Matthew Strohl「アートと苦痛を与える感情」

Strohl, Matthew (2018). Art and painful emotion. Philosophy Compass 14 (1):e12558.

いわゆる「苦痛を与えるアートのパラドックス」に関するPhilosophy Compassサーベイ論文を読んだ。サーベイなのでそれほど期待せずに読んだのだが、思ったより全然おもしろかったので嬉しい驚きがあった。

「苦痛を与えるアートのパラドックス」とは、以下のような苦痛をもたらす作品に関する一連のパラドックスの総称だ。人はなぜわざわざ怖い思いをしてホラーを求めるのか、あるいは、どうしてわざわざ悲劇に接して悲しくなろうとするのか。

ホラーのパラドックスに関しては、『ホラーの哲学』を読んでください。めでたく重刷が決まりました(三刷目)。

このリストはいくらでも増やすことができ、どうしてサスペンスを求めるのかとか、どうしてわざわざジェットコースターに乗るのかという疑問をここに付け足すこともできるだろう。サーベイの中で、ストロールは、ホロコーストのドキュメンタリーで残虐な行為に動揺することや、ノイズミュージックのような不快としか思えない音楽の例をあげている*1。(ポピュラーアートを含め)アートの中では、苦痛をもたらす要素が肯定的に評価されることはありふれた現象なのだ。

だが、個人的には、これらの問題を、「苦痛を与えるアートのパラドックス」としてまとめることにはあまり意味を見出せていなかった。結局のところホラーのパラドックスという問題に答えるには、『ホラーの哲学』の中でキャロルがそうしているように、ホラーというジャンルの魅力を答えるしかない。そして、それはおそらく悲劇の魅力とはまったく別のものになるだろう。ノイズミュージックの魅力とホラーの魅力にそれほど共通点があるとも思えないし、あえて無理やり共通点をあげても、「人間は変わったものが好きだ」くらいの話にしかならないだろう。

したがって、抽象的にまとめても有益なことは何も見えてこないのではないか、と思っていた。

だが、ストロールのこのサーベイはそれとは違った視点を教えてくれた。ストロール自身、「苦痛を与えるアートのパラドックス」に関しては、多元的解決(つまりケースバイケースの解決)が望ましいとしている。しかし、統一的解決が不可能だとしても、ある程度包括的なフレームワークを立てることによって、さまざまな事例を横断的に比較することができる。そのためのフレームワークの提案まで本論の中である程度示されている。

近年の展開

古い文献では、苦痛をもたらすアートのパラドックスの解決は、転換説と補償説のようなかたちで区別されることが多い*2。両者の違いは、前者が苦痛の存在を否定する立場であるのに対し、後者は存在を認めているという点だ。

  • 転換説型理論: 鑑賞者は実際には苦痛を感じていない。悲しみや恐怖のようなマイナス感情は、なんらかの理由でプラスの感情に転換されている。
  • 補償説型理論: 鑑賞者は苦痛も感じているが、鑑賞時になんらかの快も感じている。鑑賞者が感じる苦痛は、快によって埋め合わせられている。

ところが近年は、これにくわえて第三の立場として、「強い背反説」と呼ばれる説が登場している。このサーベイの著者であるストロールもこの立場の支持者だ。

  • 強い背反説型理論: 鑑賞者は苦痛と快の両方を感じているが、その快苦を伴う経験全体を肯定的に受容している。

従来の補償説が快による苦の「埋め合わせ」という提案だったのに対し、強い背反説では、埋め合わせを問題にしていない。少し難しい立場なので、まず、イメージしやすくするために日常的な発想に近づけて説明しよう。私たちはよく「苦労もまた旅行の楽しみ」「苦痛もスパイスになる」といった考え方をすることがある。つまり、一連の経験の中には、快の要素も苦の要素も含まれているが、その両方が存在することによって経験全体がリッチになるという発想だ。強い背反説の発想はこれに近い。苦痛をもたらすアートの場合、作品の鑑賞経験の中に、苦と快の両方が含まれることによって、鑑賞経験がリッチになると捉えるのだ。

この鑑賞経験全体がリッチになるという発想には、いくつかの解釈がありえる。ひとつには「経験全体に高階の快を見出している」という解釈が考えられるし、もうひとつには「快以外の価値を見出している」という風にも考えられる。前者の場合は、強い快の背反説という立場になり、後者の場合は、リッチな経験説という立場になる。

この立場(特に、強い快の背反説)の難点は、苦痛に快を覚えるというある種パラドキシカルな現象を認めなければならない点にある。この点についてはさまざまな論者がさまざまな提案を行なっているが、ここで詳しくは紹介しない(単なる身体的快ではなく、「態度的快」のような特殊な快の概念を導入するものが多い)。

もうひとつ、強い背反型理論には心理学からのサポートがある。メニングハウスらが提案する距離づけ-受容モデルだ(下記図を参照)。

Menninghaus, W., Wagner, V., Hanich, J., Wassiliwizky, E., Jacobsen, T., & Koelsch, S. (2017a). The distancing‐embracing model of the enjoyment of negative emotions in art reception. Behavioral and Brain Sciences, 40, 1–15.

"論文からの引用。図の左側にDistancing Factorとしていくつかの要素、右側にEmbracing Factorとしていくつかの要素が並べられている。"

このモデルは、強い背反説の具体的なメカニズムの提案と見なすことができる。このモデルでは、苦痛をもたらすアートの鑑賞を、負の感情から距離をとるための距離づけプロセスと、負の感情を含む作品全体の経験を肯定的に受け入れる受容プロセスという二種類のプロセスの結果と見なす。ひとつの典型的な事例を考えると、例えば、ホラー作品がフィクションであるという認識によって、恐怖の感情から距離をとることが可能になり、表現の巧みさや、快苦の混合を認識することによって、作品全体の鑑賞に快を見出すという流れだ。

このモデルの長所は、これが包括的なモデルになっていることにある。距離づけを可能にする要因、受容を可能にする要因はそれぞれ複数あるとされる。つまり、「ホラーの場合は、こういう要素が距離づけ要因に含まれる」「ノイズミュージックの場合はこうだ」という形で、理論を整理するフレームワークとしても使うことができるのだ*3

トロールの提案は、このモデルをフレームワークとして使いつつ、ケースバイケースで転換説や補償説も組み合わせて考えればいいのではないかというものだ。これはかなりもっともらしい提案だと思った。

*1:サーベイでは、この問いのいろいろなバージョンを紹介している。その中には、どうして難しいゲームをやるのか、どうして退屈な実験映画を見るのか、どうしてできの悪いB級作品を望んで見るのかなど、かなりバラエティに富んだ研究があっておもしろい。ちなみに、ゲームの例は、ユールの著作でこれには翻訳もある。以前ブログで紹介したこともある。

*2:以下の説明が「なんらかの理由で」とか曖昧になっているのは、この「転換説型理論」「補償説型理論」というのは、具体的な理論ではなく、理論を分類するためのテンプレにすぎないからだ。この「なんらかの理由で」という部分に、「カタルシス」のような具体的なメカニズムを代入することで、具体的な理論になるイメージだと思ってほしい。

*3:元々の論文では、距離づけ要因3つ、受容要因5つをあげているが、ストロールも指摘しているように、ここをさらに増やしてはいけないという理由は特にないように思われる。

当為についてさらに

前回エントリ

道徳的判断は程度を認めない0/1の判断なのか - うつし世はゆめ / 夜のゆめもゆめ

Xで宣伝するのを止めてしまったら、いまひとつ反応がなくてつまらんなと思ったけど、なぜか逆説的にブログを書く気がわいてきた。

前回の記事は、「倫理学ではこういう問題が扱われてきたよね」という話しかしていないのだが、はてブで謎の反応がいくつかあってうけた。タイトルが扇情的でよくなかったかもしれない(なので、非専門家は誰も興味を持たなさそうな「当為」をタイトルに据えてみた)。それはどうでもいいのだが、いずれにしても補足した方がよかったのは、「道徳に関して、ことの軽重・大小をいっさい区別できない」という主張はしていないということだ。「right/wrongは定言的述語である」という主張から、そんな結論は出てこないと思うのだが、明示的にそう言った方がより良かった。

まず一般論として「リンゴ」が定言的概念だとしても、大きなリンゴと小さなリンゴの区別ができなくなるわけではない。right/wrongに関しても、重大なあやまちと小さなあやまちの区別はできるだろう。しかしを大きなリンゴを「よりリンゴであるappler?」と呼んだり、重大なあやまちを「よりあやまちであるwronger」と呼ぶのは文法的におかしい。それだけの話だ。重大なあやまちと軽微なあやまちを区別したければ、単に「重大/軽微」のような別の概念を導入すればいい。ひとつの概念に何でもつめこむことはない*1

じゃあポイントはどこにあるのかというと、後半に書いた価値と当為の区別にある。価値評価をする概念と、当為に関する概念は役割が違うよというのが話のポイントだ。

当為とは何だったか。直接的には「すべき/すべきでない」のことを指す。前回は以下のように書いた。

もっと直観的な言い方をすると、当為に関する判断というのは、何らかのパラメーターが上がったとか下がったとかという評価的な話ではなく、パラメーターの決定が終ったあとの話をしていて、そこからどうやって「すべきこと/すべきでないこと」を決定するかについて述べているのである

個人的にはこの辺の話にかなり関心がある。関連する論文を紹介すると、セリム・バーカーという人が、当為に関して倫理学の領域と認識論の領域を比較する論文を書いている。

Selim Berker, Epistemic Teleology and the Separateness of Propositions - PhilPapers

バーカーによれば、認識論においても、倫理学における帰結主義に相当する立場を考えることができる。これもいろんなバリエーションがあるが、ざっくり飛ばして紹介すると、例えば「真である確率を最大化するような信念を形成すべきである」という立場は、認識論における最大化説の対応物になる。これは行為ではなく、信念に関する当為の理論だ。だが、倫理学はともかく、認識論における最大化説(あるいは最大化説を含む「目的論的」立場全般)はおかしいというのがバーカーの主張だ。

ちなみに、これに関係する論文を以前書いたことがある。この論文のモチベーションのひとつは、倫理学・認識論・美学を横断して比較することだ。この三分野すべてについてある程度詳しい人もあまりいなさそうなので、そういう話はやる意義があるかなと。ただしこの論文では当為の話はほとんどできていない。

<研究論文(原著論文)>スキャンロンの価値の反目的論 | CiNii Research

なお、倫理学、認識論とは違って、美学では当為の問題はあまり議論されてこなかった。しかし近年の美的理由に関する議論は、当為にも関わるものであることは明らかなので、この辺の概念的区分に関心をもっている。そういったわけで、これはひとつ前の記事にも関係する話ではある。

ロペス、ナナイ、リグル『なぜ美を気にかけるのか:感性的生活からの哲学入門』 - うつし世はゆめ / 夜のゆめもゆめ

宣言することで自己を拘束する効果を狙って言うが、倫理学・認識論・美学を横断する「理由の哲学入門」みたいなものをそのうち書きたい気持ちがなくもない。

*1:一方で、日本語にはright/wrongに近い語がないので日本語話者にとって、この概念は理解しづらいのではないか、という推測は私の中でより強まることになった。

ロペス、ナナイ、リグル『なぜ美を気にかけるのか:感性的生活からの哲学入門』

遅くなってしまったが、訳者の森さんから頂いた『なぜ美を気にかけるのか:感性的生活からの哲学入門』の感想を書いておく。

【翻訳が出ました】ロペス、ナナイ、リグル『なぜ美を気にかけるのか:感性的生活からの哲学入門』 - 昆虫亀

本書は、ドミニク・ロペス、ベンス・ナナイ、ニック・リグルという三人の気鋭の美学者による初学者向けの美学の本だ。美容の本みたいなタイトルだが、美容も含め、どうして楽器を弾いたりおしゃれをしたり花を愛でたりするのか——つまり、そもそもなぜ美的なものに関わるのか——についての本である。本書の言葉で言えば、どのように生きるべきかという「ソクラテスの問い」に関連して、美が良き人生にどう貢献するのかという問題を扱っている。

個々の章には個別にいろいろ言いたいことはあるのだが、あまり細かい話をするより背景を紹介した方がいいなと思ったので背景を紹介する。

背景: 美的理由の問題

(色、形、歴史的背景…)→美的判断に理由を与える→「この絵は美しい」→美的価値が理由を与える→「この絵を買う/観に行く/保存する/…」

手前味噌だが、上の図は、昔、美的理由について発表したときに使ったものだ。この図は整理のために、なかなか良いと思っている。

この図は、美的判断を中心において、左側が美的判断の理由(根拠と言ってもいい)、右側は美的判断で帰属される美的価値が他の行為の理由になるという構図になっている。

古典的な美学で議論されてきたのは図の左側にかたよっている。つまり、美的判断にはいかなる根拠があるのか、それはどこまで客観的なのか、といった問題ばかりが議論されてきた。

一方、本書の主題であり、近年「美的理由」「美的価値の規範的問題」というラベルで議論されてきたのは図の右側に関わる問題だ。つまり、わたしたちの多くは何かが美的価値をもつということを、その何かを見る理由、欲しがる理由、保存する理由……etc.などと見なしているようなのだが、それはなぜ?という問題だ。こ「なぜ?」というのは、その背景にある生物学的メカニズムなどを問うているわけではなく、それはなぜ正当なことなのかという規範的問題を問うている。

本書のタイトルにある「美を気にかける」は、わたしなりの言葉で言えば、〈何かが美的価値をもつことを、それを見たり欲がったりする正当な理由と見なす〉という態度に他ならない。それに対し、それはなぜ正当な理由なのか?と問うのが規範的問題だ。この問題の答えは、「なぜ人生の一部を美に向けるべきなのか」というソクラテスの問いにも結びつく。

本書でも触れられているように、この問題に対する古典的回答は、美的快楽主義と呼ばれる立場だ。美的快楽主義によれば、美的価値あるものは美的経験をもたらし、美的経験は快を与える。上の問いに対する美的快楽主義者の典型的な回答は次のようなものだ——「どうして美的価値を持つものを見に行くのか?」「そうすれば快がえられるから」。

一方、近年の議論の盛り上がりは、美的快楽説への批判からはじまっている。本書の多くの部分も、美的快楽主義への批判を含んでいる。

近年の議論の展開

美的快楽説と、その批判者の立場の違いを「受動から能動」「個人主義から集合主義へ」という二点にわけて説明しよう。

受動から能動へ

近年になって美的理由を巡る議論が盛り上がったのは、ロペスのBeing for Beautyという著作の出版がきっかけだ。『なぜ美を気にかけるのか』の三章は、このロペスの著作を元にした章だが、圧縮されすぎていて、よくわからない人の方が多いのではないかと思う。

そこで私なりにロペス説のポイントを紹介してみよう。わたしが考えるロペス説のポイントのひとつは能動性だ。美的快楽主義は、美的なものに関わる人々を、受動的に快楽を摂取する「受益者」「消費者」と見なす立場だ。一方、ロペス説では、行為者は、ゲームやスポーツのプレイヤーのような存在になる。制作者や、キュレーター、保存家といったプロフェッショナルはもちろん、わたしたち全員がプレイヤーとして評価される側なのだ。ゲームの比喩で言えば、わたしたちがプレイしているのは、〈美的価値に正しく反応するゲーム〉だ。プロのサッカー選手が素晴しいプレイを目指すのと同じように、私たちは鑑賞者として、制作者として、保存者、収集者、キュレーターとして、そのゲームにおける素晴しいプレイ(達成)を目指している。

これは、美的快楽主義と比較して、とても大きな変化だ。個人的にはとてもおもしろい理論だと思うが、発想がユニークすぎてわかりにくいかもしれない。

『なぜ美を気にかけるのか』の一章では、ロペスではなく、ナナイが美的経験の「達成」の側面を強調している。ナナイの立場は、快楽主義に近いが、達成という能動的側面を強調する点で、部分的にロペスの立場にも近づいていると言えるだろう。

個人主義から集合主義へ

美的快楽主義は、個人の快楽に訴えて説明する点で個人主義的な立場だ。一方、ナナイは美的経験の共有、リグルは共同体、ロペスは社会的側面を強調することで、そこから一歩離脱している。個人主義ではなく集合主義をとるという点で、三者のあいだに対立点はないようだ。

一方、美的快楽主義に人気がある背景のひとつは、その個人主義的側面にある気がするので、そこはもう少し議論があってもよかったかもしれないと思う。例えば、集合主義の弊害(他人と同調するばかりでまともに美的判断できなくなるとか)にももっともな部分があるので、そこに答えるような議論があるともっと良かったと思う。これは特にリグルのような、共同体の価値を強調する論者に答えてほしいと思う(リグルのほかの著作はあまり読んでいないので、どこかで答えてたらすいません)。

道徳的判断は程度を認めない0/1の判断なのか

人と話していて、道徳的判断って、基本的には程度を認めない0/1の判断ですよね……と言ったら意外と理解されなかったので、もしかしてこれってあまり理解されていないことなのか?と思って、ブログ記事を書くことにした*1。基本的に、倫理学に詳しい人なら知っているような教科書的な内容なので、目新しいことはない。ただ、このトピックについて知らない人が多いのであれば意義はあるのかもしれない。

0/1とは何か。まず「暑い」「寒い」「痛い」などは0/1の述語ではない。これらの述語は、比較形で用いることができ、程度を示す副詞と一緒に使うことが意味をなす単語だ。「少し暑い」「かなり暑い」「〔こちらの方が〕より暑い」などと言うことができる。一方「リンゴである」「知っている」「正円である」などは0/1の述語だ。これらの述語は比較形を持たないし、程度の副詞をつけても意味をなさない。あるものはリンゴであるか、リンゴでないかいずれかであり、「少しリンゴである」「かなりリンゴである」「よりリンゴである」などの表現は意味をなさない。言語哲学では、前者のような述語は「段階的gradable」、後者のような述語は「定言的categorical」と呼ばれることがある。この用語を使えば、私の主張は、「道徳的判断は基本的には定言的な判断である」と言い換えることができる。

ここで急いで付け加えなければならないが、わたしは「基本的には」というただし書きをつけている。これが意味しているのは「正確には、道徳的判断に含まれうるあらゆる判断が定言的であるわけではない」ということだ。主張をもっと正確に言い換えると以下のようになる。

  1. 狭義の道徳的判断は、right/wrongに関わる判断である。もっと言えば狭義の道徳的判断は「あれこれはrightである、あれこれはwrongである」という当為に関わる判断deontic judgementである。
  2. "right"/"wrong"は、定言的な述語である。

つまり、わたしは、狭義の道徳的判断以外の、広義の道徳的判断の中に、段階的な判断が含まれることは否定していない。例えば、バーナード・ウィリアムズが厚い概念と呼んだもの──立派である、卑怯である、勇敢であるなど──の多くは、段階的であるだろう。そして厚い概念を用いた道徳的判断というのは確かにあるし、それを否定するつもりも特にない。だが、それはここでいう広義の道徳的判断である。

1の敷衍と擁護

1の主張をもう少し敷衍しよう。ここには"right", "wrong"とやむをえず英語のまま書いた単語が含まれている。英語のまま書いたのは、これが訳しづらい単語だからだ。定訳は「正」「不正」であるが、「正」「不正」と訳しても、いずれにしてもわかりにくいのでもう少し説明しよう。

わたしの日本語感覚だと、英語の"wrong"にもっともニュアンスが近いのは、日本語で謝罪するときなどに「間違ったことをしました」と言う場合の「間違ったこと」だ。反対に"right"にもっとも近いのは、「きみは正しいことをしたんだ」と言う場合の「正しいこと」だ。かといって「正しい」「間違っている」と訳すと、日本語の「正しい」「間違い」には、「正解」「不正解」という別の意味があるので、それはそれで混乱をまねくことになってしまう。「道徳的」をつけることにして、「道徳的正しさ」「道徳的あやまち」くらいが誤解の可能性が少ないと思うので、以下はそれで統一する。「道徳的正しさ」「道徳的あやまち」の定義じみたことを中立的に述べるのは難しいので例示だけしておこう。一般に「正しいこと」に含まれるのは人助け、正直に言うこと、人を公正に扱うことなどだろう。反対に「あやまち」に含まれるのは泥棒、嘘、差別などである。

わたし自身は1と2は基本的にあまり疑問の余地のない事実ではないかと思っている。特に1に関しては、もちろん、道徳には広大な領野があるが、少なくとも20世紀以降の倫理学は基本的に道徳的正しさ/道徳的あやまちを中心に議論してきたはずだという程度にマイルドな表現に変えればただの事実だろう(わたしが言いたいことはその程度である)。

例えば、倫理学の教科書を開くと、基本的には功利主義(ないし帰結主義)対義務論という構図で話が進められることが多い。そしてその構図で争われていたのは、どちらの理論が道徳的正しさ/道徳的過ちという事象をうまく捉えられるかという問題であったはずだ。

ここで権威に頼るが、スタンフォード哲学事典の「帰結主義」に関するエントリの冒頭では、帰結主義にはさまざまなバリエーションがあるものの、代表的なのは「行為の道徳的正しさに関する帰結主義である」と述べられている(強調引用者)。

一応義務論の方にも触れる。義務論の方がまとまりがなくて扱いづらいが、義務論者の多くは、道徳的規範に従うことは道徳的に正しく、規範に反することは道徳的にあやまっていると捉える。やはりスタンフォード哲学事典の「義務論的倫理」のエントリから引く。「このような〔代表的〕義務論者にとって、ある選択を正しくするものは、それが道徳的規範に従っていることである」(強調引用者)。ここでも義務論が基本的に「正しさ」に関わる理論であることはほぼ前提されている。

2の敷衍と擁護

2については、英語の"right"/"wrong"が定言的な述語であること、さらに"right"/"wrong"の分析も、基本的に両者を定言的なものとして扱っていることを指摘すれば十分だろう。前者について。英語の"right"/"wrong"には厳密に言えば比較形があるらしいが、ほぼ使われないし、これが使われているのを見たことがある人もほとんどいないはずだ*2。辞書を見てほしい。

後者について。帰結主義も義務論も、基本的にright/wrongに度合いを認めていない。代表的な帰結主義として知られる最大化説を例にあげよう。行為の道徳的正しさに関する最大化型帰結主義は、「行為aが道徳的に正しい = 行為aは最善の帰結をもたらす」と捉える立場である。そしてある行為が最善の帰結をもたらすかどうかは0/1であり、そこに程度の概念は適用できない。帰結主義は度合いを許すのではないか?という誤解はたまに見られるものであるようだが、基本的に古典的な帰結主義は度合いを認めていない。帰結主義が度合いを認めるというのは、善goodが段階的概念であることから来る誤解である。最善bestは段階的概念ではない。帰結主義は正を善に還元する立場ではあるが、その還元の仕方は程度の幅を認めるようなものではないのである。

ただし、帰結主義の特殊なバリエーションのひとつとして、正しさやあやまちに度合いを許す帰結主義を提唱している人はいるらしい。Neil SinhababuのScalar consequentialism the right wayはまさにそのような提案をしている論文だ(ちゃんと読んだわけではない)。ただし、これはかなり特殊な立場であり、シンハバブ自身も英語の用法から外れることは認めている。

義務論が度合いを許すという誤解をしている人はほぼ存在しないと思うが、一応説明しよう。多くの義務論者にとって、ある行為が正しいということは、それが道徳的規範に従うということである。ある行為が道徳的規範に従うかどうかは──少なくともごく普通のルールのようなものを考えれば──0/1である。さらに言えば、多くの義務論者は、道徳的正しさは義務を含意し、道徳的あやまちは禁止を含意すると考える。義務や禁止はもちろん0/1の概念である。ちょっと禁止、かなり禁止などは存在しない*3

もう一声説明

以上で説明すべきことはだいたい説明したのだが、これだけだと多分まだ「正しさ/あやまち」がどういう概念であるのかピンとこない人が多いかもしれない。なので、ちょっとだけ論争的なポイントにも踏み込んで、もう少し積極的な規定を述べる。「正しさ/あやまち」というのは、価値評価ではなく、当為(すべきである/すべきでない)に関わる概念なのである。「その行為は正しい」というのは「その行為はすべきことですよ」という含意をもち、「その行為はあやまっている」ということは「その行為はすべきでないことですよ」という含意をもつ。専門用語では、これは「評価的evaluativeではなく、義務的deonticである」と表現されたりする。もっと直観的な言い方をすると、当為に関する判断というのは、何らかのパラメーターが上がったとか下がったとかという評価的な話ではなく、パラメーターの決定が終ったあとの話をしていて、そこからどうやって「すべきこと/すべきでないこと」を決定するかについて述べているのである(最大化説はこの一番わかりやすい例だろう)。おそらく誤解している人は、グッド/バッドと正しい/あやまちを混同していて、正しい/あやまちも評価的概念だと考えてしまっているのではないかと思う。

もっとざっくり書くと、どうも「道徳的価値」というパラメーターがあって、倫理学は、そのパラメーターの上下について話しているというイメージをもっている人がそれなりにいるようなのだ。つまり、美学が美的価値について語る分野であるように、倫理学は道徳的価値について語る分野である、と。しかし、そのイメージはちょっとおかしい*4倫理学の大半はむしろ価値の裁定が終わったあとの話をしているのである。

また、これは自戒を含めて書くのだが、特に倫理学を専門としていない哲学者などがふわっと「道徳的価値」のような言葉を使うことがあり、それが正確に何を意味しているのかわからないということがあると思う。ちなみに美学ではよく出てくる。一応わたし自身はそういう表現を使う場合は、前述のウィリアムズの厚い概念や、moral worth などを念頭に置いているが、正直何を意図してこの表現を使っているのかよくわからない事例はかなりあると思う。

また誤解する理由はわかるような気がしていて、おそらく日本語では、グッド/バッドと正しさ/あやまちの区別が曖昧であることにひとつの原因があるのではないか、と思う(これはright/wrong訳しづらい問題とも関係する)。例えば日本語で「悪いこと」と言った場合、それがバッドなことなのか、あやまちなのかはよくわからない。「やってはいけないこと」というニュアンスであればあやまちだろうが、「あの人に悪いことをした」という用法の場合はバッドの方だろう。「善悪」という用語も正邪みたいな意味で使われることもあるし。

*1:ちなみに、特定の誰かひとりを念頭に置いているわけではなく、何度かそういうことがあった。

*2:ちなみにrightの比較形はmore rightであり、wrongの比較形はwrongerらしい。知らなかった。

*3:一方、帰結主義者は義務と禁止についてどのような立場を取るのか。これはちょっと一口では説明できないが、先述のスタンフォード哲学事典の6節を読んでもらえば雰囲気はわかると思う。

*4:「そういうことやっている」という話なら問題はないと思うけれど。

R. Jay Wallace『モラル・ネクサス』

Wallace, R. Jay (2019). The Moral Nexus. Princeton University Press.

R・ジェイ・ウォレスの『モラル・ネクサス』という本を読書会で読みはじめた。タイトルは『道徳的紐帯』『道徳的結びつき』とでも訳すべきだろうか。

たまにはブログを書こうと思ったのと、本書は、日本でほとんど知名度がないが、もっと知られてもいいなと思ったので紹介する(まだ二章の途中くらいまでしか読んでいない)。

本書は道徳に関する関係的アプローチと呼ばれる理論を提唱・擁護・ブラッシュアップする本だ。

道徳に関する関係的アプローチというのは耳慣れない言葉かもしれないが、P・F・ストローソンが「自由と怒り」で提示した反応的態度説が最も近い。近いというか、ストローソンは関係的アプローチの一種に含まれるだろう。他に似た立場をとる論者としてはT・M・スキャンロン、スティーヴン・ダーウォルなどがいる(ダーウォルに関しては微妙に立場が違うらしく、ウォレスはダーウォルを批判しているが)。

関係的アプローチの基本的発想は「道徳は人と人との結びつきに基づく」という(当たり前の)洞察だ。もう少し具体化しよう。例えば、私があなたと約束し、自分の都合で約束を破ってしまったとしよう。このとき、私はあなたに対して〈負い目〉があり、あなたには私に〈要求する権利〉がある。

図にすると以下のような感じだ。ウォレスによれば、典型的に道徳を支えるのはこのような〈負い目がある〉型状況に見られるタイプの関係である。

人A  ----請求権claim -------> 人B
人A  <---義務obligation---- 人B

道徳と義務

二章では、従来のアプローチが道徳における義務・禁止の側面をうまく扱えていないという問題が提起される。多くの場合、私たちにとって道徳は「やってはならないこと」「しなければならないこと」に関する命令──つまり義務や禁止──として感じられる。

にもかかわらず、従来のアプローチはこの側面を扱えていない。例えば、功利主義では、道徳的不正は単なる〈最善でない選択肢〉と同一視される。しかし〈最善でない選択肢〉は、「やらない方がいいこと」ではあっても「やってはならないこと」には当たらないだろう。つまり、功利主義の立場では、なぜ道徳が「やってはならない」という強い命令として理解されるのかが、謎になってしまう。

こうした問題は、宗教道徳には存在しない。例えば、キリスト教道徳では、道徳は神の命令として理解され、道徳的規則に反することは、神の命令に背くことである。このアプローチでは、道徳的不正を「やってはならないこと」として自然に理解できる。

問題は、神の存在を前提しない世俗の道徳理論によって、いかにしてこの〈道徳の中の義務の側面〉を理解するか、である。これはアンスコムが「現代道徳哲学」という古典的論文で提起した問題だ。

ウォレスの提案はもちろん「そこで関係的アプローチですよ」というものだ。

ここまでしか読んでいないので、このざっくりした紹介もここで終わる。

感想

私自身は、道徳に関してはT・M・スキャンロンやウォレスの立場に魅力を感じている。何がいいのかというと、これらの立場は、道徳というものが本来的に、前近代的でドロドロした危険で危いものであることをうまく捉えているからだ。もちろん、スキャンロンもウォレスも表面上は、道徳は悪いものだとは言っておらず、きちんと理性に基づいて道徳を使うことが大事だと主張していると思う。

とはいえ、スキャンロンやウォレスが理解する道徳は、時に共同体からの排除(村八分)などを伴う危なっかしいものだ。そして私の理解では、道徳というのはまさにそのような性格をもったものなので、その危険を踏まえた上で運用した方が良いのである。

ノエル・キャロル『ホラーの哲学』の翻訳が出ます……出ました!

あれもこれも紹介したいと思っているうちに発売日をすぎてしまった。何も書かないのもあれだなと思ったので、せめてこれまで書いたエントリのまとめなどあげておきます。余裕があればまた紹介記事も投稿します。

また、『ホラーの哲学』の序が無料公開されました。購入を迷っている方はこちらも参考にどうぞ。

www.kaminotane.com

紹介の補足

反応などを見ていて、訳者解説などでもっと強調しておけば良かったなーと思うこともいろいろあるので以下断片的に書いておきます。

  • 『ホラーの哲学』は基本的に超自然的ホラーだけをホラーに含めています。オバケ中心のホラー観です*1。これは当然文句がある人はいると思うんですが、個人的には、あまりどっちが正解という話ではないとも思っています。ひとつのジャンルには無数の隣接ジャンルがあって、隣接ジャンルのどこにジャンルの境界線を引くかというのは、もう何というか、取り決めの問題かなと思います(おそらくキャロルもそれは認めていて、邦訳p.88周辺でその話をしています)。少なくとも、「オバケが出てくる話」と「ヒトコワ」は、ホラーの中でもある程度別ジャンルというのは一応合意されていることかなと思うので、「確かに、いわゆる「ホラー」という用語にはヒトコワも含まれることがあるかもしれない。だが、本書で扱う(扱える)のは、超自然的ホラーだけです」と宣言してそれで終わりにしてもいいような話かなと思っています。この辺は戸田山『恐怖の哲学』も話がすれちがっていると思っていて、例えば戸田山は、キャロルが明示的にホラーではないとしている『ミザリー』を、なぜかキャロルに対する反例としてあげていたりします*2
  • ホラーというと映画のイメージが強い人も多いと思いますが、『ホラーの哲学』はかなりの部分ホラー小説を扱っています(もっと言えば、多分なるべく多くのメディアに触れようとしているので、ホラー演劇などについても随所で触れています)。そしてひょっとすると、ホラー映画好きの人よりも、ホラー小説をよく読む人の方が、本書に対する納得感は高いかもしれません。例えば、ホラーの中心に、モンスター/オバケを置くのも、ホラー小説だとそれほど違和感はないでしょうが、映画を念頭に置くと、スラッシャージャンルの扱いの薄さが不満かもしれません。もっと言えば、本書は、スティーヴン・キングが古典モンスターを次々復活させていくのを横目で見ながらそれと同時代に書かれているわけで、ゴシック小説からモダンホラーの流れを頭の片隅に置いておくと、腑に落ちるストーリーになっているかもしれません。

本書に出てこないホラー作品の紹介コーナー

番外篇として、本書には出てこないが、わたしが好きな怖い話を紹介します(毎回作品紹介を書くのが若干ハードルをあげているせいもある)。元の話を投稿している余寒さんは民俗系の怪談を得意としている方ですが、たまーにコズミックホラー系の怪談が出てくることがあって、それがめちゃくちゃ好きです。あと、これは異常論文怪談でもあるので異常論文好きの方もぜひ。

www.youtube.com

*1:キャロルの元々の表現は「モンスター」なんですが、日本語には、超自然的なもの全般を包括できる「オバケ」という便利な単語があり、おそらく多くの日本人にとっては「モンスター」というより「オバケ」と表現した方が通じやすいのではないかと思うようになったので、最近「オバケ」を使うようにしています。

*2:キャロルが『ミザリー』をホラーから除外している箇所は邦訳p.286。戸田山がホラーに含めている箇所は『恐怖の哲学』p.328。

ノエル・キャロル『ホラーの哲学』の翻訳が出ます(6) - 関連書の紹介

第一回 第二回 第三回 第四回 第五回

ノエル・キャロル『ホラーの哲学』の翻訳が出ます。発売日は2022年9月24日です。

filmart.co.jp

ユリイカ2022年9月号 特集=Jホラーの現在にも書いています。

www.seidosha.co.jp

ついに表紙画像が出ました。ごくまれにノイズの部分に人の顔が見えることがあり、顔を見てしまったら、最後まで読んで感想をネットにアップしないと大変なことになるという都市伝説があったりなかったりするらしいです。

関連書籍の紹介

今回は関連書籍の紹介をします。

戸田山和久『恐怖の哲学』では、II部で『ホラーの哲学』が扱われています。本書に登場する「ホラーのパラドックス」「フィクションのパラドックス」にも、それぞれ独自の仕方で取り組んでいます。最近改めて読み直していて、キャロルと戸田山はホラーの定義が違っており、関心もかなり異なる部分があるなと思ったんですが*1、いずれにしても『ホラーの哲学』をこんなに大々的に紹介している本は他にないので、『ホラーの哲学』に興味をもった人にはおすすめです。

キャロルとの違いは、『恐怖の哲学』の方が、感情の哲学を手厚く扱っており、近年の展開まで紹介されている点です。『ホラーの哲学』は感情の哲学部分がやや古かったり、導入が親切でない部分もあるので、本書が良い補完になるでしょう。

『感情の哲学入門講義』は講義形式の感情の哲学の入門書です。感情の哲学全般の親切丁寧な紹介になっている上、第12講では「ホラーのパラドックス」を一般化した「負の感情のパラドックス」が扱われていたり、第13講では「フィクションのパラドックス」が扱われているので、やはり『ホラーの哲学』の良い導入になるでしょう。

『ホラーは誘う』は去年翻訳が出た著作で、わたしも最近知ったんですが、ホラーに関する研究書です。「ホラーはさそう」ではなく「ホラーはいざなう」と読みます。著者は、デンマークの研究者で、進化心理学を取り入れた文学研究(進化論批評evolutionary criticism)の人らしいです。ホラーの魅力を進化心理学などの観点から説明しようというスタンスです。キャロルとはまたアプローチが違いますが、キャロル『ホラーの哲学』も要所要所で出てきます。

いずれにしても、ホラーを扱った学術研究はまだまだ貴重なので、『ホラーの哲学』と合わせて読むと良いのではないでしょうか。

本書に出てくるホラー作品の紹介コーナー

ジョン・カーペンター監督の『遊星からの物体X』(1982)を紹介します。リメイク元の『遊星よりの物体X』(1951)とともに、本書では何度か登場します。

キャロルはこの映画のようなジャンルを「小隊ものモンスター映画platoon monster film」などと呼んでいます。「小隊もの」は、軍隊などの小グループが、遭難などで孤立したところをモンスターに襲われるというジャンルらしいです。どれくらい一般的な言葉なのかはわかりませんが(むしろ、ほとんど使われてなさそうですが)言われれば確かにそのジャンルはありますね(『エイリアン』など)。

個人的には『エイリアン』一作目も本作もかなり好きなんですが、『エイリアン』の方は、あのエイリアンのデザインが有名になりすぎたことでだいぶ損をしていると思います。『エイリアン』一作目では、エイリアンの成体が本格的に登場するまでかなり引っ張っており、予備知識なしで「アレ」を見た人は相当な衝撃だったと思うんですが、残念ながら現在その衝撃を追体験するのは難しくなっています(これは『リング』などにも同じことが言えますが)。

一方、本作の宇宙生物は、そもそもあまり具体的な形がないせいもあってか、そんなにネタバレ感はないと思うんですね。むしろ、元ネタを明らかにしない形で、さまざまな後続作品に真似られているので、はじめて見たときは、過去見たさまざまな作品(『寄生獣』など)の謎が急に解けたような気持ちになりました。

余談ですが、SF作家のピーター・ワッツが物体X視点の短編(「遊星からの物体Xの回想」)を書いており、この辺りの作品を読むと、本作がいかに愛されているかということがよくわかります。

*1:やわらかく書くと、キャロルはオバケが出ないものはホラーではないと考えていて、戸田山はいわゆる「ヒトコワ」もホラーに含めている。また、戸田山はホラーそのものより、あくまで感情に興味があって、その題材としてホラーを選んでいるという違いも感じます。