば、シーシュポスはその才能を発揮し、創意工夫して、様々な形で岩を運ぶことができる。こうした場合、シーシュポスは依然としてアホらしい・不条理な人生を歩むが、その人生は自己実現の過程とも見なすことができるだろう。

著者は、不条理は必ずしもマイナスではないと捉える。論文の最後では、人間の存在の根底にちょっとしたジョークがあることは、ある意味素敵なことではないかと示唆されている。

Quentin Smith「道徳的実在論と無限の時空間は道徳的ニヒリズムを含意する」

Quentin Smith, Moral Realism and Infinite Spacetime Imply Moral Nihilism - PhilPapers

Smith, Quentin (2003). Moral Realism and Infinite Spacetime Imply Moral Nihilism. In Heather Dyke (ed.), Time and Ethics: Essays at the Intersection. Kluwer Academic Publishers 43--54.

  1. すべての経験的に可能な行為は道徳に無関係
  2. 時空間が無限の宇宙における、道徳的ニヒリズムのいくつかの帰結
    1. 人の死は生よりも価値がある
    2. 人生は無駄である
    3. 誰も生命の権利をもたない
    4. 人には内在的尊厳はない
  3. 宗教哲学における帰結
  4. 道徳的ニヒリズムを擁護する論証への反論
    1. ひとつめの反論
    2. ふたつめの反論
    3. みっつめの反論
    4. よっつめの反論
  5. ニヒリスト的生の生き方

この宇宙には無限の善があるので、われわれが何をしても何も変わらないし、道徳的に正しい行為も不正な行為もないという主張を擁護している。まず、著者は、どこかの科学記事で、最新の宇宙論では未来は無限らしいというのを見たらしく、以下の議論では未来が無限であることが前提になっている。

著者が擁護しているグローバルな道徳的実在論によれば、あらゆるものに価値がある。石にも山にも星にも空間にも価値がある。人間は、石や山や空間より価値があるかもしれないが、石や山や空間の価値は0ではない。「環境倫理が人間の倫理の拡張であるように、グローバルな道徳的実在論環境倫理の拡張である」らしい。

一方、宇宙には無限の空間と無限の石や山があり、未来は無限であるので、宇宙にはアレフ0の価値がある。

著者によれば、ある行為が道徳的に義務的であるのは、その遂行が正の価値を増やすか、正の価値の減少をさまたげるときである。ところが、残念ながらこの宇宙にはすでに無限の価値があり、今後永久に無限の価値がありつづけるので、そのような行為は存在しない。

私が人助けをしたとしよう。私の人助けによってもたらされる価値を10とすると、アレフ0+10はアレフ0なので、私の行為は1ミリも宇宙を改善しない。人助けしてもしなくても何も変わらない。反対に、暴力や殺人などによっても、宇宙に含まれる価値の総量はまったく変化しない。

この立場では、道徳的に義務的な行為は存在しないので、あらゆる行為は道徳的に許される。さらに、すべての人の人生は無駄であり、誰も生命の権利をもたず、誰も人格的尊厳をもたないなどの帰結がある。また、著者によれば、道徳的ニヒリズムが真であることから、神が存在しないことが帰結するらしい。

一応、最後に、ではどうやって生きればいいのかという話が(数行分)出てくるのだが、普段は真実は忘れて感情のままに生き、たまに冷静に反省したときだけ真実を思い出せばいいのではないかということだった。

R.M.ヘア「何も重要ではない」

Applications of Moral Philosophy

Applications of Moral Philosophy

上の本に収録されている講演。この本は日本語訳も昔『倫理と現代社会』というタイトルで出てるんだけど、入手困難で、amazonでは見つからなかった。

ヘアはこの論文(講演)をスイス人の友人の話からはじめている。ある時、ヘアの家に遊びにやってきた18才のスイス人が、家にあったカミュの『異邦人』を読んで「何も重要ではないnothing matters」と絶望しはじめたという。すわ、哲学が役に立つぞと思ったヘアは、「重要である」という語の機能は、何かに対する懸念concernを伝えることにあると伝えた。懸念はつねに誰かの懸念である。このため、何かが重要であるとか重要でないと言われるとき、私たちは、それが誰の懸念に関するものなのかをたずねなければならない。

フィクションの登場人物はともかく、みんな何かを気にかけているし、このスイス人も、何かを気にかけている。だから、何も重要ではないことなんて無いんだよと。ヘアの説得は功を奏し、友人はすっかり元気になって朝食をたくさん食べたという。

重要さに関するヘアの立場はおそらく以下のようなものだ。

  1. 端的な重要さは意味をなさない。重要なものは、つねに、誰かにとって重要なものである。
  2. 何かがxにとって重要である iff xはそれを気にかけている。

ヘアにとって、重要さとはつねに誰かにとっての重要さである。また誰かが何かを懸念しているなら、それはその人にとって必ず重要なものである。「何も重要ではない」と言いながら、さまざまなことを気にかけることは、「どこか矛盾している」。

この背景には価値についての主観説があると思われる。実際、講演の後半では、ヘアは、価値の主観説を擁護し、客観説を、まったく意味をなさない立場として退けている。

これに対するパーフィットの批判を見てみよう。On What Mattersで、パーフィットはヘアを批判して以下のように言っている。

「重要である」という語には、ヘアが理解しなかった意味がある、と私は信じる。物事は、その本質がそれらを気にかける理由を与えるという意味において、重要でありえる。Parfit2011, p.411

パーフィットは客観説を支持しているので、ヘアに厳しいのだが*1、それはそれとしてこの批判にはもっともらしい部分がある。重要さは、あくまでも対象を気にかける理由を与えるのであって、ヘアのように、気にかけることと重要さを直接結びつける必要はない。ヘアのような立場だと、合理性や規範性に訴えて、重要さについて反省するという側面が完全に無視されてしまう。

例えば、私たちは十分な情報をえていない、合理的に熟慮していないなどのために、自分にとってすら重要でないものを気にかけてしまうことがある。ヘアの立場だとその辺が全部捨てられてしまうのがちょっと。

スイス人の若者は、こんな素朴な立場に簡単に説得されず、もっとがんばってほしかった。

*1:正確に言えば、パーフィットは理由についての客観説を取っていて、価値や重要さの規範性は理由の規範性に還元されるという立場だと思う。

宣伝: 重要さの哲学と重要さの懐疑論

若手哲学フォーラムで発表するのでその宣伝。

哲学若手研究者フォーラム - 2016年度 スケジュール

7月17日11時からです。正式なタイトルは「重要であることそれ自体について: 重要さの哲学と重要さの懐疑論」です。

重要であるとはどのようなことであるのかを扱います。これを聞くと、重要であるというのがどういうことなのかわかるのでとても重要な発表です。

重要さに関する私の分析はとてもシンプルです。まず、重要さの担い手は問いです。そして問いは命題の集合です。何らかの問いが重要であるということは、問いを構成する命題が十分に大きな価値のちがいをもたらすということです。

例えば、「パーティに誰が来るのかが重要だ」という言明を考えてみましょう。この言明は、「パーティに誰が来るのか」という問いに重要さを付与しています。「パーティに誰が来るのか」という問いは、この問いの答えを構成するような命題(ないし可能性)の集合、つまり「太郎がくる」「花子がくる」などの答えの集合と見なされます。

以下の状況を考えましょう。パーティに花子が来れば最高だけど、ヒロシがきたら最悪。この場合、パーティに誰が来るのかが重要です。

命題 価値
パーティにタカシが来る 0
パーティにハナコが来る +10
パーティにヒロシが来る -8

以下のように、別に誰がきても変わらんという場合、パーティに誰が来るのかは重要ではありません。

命題 価値
パーティにタロウが来る +1
パーティにヨシオが来る +1
パーティにタカシが来る +1

私の考えでは、物や命題に重要さを帰属する場合も、問いに対する重要さの帰属が基本になります。重要な本というのは、それが出版されるかどうか、あるいは、それを読んだかどうかが重要な本です。重要な人というのは、その人がいるかどうかやその人に会ったかどうかが重要な人です*1

重要さは、人生の意味と関連して論じられてきました。後半では、人生の意味のニヒリズムとしてしばしば論じられる「何も重要ではない」という見解について、これが何を意味し、これがどのような点で問題であり、どのような議論によって正当化されるのかを見ます。

詳細には踏み込みませんが、重要さは、大きな価値のちがいをもたらすという性質なので、何も重要ではないということは、何も十分な価値のちがいをもたらさないという意味です。従って以下のいずれかが言えれば、何も重要ではないということが言えます。

  • 何も良くも、悪くもない。
  • 何も十分な価値のちがいをもたらさない。

あと、これが何で問題かというと、人生に対する真剣さを奪います。単に良いものが何もないのであれば不幸なだけですが、何も重要ではないということは、幸福でも不幸でもあまりちがいがない、別にどんな人生でも変わらないということを意味します。なので、何も重要ではないといやだなーということになります。

あとはR.M.ヘアの家に若いスイス人が遊びにきて、家に置いてあったカミュの『異邦人』を読んで、「何も重要ではない」と絶望しはじめたという愉快なエピソードなどについて話します。そんな感じで重要さについて語りあかす発表になる予定です。

*1:命題に対する重要さの帰属はもっと複雑ですが、基本には、「太郎がここにいることが重要だ」は、「太郎がここにいるかどうかが重要だ」にいくつかの意味を付け足したものになるだろうと考えています

Philip Quinn「キリスト教における人生の意味」

Philip QUinn, The meaning of life according to Christianity - PhilPapers

Quinn, Philip (2000). The meaning of life according to Christianity. In E. D. Klemke (ed.), _ The Meaning of Life _. Oxford University Press 57--64.

The Meaning of Life: A Reader

The Meaning of Life: A Reader

Klemkeのアンソロジーに入ってるやつ。

著者は人生の意味の三つのイミを区別している。

  1. 価値論的意味axiological meaning: 人生が正の価値論的意味をもつのは、ちょうど以下のときである。(i)人生が正の内在的価値をもち、(ii)人生が全体としてそれを生きる人にとって良いものである。
  2. 目的論的意味teleological meaning: 人生が正の目的論的意味をもつのは、ちょうど以下のときである。(i)人生が目的を含み、それを生きる人がその目的をトリビアルでなく、達成可能であると見なし、(ii)それらの目的は正の価値をもち、(iii)人生はそれらの目的の達成を目指し、熱意をもって遂行されるような行為を含む。
  3. 完全な意味complete meaning: 人生が正の完全な意味をもつのは、人生が正の価値論的意味と正の目的論的意味をもつちょうどそのときである。

人生そのものは物語ではないが、人生の中の出来事は物語られうる。キリスト教は歴史を重要とする宗教なので、その伝統において物語は重要な役割を果す。キリスト教の信者は、キリストの物語を模範として、人生を生きようとする。

著者はキルケゴールを引いて論じるが、キリストを模範とするということは、自らを地上におとしめ、迫害などの苦しみを受ける覚悟をもつということである。単なる崇拝者とはちがい、リアルなクリスチャンは、善をなそうとし、厳しい苦しみを覚悟しなければならない。

こうした生き方は、人生に正の目的論的意味を付与するだろう。ただし、こうした人生は苦しみに満ちたものなので、正の価値論的意味は欠如している。しかし、キリスト教は死後の復活を約束しているので、それによって価値論的意味もえられる。

さらに、キリスト教は、神の王国の到来を約束し、個々人を越えた人類全体の運命も教えてくれる。またキリスト教の宇宙観は意味の欠如したむなしいものではなく、神によるすべてのものへの愛に満ちたものである。

以上のようにキリスト教はいい感じで、人生の意味を与えてくれる。クリスチャンは、キリスト教こそ人生の意味に関する最上のストーリーを与えてくれると信じてもいいが、慎しさをもち、キリスト教内の多様な解釈や、他の宗教への寛容ももたなければならない。

Kendall Walton「想像による聴取 - 音楽は表象するか?」

Kendall Walton, Listening with imagination: Is music representational? - PhilPapers

ウォルトンの音楽論。この論文の発展版が「ソウトライティング」なので、以下と合わせて読むのがよい。

Kendall Walton「ソウトライティング - 詩と音楽における」 - うつし世はゆめ / 夜のゆめもゆめ

In Other Shoes: Music, Metaphor, Empathy, Existence

In Other Shoes: Music, Metaphor, Empathy, Existence

  1. 楽経験における想像
  2. ちがい
  3. 想像的感覚
  4. 表出は表象か?: 作品世界なきゲーム世界

絵画や小説は表象であり、何らかの光景や出来事を描く。一方、音楽はそれとはちがうと言われる。歌詞やタイトルなどはともかく、器楽曲は何も表象しないと。

しかし、改めて考えるとこれは自明とは言えない。音楽は表出的である。楽しげな楽曲や陰鬱なメロディや軽やかなリズムなどなどがある。表出は、表象の一種ではないのか?

また、表出に関する喚起説arousal thoryは近年では人気がない。楽しげな楽曲を聴けば必ず楽しくなるわけではない。多くの論者は、「楽しさ」や「悲しさ」を鑑賞者ではなく、音楽の「中」に位置づける。しかし、それって、音楽が悲しさや楽しさを表象しているということではないのか?

また、次のような問題もある。楽しさや悲しみは必ず、誰かの楽しさや悲しみだろう。しかし、楽曲に表出された楽しさや悲しみは、誰の楽しさや悲しみだろう。小説の語り手のように、音楽にも虚構の音楽的語り手がいて、楽曲はその語り手の楽しさや悲しみを伝えているのだろうか。

ウォルトンによれば、絵画が想像上の光景を見るという想像経験を与えるように、音楽は想像上の感覚を与える。楽しげな音楽を聴く人は、自分が楽しさを感じているところを想像する。もちろん、実際に楽しくなって楽しさを感じてもかまわないし、少なくとも、理想的な鑑賞経験においては、楽しさを感じているような、想像によるシミュレーションをしなければならない。

音楽作品における表出は、上記のような自己想像への指図であるとされる。合わせて、聴覚がなぜ感覚の表現に適したものなのかという議論がなされるが、この辺は非常におもしろい。

なお、ウォルトンは、フィクションにおいて、あらゆる鑑賞者に共通する作品世界と、鑑賞者の自己想像を含むゲーム世界を区別している。

例えば、ホームズ小説の場合、「ホームズとワトソンが出会う」などのように、鑑賞者と関係ない虚構的真理は作品世界に属するとされる。一方、鑑賞者は、自分がワトソンの手記を読んでるかのように想像したり、あたかも自分がホームズを尊敬するかのように想像する。後者は、鑑賞者のゲーム世界に属する。

  • 作品世界: ホームズとワトソンが出会う(と想像する)
  • ゲーム世界: 私はワトソンの手記を読んでる(と想像する)。私はホームズを尊敬する(と想像する)。

音楽作品の場合、自分が何らかの感覚を感じるという自己想像しかないため、作品世界はなく、ゲーム世界しかない。

この立場では、小説・絵画などの典型的表象芸術と、音楽のちがいは、音楽にはゲーム世界しかないということだったと解釈される。

Guy Kahane「もし何も重要でないならば」

Guy Kahane, If Nothing Matters - PhilPapers

Kahane, Guy (2016). If Nothing Matters. Noûs 50 (2):n/a-n/a.

重要なものがいっさい存在しなければ、何がどうなるのかを論じている論文。

この著者には、Our Cosmic Insignificanceというすばらしい論文があるのだが、これもおもしろかった。

at-akada.hatenablog.com

目次

  1. どのようにして、ニヒリズムが真でありえるのか
  2. ニヒリズムの説明
  3. 恐れるものはない
    1. 世界のおわり?
    2. 理由なき懸念?
  4. ニヒリズムは何のちがいももたらさないのか?
    1. ニヒリズム保守主義
    2. 本当に何も重要でないとしても、同じようにやっていくのか
    3. ニヒリズム後の道具的理性
    4. ニヒリズム後の主観的懸念
    5. ニヒリズム後の評価的信念
    6. 評価的信念と主観的懸念
    7. 主観的懸念と価値
  5. 価値なき人生
    1. 単なる動物的もがき
    2. アパシーとマヒ
    3. 死に近いもの
  6. 本当に恐れるべきものは何か

評価的ニヒリズム

著者は、何も重要でないという状態を以下の二つの状態の組み合わせと同一視している*1

道徳に関する誤謬説の支持者はしばしばこれと似たことを主張する。私たちの道徳についての語りは、道徳的価値の実在を認めるので、厳密には偽である。道徳的価値などいっさいないが、道徳は便利なフィクションである。

ここでは、この誤謬説をもっと推し進めてみよう。私たちの価値についての語りは、価値の実在を認めるので、道徳的価値に関するものであろうとなかろうと、すべて偽であると考えたらどうだろう。さらに、理由に関する語りもすべて偽であると考えたら。

ここでの問い

誤謬説の支持者は、多くの場合、価値についての信念を捨てても、われわれは以前と変わらずに生きるだろうと考える。しかしグローバルな評価的ニヒリズムの場合、これはほとんどありそうにない。あるいは、少なくとも著者はそう主張する。

まずここで問題になっているのは、評価的・規範的な問いではなく、経験的な問いである。評価的・規範的な観点について言えば、いっさいの価値がない状態は、良くも悪くもない。評価的ニヒリズムの帰結は、何も良くないし、悪くもないということだからだ。

多くの人は、何も重要ではないという事態を恐れ、懸念するが、心配する理由は何もない。心配しない理由もない。何をする理由もないのだ。すべきこともないし、すべきでないことも無い。世界の終わりであるかのようにはしゃぐ理由もないし、はしゃいではいけないという理由もない。

誤謬説の支持者は、あたかも道具的理性だけは手付かずに残るかのように「価値は依然として便利なものだ」と言うが、グローバルな評価的ニヒリズムが真であれば、これもおかしい。価値ある目的もいっさいないのだから、道具的理性も消えてなくなる。より良い手段を採用する理由ももはや無い。道徳に社会秩序を維持する機能があっても、社会秩序も重要ではない。

一方、著者が問うているのは、グローバルな評価的ニヒリズムを信じることが因果的に何をもたらすのかということだ。評価的ニヒリズムを全面的に信じるようになったとき、私たちは他に何を信じ、どんな生活を送るのだろう。

ニヒリズムの帰結

著者によれば、以下の帰結がもっともらしい。

  • 評価的信念の喪失
  • 主観的懸念の喪失

まず、すべての評価的信念は誤っているという信念と、あれやこれやの事柄には価値があるという信念は相性が悪そうだ。もちろん矛盾した信念を持つことも可能だろうが、少なくとも、「何も価値がない」と信じる人が、友情や名誉に高い価値を付与する事例は多くないだろう。このため、著者は評価的信念の喪失をありそうな帰結としてあげる。

さらに、評価的信念と主観的懸念は、おそらくある程度は相関するだろうと想定される。友情や名誉に価値を置かない人は、友情や名誉を気にかけることも少ないだろう。これも、必然的とは言えないかもしれないが、両者がまったく相関しないという想定は奇妙なものだ。

もちろん、評価的信念のいっさいを失ったあとでさえ、私たちはおそらく目の前の苦痛を避けるだろう。身体的快をめざすこともあるかもしれない。それらの反応はほとんど自動的なものだ。しかし、長期的な計画にはもはや取り組まないだろう。極端な話、ベッドから出る理由がもはやないと信じながら、あなたはベッドから出るだろうか? 私には、その自信はない。評価的ニヒリズムを信じるようになったあと、私たちには、動物のような生活だけが残されるのかもしれない。

パスカル的マトリクス

何も重要でない 何か重要である
何か重要であると信じる -
何も重要でないと信じる - ×

著者は上記のようなパスカル風の表に訴えて、評価的ニヒリズムを信じない方が合理的であると論じている。もしニヒリズムが真であれば、何かが重要であると誤って信じていても、何も重要でないと正しく信じていても、何のちがいもない。正しければ良いとは言えないわけだし、どちらにしても、良くも悪くもない(上の表の「-」の部分)。

一方、私たちの価値に関する信念が万が一真であれば、ニヒリズムを信じることは大変な損失をもたらす。著者の議論が正しければ、私たちは皆無気力になってしまう。一方、価値に関する信念がおおむね真であれば、私たちは多くのものを得るだろう。

つまり、重要なものがあるという可能性がわずかでもあれば、ニヒリズムを信じない方が得だ。ニヒリズムを信じて得るものは何もないが、ニヒリズムを信じなければ得るものがある。

もちろんこの議論には、すでにニヒリズムを信じている人を説得する力はないわけだが。迷ってるなら、価値の存在に賭けた方が良いとは言えるかもしれない。

*1:本当はこれには問題があって、価値はあるが重要なものはない状態や、理由はあるが重要なものがない状態もあると思うが